2011年3月11日(東北太平洋大地震)
午前1時、東京方面は依然渋滞(空いてるように見えるのはTakemaが車間をあけたため)、このあと究極の裏道行動に入りました(笑)。
[おことわり]
3/11の地震直後からタイプし始めたこのページですが、ここ10日以上の中であまりにも激しく状況が変化しその都度文章を書き加えていったことから、話が脈絡無く進んでおりまとまりが全くありません(特に後半)。しかしこれも「地震直後のTakema的混乱なのだと思って」いただけると信じ、そのままアップすることにしました。何とぞご了承下さいませ。
(2011年3月24日作成)
まず最初に、今回の天災にて不幸にも亡くなられた方々に衷心からご冥福をお祈り申し上げます。そして避難できた方々におかれましても、多大なる損害を被られたであろうことをお悔やみ申し上げます。今後新たな生活を始めていくにあたり様々な苦難が待ち受けていることは想像に難くありません。国や県単位で行われる復興援助もあることでしょうが、それとは別に市民レベルで今後助け合っていけることもあるはずです。状況が落ち着いたら是非ネット上に声を上げてください。われわれに出来ることには限りがあるかも知れませんが、でも何か出来ることは常にあるはずです。
ちなみにわたしは千葉県北西部の市川市在住ゆえ人的およびライフラインの切断等の被害はなかったのですが、ここで市川近辺での「311震災」前後をふり返ってみようと思います。もちろん福島第一原発では今もまだ懸命の防禦作業が続いており、その結果如何によってはそれこそ今後さらなる事態に陥る可能性もないわけではありません。現場で命がけの作業をなさっておられる関係各位には、まさに無事に作業を完遂下さることをお願い申し上げるしかないのですから。
地震前日の3月10日。夕刻に帰ってきてから屋上で鉢植えのフキノトウ(こんなの鉢植えにしているお宅は滅多にないと思いますが)と、同じく鉢植え(大鉢)のサクランボの蕾を撮影しました。今年はサクランボの花も多いようなので「少しは食べられる実が付くかな」と期待しつつ‥。
明けて3/11。この日は普通勤務の日だったのですが、14:46にあの「悪夢の揺れ」が起こったわけです。
しかしその揺れそのものは、かつての千葉東方沖地震(1987)当時に自分が木更津エリアで感じた揺れとは大きく異なり「あーこれは何とかなるかな」という感じでした。たぶんかつての地震時にいた現地建物の造りが華奢(きゃしゃ)だったことも関係していたと思われますし(笑)、震源が遠いことを示す横揺れだけしかなかったこともかなりの安心材料でありました。
その時同じ部屋にいた上司は「どうしよう、これはまずそうなんじゃないか?」と言っていましたが、あのーそうおっしゃっていた上司氏、荷物がたくさん載せられている細身背高ロッカーを背にしてのその発言は一番まずいんじゃないですか?(笑)。
そういっている間にも横揺れが徐々に激しくなってきたので、「はい、全員廊下に移動しましょう、壁でも手すりでもいいから固定物で身体を支えてくださいね」と、いとも冷静に指示していたTakemaです(これはホント)。このあとさらに揺れが強くなったのですが、この時の自分の冷静さっていったいナニ?(笑)。
揺れがほぼ収まってきたところで建物内を点検したところ、建物の躯体そのものには何らの影響もありませんでした(接合部の細かなズレとかはしょうがないものですがなぜかツッコム人多し。あのー、ここの遊びがあるから躯体に影響が出ないんですよ!)。しかし職場内には地震当時70人以上がおり、あちゃー全員帰宅難民?
もちろん鉄道も何も動いているはずはありません。しかしわが職場の電話回線の1つが「災害時優先番号」に登録されていたことにより、数時間かかりましたが何とか必要な安否確認連絡を全て終えることが出来ました。あ、以下はある種の手柄話なのですが(苦笑)、Takemaは数年前に「ここの登録電話の1つを災害時優先電話として登録出来ませんかね?」と事務局側にお願い系ねじ込みをしていたわけです。今回これが功を奏して!ヨカッタ!
そんなわけでまずは希望する方々の電話はOKとなりました‥が。
まずは車の機動力を生かして近くのスーパーやコンビニをめぐりとりあえず「1人1食」は確保。こういう時はスピードが物を言いますね。コンビニではまだおにぎりやパン、飲み物が普通に売られている状態でした。もちろんこの時はGSも普通に営業していましたし誰も給油していませんでしたっけ。
そんなわけで「お泊まり」の皆さまには申しわけありませんが、女性4人を浦安・津田沼方面に送り届けることに。全体に声を掛けると収拾がつかなくなること必定なので(だってフォレスターは5人しか乗れないんです)直接関係するメンバーだけに声を掛けてゴメンナサイ(笑)。泊まりとなる諸氏にあとを託し(もちろん上司には許可を得ています)、いよいよ「この夜だけの千日回峰行」が始まります(苦笑)。出発は17:00ころだったかな、帰るのも大変だったのよ(笑)。
国道14号まで南下してくると上下線とも大渋滞。しかしこの国道が混んでいることは事前に予想していたのでしょうがないです。忍耐約10分で京葉道の市川IC方面に右折すると、あれれガラガラ。新行徳橋を越えて浦安方面へ向かう片側2車線路はまさにスイスイ。しかし‥
うわー逆方向でヨカッタ。そんなわけで行徳・浦安方面在住者の3人を順調に下ろし、あとは津田沼の1人だけなのですが‥。うっはーっ!
まぁ幸いメインの地震から数時間経っていることもあって新たな砂や水の噴出等は収まっているようでした。でも電話ボックスは斜めになってたぞ。
で、ここから津田沼方面といえば高速湾岸線沿いのR357が常道なのですが、新浦安エリアからはこりゃーひどい系の大渋滞というかピクリとも動いてません。しょうがないのでさらに海側の平行路に出てみると(カーナビは有り難いですなー)、おおぅ、R357と平行する道をどんどん行かれるではありませんか、多少の泥道とともに!(笑)。
しかしさすがに行き止まりでR357方面へ戻らなくちゃいけません。しかしR357への流入路は‥やはりピクリとも動いていない様子。しかもここまででかなりのロスタイムがあったこともあり、いったん車をTakema家方面に戻すことにしました(「同乗の女性に夕ご飯を食べさせなきゃ」という優しい心もありましたっけ)。
新行徳橋界隈ではとにかく裏道でうろうろして(ちょっと道を間違えて「1歩進んで3歩下がった」感もありましたがご愛敬)、でも橋上は平均時速2-3km/hで車列がじわじわ進んでいたのでまだラッキーでした。市川IC手前で超裏道行動を開始し、究極のアンダーパス、しかも幅がミラーぎりぎりのすごいところを通り抜けたりしてとりあえずTakema宅到着。おしんこどんが夕食を作ってくれていたんですが、「すまん、蒸し鶏の味が薄すぎる!」。こういう緊張時はたぶん濃い味の方がいいのでしょう、自分もかの女性もちょっとしか食べられませんでした。醤油かければヨカッタかも。
で、22:00頃に再度津田沼に向けて出発です。しかし市川から津田沼方面ならいくらでも裏道という名の細道があります!(浦安方面は基本的に埋め立て地なのでボトルネックとして「橋」で渋滞していたわけです)。まずはTakema自宅のネットで大まかな情報を確認してみると‥
というわけでR14をほぼ突っ切る形で北側へ。ここで驚いたのが木下(きおろし)街道の上り線大渋滞とわれらが下り線のガラガラ度。やはりこのエリアはR14の未整備に大きな問題があるのだということがよくわかります。市川−習志野まで片側1車線って何とかしようよー。
そんなわけで「裏の裏の裏道」をつなぎまくった上で津田沼の女性ご自宅に到着したのは23:57くらいでした。よっしゃ、これでTakema本日のミッションはクリア、「あとは帰るだけ」ではあります。
さてしかし、ここに来るまでに東京方面のR14に接続する国道なり県道なりはとにかくとことん混雑していることを確認していたわけですし、津田沼(北部)からほんの20mくらいR297を走って裏道に入ろうと思っていたのですが‥
たぶんその「進行」は、車列に並んでいた車が方向転換したことによってじわじわ進んだということなんでしょうね。でも、何とか裏道に入れたのでここからは行くぞー!しかも同時に曲がった先行車は地元のタクシーで、「先導よろしく御願いいたします!」という感じです。ナビを見ながらではありますが、「ほほー、そっちに行くの、あ、なるほど!」と勉強になりました(笑)。
しかしいよいよ行き詰まりました(左上画像)。まだ船橋駅よりちょっと東寄りだなぁと思っていたので、ここらで北回りルートを取ることに。とはいえもちろん走ったことのないルートですが、ここまでのナビ表示により何となく勘がつかめましたんで。というわけで細道表示に入っていくと‥おお、スゲーっ!
ほんの100m南側くらいを並行して走る舗装路には「ピクリとも動かない車列」があるのに対して、こちらは真っ暗ダートを約60km/hで砂煙を上げながら驀進!(笑)。舗装路からは建物が目隠しになっているのでほとんど死角ですし、そもそもここにこんな道があるとは!というわけでかなーり距離を稼ぐことができました。そして、再びR14に続く県道へ。しかしこの道もまたR14方面は全然動いていません。よってここでもあえて自宅とは反対方面に逆走し、裏道をつないで何とか西船橋近くへ。
ここでナビを最詳細モードにしてよーっく見ると「ん?こんな細道の先にJRの線路を越えるアンダーパスがある?」。この界隈は結構走っているつもりだったのに全然知りませんでした。そんなわけで総武線の南側に出てしまえばもうこっちのもの(笑)。というわけで家に到着したのは午前2時を回った頃でしたが、裏道をつないで走ってこなければ所要時間は軽くこの倍くらい(たぶん4時間くらい)かかっていたことでしょう。
地震の翌々日、サクランボの花が開花し始めてました。桃の花も間もなく開花。
さてそして、週が明けた月曜日からは計画停電がスタート。数時間単位の停電っていったいいつ以来でしょ?自分の住んでいる地域がどのグループに属しているのかが「停電してみなきゃわからない」というまさにロシアンルーレットみたいなスタートでしたが(同じ丁目でもグループが分かれているので)、結果としてTakema家は第2グループに属しているということが判明。
幸いわが家にはキャンプ用のガスランタンがいくつもあり、またそれ用のガスも大量にあるので夜の停電にも十分対応できます(実は結構心配性なのでカセットガスは常時多めに備蓄しています。今回の地震時には普段よりちょっと少ないくらいの6缶ちょいがありました)。母の住む階にも自動点火式のガスランタンを運んで使い方を教え、これで準備万端です(しかし暗くなってから行ってみたら使ってませんでしたが(笑))。
この日は夕方前から停電したので、せっかくならというわけで屋上に上がってその風景を撮影することにしたわけです。
駅近くの高層マンション、階段で上がるのは大変そう。
夕闇迫る中、屋上に設置されたボーリングのピンが何だか悲しい‥。
そんなわけで自前電源を持つか、または豊富なキャンプ関係用品を所有する一部の家(あ、うちか(笑))を除きほぼ全ての家々の窓から灯りが消えてしまいました。この停電は徹底していて、マンションのエレベーターなどはもちろんのこと、重要な社会インフラである道路の信号、そして街灯に至るまでもが全てが消えてしまっていたわけです。これはこれでかなりシュールな世界でありました。
東京電力のサイトには計画停電の予定を示したページがありますが(上記画像)、この通りに停電させるわけではない(状況によっては実施しないこともある)というのがややこしいところです。今日現在では停電地域を5グループに分けていますが、東電によると近日中に「25グループに細分化させる」ということのようで、そうなってくると‥
やがて停電時間が終了し、パチンと電気が復活しました。ようやく普段の夜と同じになったわけです。今このページを作っているのは上記の計画停電当日から何日か経っているのですが、電気が通電していても周辺の広告看板照明はほぼ全て消されており(近くの大規模SCも最小限の灯りで営業)、屋上から見えている広告用ネオンといえば、わずかに「ラブ注入系ホテル」の1つだけかな(そのネオンも元々そんなに明るくはないんですが)。
あ、さっき見てみたらかのホテルもネオンを消灯していました。やるなー(笑)。
しかし、今は一番電力需要が少ない時期のようですから計画停電でまだ何とかなってますが(現状の予想需要は3700-3800万Kw)、これが夏場ともなると6000万Kwを超えることもあるわけですから抜本的な対策を‥って、対策工事の時間がもう無い(厳しい現実)。このまま進めば今夏、下手をしなくても熱中症でダウンする人が続出しそうです。農家の方には申しわけありませんが、せめて‥
ところで今回、三陸沖の震源から遠く離れた千葉県市川市在住のTakemaではありますが、当日の夜にたまたま通ったお隣の浦安市の一部地域では深刻な液状化被害によりいまだに上下水道が市内の3/4のエリアで機能しておらず、復旧の目途もまだ立っていないようなのです(3/23現在)。それなのに計画停電エリアに組み込まれ、今日も「19:00-22:00の間で停電します」っていったい何なのさ!被災地は止めちゃダメ!一方で被害のほとんど無い23区も停電エリアに加えなければ根本の問題は解決しません!
某マスコミグループ総帥のナベツネくんは「ドームは何も問題ないんだからやればいいんだよ、やらんってやつは勝手にしろ!」というようなことを話していましたが、その発言はこれまで以上に「あんたさんグループの敵」を増やすだけですよ。なぜ「ドームでやらねばならない」のか?電力問題のない西日本にしばらくベースを移してのナイターをできないものなのでしょうか?(あ、パリーグを見下してるから出来ない?)。ん?ということはまさか真夏もドームでやろうとは考えて‥いそうですな(苦笑)。だったら文京区も計画停電だっ!(これは夏に向けて考えられているようですが)。
ならば「今のところまだお金持ちのY売グループ」の総力を結集し、今のうちに「ドーム設備全電力をまかなえる自家発電装置」の大至急なる導入を切に願う次第です。地球温暖化には逆行するかも知れませんが状況を鑑みればやむを得ないでしょうし、「さすがナベツネくん、やることが違う!」とお株が上がること請け合いです(笑)。もちろん供給余力の分は東電に売電OKよん(笑)。
被災地はもちろんのこと、原発を含めて東日本全体でまだまだ先の見えない状況は当面続きそうですし(原発関連については長くなるのであえて書きません)、また様々な復興には5-10年以上がかかるのではないかと思われます。しかし、2/22にNZクライストチャーチ地震の1ヶ月後に行われたメモリアルサービス(The National Christchurch Memorial Service)関係の動画はわれわれの励みになります。TV3Newsサイト内の該当ページはこちらです
地震の規模も人的被害の規模も、「今となっては」確かに小さかったクライストチャーチ大地震ではありますが、あの地震被害をみて多くのわれわれ日本人が涙したことを忘れてはいけません。そしてそれは忘れかけられているハイチ大地震、さらには2004年、M9.3もの巨大地震に見舞われたスマトラ島沖地震及びそれによるあの大津波にも言えることです。
「復興」とはあくまで生活インフラおよび「そこに住む人々の生活が一定の安定状態になる」ことを意味していると理解しています。しかしそれはあくまで「見た目=外見上の復興」であり、心に傷を受けた人々がその点で「精神的復興」に行き着くことはあり得ません。平穏な日々に戻ったように見える人々は、ただ「心の傷の痛みと折り合いをつけながら何とかやっている」のだと思います。阪神淡路も、スマトラもハイチも、そしてクライストチャーチも東北関東地震の数多き被災者の皆さんも。
しかしそうするしかないのであれば、どこかでけじめをつけなければなりません。3/23現在ではクライストチャーチもまだまだ復興途上のようですが、その途中段階での「けじめ」という意味において上記のビデオが示唆してくれるものは大きいのではないかと思います。
はっきりしているのは、まだまだ復興までには途方もない時間がかかるということだけです。でも、今日TVで見ていた中、中国人の研修生の女性陣に、
そうおっしゃっていた地元水産会社の社長さんの姿が印象的でした。Takemaの中で勝手に「10年はかかるかな」と思っていたところで「5年!」と言い切った!そう、そんな目標と気概がなければ復興など成り立たないわけです!
宮城や岩手の太平洋沿岸地域、そしてもちろん福島第一原発エリアの双葉町や浪江町周辺に住まわれていた方々にはあらためて衷心よりお見舞い申し上げます。そして近い将来、新たな町作り産業作り雇用作りを踏まえた「復興」が軌道に乗ることを期待しています。3/23現在、日本赤十字社への募金だけでも200億円を優に超え、隣国台湾のTV募金活動も20億円をはるかに超えている‥そしてその他各国の募金、そして世界各地域1人1人の祈りを考えれば‥