こちらが三島村民の足、「フェリーみしま」。
なんと2001年10月に就航したばかりの、まさにピカピカの船でした。


三島村は、竹島、硫黄島、黒島の3有人島といくつかの岩礁からなる離島の村です。面積は3島合わせても約31平方キロ、人口は400人あまりといいますから、どうみても大きな村とはいえません。でもその一方で、中村勘九郎を招へいして人口わずか140人の硫黄島で歌舞伎「俊寛 平家女護島」を上演するなど、「やる気に満ちた島」でもあるのですね。で、それぞれの島やら何やらを調べているうちに、自分よりもはるかにこの村について詳しい方がHP上で紹介なさっているのを知りましたので、詳しくはこちらのページ(「三島村の紹介」)をご覧下さい。で、わたしゃただの旅行者の立場から感じたことだけを書き記すことにします。なお2002年1月現在、三島村の公式ホームページはありません。


この地図は三島村発行の観光パンフレットから転載させていただきました。

さて、「硫黄島に行こう!」と思い立っていろいろ調べていくうち、「なぜこの村の役場は鹿児島市にあるんだろう」と最初の疑問を持ちました。さてはそれぞれの島のなわばり争いのなれの果てに「じゃ、三方一両損ということで、いっそのことどこの島でもない鹿児島市の港近くに作ればな〜んも文句はないだろが。どうせ各島を回るフェリーは鹿児島港発着なんだし」といった感じのやりとりというか駆け引きがあったんじゃないか。一時はそんな勝手な想像もしていました。しかし、どうやら話はもっと複雑なようなんです。

今でこそ三島からなる三島村ですが、もともとは現十島村(トカラ列島の島々)と一緒の行政区分に属していたそうなのですね。しかし敗戦後しばらくは屋久島がいわゆる「日本の最南端」ということになり(ただし行政区分は三島村とは別)、当然三島村は日本の領土内、トカラ列島はアメリカの統治下に置かれたようなのです。そしてトカラ列島の日本復帰後も、この三島は現十島村との再合併の道を選択することなく独立の道を選び、今に至っているそうなのです。沖縄とは違い戦後すぐに返還が行われたトカラとこの三島の間にどのような意識及び確執があったのかはわかりません。ただ、かつてそれぞれの村が所属していた郡役所が鹿児島市にあったから、その発想の延長上に「村役場=鹿児島市内でいこう」という流れがあったのかもしれません。

自分が泊まっていた宿にあった「三島村史」という厚ぼったい本(「○○史」なんて本は厚いのがあたりまえですが)をめくってみても、この辺の流れについての説明はありませんでした。ただ「三島をして一つの村となさしめる気運が高まり云々」というような記述(言い回しは全く別ですが、印象として)がさらりと書かれていただけです(いい加減に見てたからだろ!)。ただ、同様に日本復帰後に独立した十島村の役場も、やはり三島村役場からほど近い鹿児島港付近にありますから、上記の推測もあながち的外れというわけではないのかもしれません(事情に詳しい方々、真相をお知らせ願えれば幸いです)。


というわけで、各島には役場の出張所があります。実質的(日常的)な業務はそれぞれの出張所で行い、鹿児島の役場では統括的な仕事を行っていると思われますが(ちなみに役場に電話したときは、応対してくださった女性の方のことばの味わいに「鹿児島市内にあるとはいえ、やはり島の役場なんだなあ」と、いい意味でしっかり実感させていただきました)。島では一人何役というのがあたりまえのようで、硫黄島では5役(もしくはそれ以上)をも兼任していらっしゃる方をお見受けしました。そうだよなあ、人口140人(しかも働き盛りの人となるともっと少ないはず)で全ての島の業務をこなすわけで、みなで助け合わなきゃ暮らしがうまく回らないはず。

しかし、旅行者として些細なことながらふと気になることが(全然大したことじゃないんですが)。

役場の職員の人たちは、当然鹿児島市在住であるわけで(毎日船が出ているわけではないですからね)、そうなると下手をすれば「三島村役場職員=全員が鹿児島市に住民登録=鹿児島市民」なんてこともあるのかもしれない。そうなると、それもまた何とも不思議なことだなあと思わざるを得ないことなのですね。もっともこの文章を打ち込んでいるうちに「こりゃどう見たって『特例』扱いになっているに違いない」と思ったのではありますが。



ところでこの島にはかつて硫黄の採掘場があり、そのためかつては多くの労働者で賑わっていたそうですが、今は珪石(ガラスの原料)の採掘が一部で行われているだけです。その現場(硫黄岳山頂付近)に行くための道は、いまでこそ8合目に展望台(とはいってもこじんまりとした見晴台があるだけ)ができていてそこまでは車で自由に上がれるにしろ、その道たるやかなりの難工事を彷彿とさせるシロモノで、これだけでも往年のきびしい作業がしのばれるというものでした。

島の西部には、わずかな斜面を生かした黒毛和牛の放牧地があります。この島に移り住んできたご家族が奮闘努力されているということで、もちろん肉骨粉などとは無縁の育て方をされているのは当然でしょうが、昨今の牛肉をめぐる騒動がこの島にも少なからず影響を及ぼしているのかと思うと残念な限りです。

 

(左)はるかに海を望む放牧場(遠景の島は黒島)でゆったりと育てられる牛たち。
(右)ゆったりとくつろぐ子牛たち。

あとは‥。漁業はさして盛んではないようで、確かに港にも漁船の姿は数えるほどしかありませんでした。港内の海の色を見てもわかるとおり(あとのページで出てきます)、この島周辺の海中からは鉄分や硫黄分などを含んだ水やお湯が噴出していますから、思ったほどには魚がいないそうなのですね。宜なるかな火山島。港の埠頭で30cm強の魚を釣り上げている地元の人の姿もありましたが、夕食のおかず程度ならともかくそれで生計を立てていくとなると簡単なことではないということなのでしょう。

そうそう、火山学?的にはこの島はかなり重要な存在のようで、このエリア自体が直径20km弱の巨大なカルデラということらしく(硫黄島や竹島はその外輪山だといいます)何でも約6300年前にこの島を含むエリアでものすごい大爆発が起こり、山を流れ下った火砕流は一気に海を越えて屋久島まで到達しかの地の森林を焼き払った、ゆえに縄文杉は今言われているような長寿を誇る木ではない!という説まであるようです(ついでに、北の方向に流れた火砕流は大隅半島の縄文人達に壊滅的な被害をもたらしたらしい)。「硫黄岳」などのキーワードでHPを検索すると火山学会や気象庁関係とおぼしきHPが数多くヒットするのは、やはり火山としてのこの島の重要性を示すものであるのでしょう。ただしあくまで私のこの記述は門外漢が印象や記憶を便りに綴ったものですから、詳しいことについてはその方面の文献等を調べてみてください。Yoichi先生、間違いがあったらこっそり教えてください(笑)。

火山があれば温泉がつきものというわけで、島にはいくつもの温泉(整備されているところもいないところも含めて)があり、旅行者としては嬉しい限りです。しかもさして観光客も多くない場所ですから、今回温泉通の間で全国ベスト5以内にランクされるという無料露天風呂を訪れたときも、まぁ見事に貸し切り状態。こりゃまたいいですなあ的気分を満喫したのでありました。



そして歴史的には、平安末期にあの「俊寛僧都ほか二名」が平家打倒を企てた咎(とが)としてこの島に流罪になり、僧都が失意のうちにこの島で37年の短き一生終えたという悲しき伝説を持つ島でもあるわけです。詳細はあとのほうのページで書くとして、それだからこそ平成8年5月22日、中村勘九郎らによってこの島で上演された歌舞伎「俊寛 -平家女護島-」のような大きなイベントもあったわけですね。しかも、この島の伝承にはあの壇ノ浦の合戦で入水したとされる安徳天皇にまつわる逸話もあり、天皇の墓まであるというのですから、これはまた歴史マニアにはたまらない島でもあるのですね。

※ ただし俊寛僧都が流罪にあったのは、より南方の喜界島であるという説もあり、それぞれに確証はないようです。さらには壇ノ浦で幼い命を落としたとされる安徳天皇までもがこの地に落ち延びたという伝説に至っては、さらに「歴史的ロマン」の世界なのかもしれません。


このように、火山学者、歴史学者、温泉マニア、離島マニアその他もろもろの人々を引きつけてやまない?硫黄島。この島へのアクセスについて、次のページで紹介します。