祖母が遺してくれた「歴史」

(2008年4月22日)

父方の祖母が亡くなってから今年で15年になります。

祖母の死去後遺品を整理していたときに、古い新聞の束が見つかりました。見ると、世の中に大きな出来事がある毎に、それを報じたその日の新聞を保存しておいたものらしく、大きな見出し記事の載った新聞がごろごろ出てきたわけです。三河島での通勤列車事故、皇太子(今上天皇)ご婚約&ご結婚、東京オリンピック、アポロの月着陸、その他諸々、祖母はそれなりにニュースバリューのあるものについては捨てずに保存していたようなのです。

中には「若王子さん誘拐」のような、今となっては全くといっていいほど取り上げられないニュースもありますが(あの「指を折り曲げた状態で撮られた写真」、覚えている人はわたしと同年代かそれ以上?)、保存するか否かの価値判断は当時の祖母が決めていたのだからまあそれはいいことです(そういえば若王子さんもしばらく前に亡くなられたと小さく取り上げられていたっけ)。しかし1964年生まれで、つい数十年前の衝撃の歴史のほとんどを「授業」でしか習った(知った)ことのない自分が、それぞれの記事を見てそれぞれに心打たれたのも事実です(当時はまだ20代で若かったし。まさかその後自分が「ラバウル航空基地跡地」に行くような旅行者になるとは思いもしませんでしたね(笑))。

というわけで、ずっとお蔵入りしていたこれらの新聞のうち、今回は第二次大戦前後のものを見ていただくことといたしましょう。

実は一番古いものは第二次大戦末期のものなのですが、これだけは唯一、「新聞」ではありません。あえていうなら「空から降ってきた新聞」とでもいいましょうか、米軍が日本人(特に民間人)の士気を鈍らせ厭戦心理に持ち込むことを目的にしたと思われる空中撒布の宣伝ビラです。ほぼB6版サイズの紙に写真入りで両面印刷、しかも後に出てくる日本の新聞よりもはるかに良質の紙を使っています。やっぱり物の質の点で全然違いますね。


(表面)


(裏面)

こちらをクリックするとこのページ内全画像の拡大版ウィンドウが開きます。

「ナチス獨逸は壊滅せり」とありますから、これがまさに戦争最末期に撒かれたものであるのは確かでしょう。わたしは素人なりにそこそこ太平洋戦争にかかわる本を読んではいるつもりですが、その知識を以てこの文章を読んでいると、真珠湾やサイパンやニューギニア、そしてインパールで起きたことを思い出してしみじみとしてしまいます。それは「どっちがどう勝ったか負けたか」を覚える「試験のための知識」とは明らかに一線を画するものです。

ずっと以前にアップしたタイ関係のページで、クワイ川(「戦場に架ける橋」の部隊になった場所)のそばにある茅葺きの「戦争博物館」の訪問記を書いたことがあります。確かあの手作りとも思える博物館の入口には「Forgive, But Never Forget(許します、しかし決して忘れません)」の文字が綴られていたことを思い出します。

かの戦争で「どちらが正しくどちらが間違っていたのか」を問うことは全く意味がありません。絶対善や絶対悪というものはこの世に存在しないと考えます(仏教徒および多神教の権化ともいえる神道信奉者の立場からとご理解下さい)。

それぞれの軍隊、及びそれを支える様々な人々はその当時考えられる最高の「価値=意味」を生むであろう行動をとったのであり、現在客観的に考察してみれば(この場合の「客観的」というのは「当時の人たちの置かれた状況や価値観等を全く無視した」という意味です)「そんな行動や作戦を行うべきではなかった」と好き勝手に言い放つこともできます。しかしそういう方々に言いたい。

もしその自信があるとすれば、その人は根拠のない無謀な自信家と言うしかないでしょう。マハトマ・ガンジーのような非暴力活動家もいるじゃないかという方、彼はインド社会がどうしようもない搾取地獄&逼迫した状況下においてそれを唱えたからこそ、それに賛同する人々を自身の力になしえたわけです。翻って今の日本に「ガソリンが高いよ、バターが品薄だよ」と不満を発しているレベルの人々が、「日本国の解体&再構築」までを望むでしょうか?そうは思えません(笑)。

話がかなーりそれました(大苦笑)。とにかく、どちらがどうというイエスノーの二者択一を問うこのビラにしみじみとしてしまうTakemaなのであります。さて続いてはこちら。



こちらをクリックするとこのページ内全画像の拡大版ウィンドウが開きます。

昭和20年8月15日の東京新聞です。ちなみにこの日の何時ごろに祖父か祖母がこの新聞を入手したのかはわかりませんが(戦争末期は各戸配送システムは機能していたのか否か、はたまたそのようなシステムがあったのかさえ不明ですので)、とにかくまがりなりにも新聞を手に入れられる環境(空襲地域外)であったのは確かです。当時は父も含めて西東京に住んでいたそうですから。

しかし上の撒布ビラに比べるとだいぶへたった紙質です。ちなみに紙面は4面=たったの1枚、しかももちろんこの1面は今のスクープというか「急いで1面差し替え!」にあたるものだったでしょうから、1面トップ以外の記事は「終戦を予期していない記事」がたっぷり。たとえばこの日の紙面には九十九里浜の地引き網の様子も写真入りで掲載されているんですが、終戦の日の新聞に地引き網?この違和感が何ともいえません。さらには「戦時債権償還のお知らせ」などという公告もあったりして、その債権は‥おそらく紙くずになったんでしょうね。

さてそして今回最後の記事はというと‥「号外」です。



こちらをクリックするとこのページ内全画像の拡大版ウィンドウが開きます。

うわー、東京裁判の判決が出た直後に出されたであろう号外ですね。A4版くらいのたった1枚のビラのようなものですが、これはすごいぞ。

ちなみに祖父か祖母により、「絞首刑」の判決が出た7名には「レ(チェックマーク)」が付けられています。祖父・祖母どちらが付けたのかはもはやわからないにしろ(それを一番判断できたはずの父も数年前に他界しています)、この「レ」マークはあまりにもインパクトあるものとして自分の心に残されました。このマークを付けた時の祖父や祖母の気持ちや如何に?

ところで、祖母の保存新聞は「天皇陛下崩御」で終わっていました。明治最末期に生まれた祖母が大人として生きた時代、それはまさに「戦後の昭和」だったのでしょう。

父や母、そして孫の自分たちに遺してくれたこの新聞は、自分にとっての宝物です。でもだからこそ「自分だけの宝」にしたくないと思いここで公開しました。資料的な価値は大してないと思いますが、このような資料を見たことがない方(特に若い方)にとってはいろいろな意味で興味があるのではないかと期待しつつ。

[戻る]