−その7 陸前高田市の復興事業がとてつもない規模で動いてる!−



2014/7現在、陸前高田市旧市街地は巨大プロジェクトXが進行中でありました!

(2014/7/28 その3)

旧市街地海側に屹立するベルトコンベアの列!これが陸前高田市が選択した「復興への道」なのです。

ガイドさんの話によると、旧市街地をかさ上げするのに近隣の山を切り崩して、現場で破砕した土砂を専用ベルトコンベア(総延長3000m)で市街地まで直接運んでいるのだとか。これにより、ダンプだけで土を運ぶと10年かかるという工期をたった3年に短縮できるのだそうです(現地被災者の方々にとって「たった3年」という表現は必ずしも適切ではないかも知れません。しかし拙サイトの読者は圧倒的に非被災者であるはずなのであえてこう書きます)。

で、山と旧市街地の間に流れる気仙川にはコンベア専用の吊り橋「希望のかけはし」まで架けられ(国道橋はまだ仮設なのに)、上画像のようにすでに稼働しています。ちなみにこのコンベア施設建造の総事業費は120億円だったのだとか。

で、このページをタイプする上でいろいろ調べてみたら、このプロジェクトの壮大さが分かってきました。その例をいくつか挙げるならば‥

そのほかにもいろいろとデータがありましたがまぁいいでしょう。その一方で、こういう時には必ずや目にせざるを得ない「口は出すけど決して手を差し伸べようとはしない」ネット住民の言葉には腹が立ちます。「無駄だ」「過疎地域だし整備してもどうせ住民は戻らない」云々‥他人事の極致‥


かさ上げエリアの地盤の弱さを理論武装して意気軒昂に語る輩もいたりしますが、ならば聞く、君はこの地をどうするべきだったというのか。他に方法はあったというのか。この地で生まれ育ち、そしてこの地で最期の時を迎えたいと考える方々にも納得してもらえるような絶妙な腹案があったというのか!(もしあったというのなら、それを提案しなかった君は不作為の作為という罪を犯したことになる!)。

120億円という巨費(これは間違いないです)だけを念頭に「ここを復興させようとするお金の使い道は間違っている」という人もいるようです。確かに過疎進行中だった三陸地域がこの災害によってさらに人口を減らしているのは間違いない事実ではあります。でも、たとえばコストパフォーマンスという一つの経済的尺度だけで物事を捉えるという手法にはおのずと限界があります。そこには「人の心」がありません。

かの震災後3年半が経とうとしている今でも、ことあるごとに行方不明者の捜索を続けているこの日本。アメリカではミャンマーの政治民主化が動きを見せるやいなや「過去の戦争により現地で死を遂げたアメリカ兵の捜索」をすぐさま要請したそうです。国家は国民に責任を持ち、それゆえ国民は国家に従うというあたりまえの事実。国民の死に国家がお金をかけることは果たして「無駄」なのでしょうか?答えは明らかに「否」であると考えます(ただしその意味で、戦後の日本国はまだ完全なる国家たりえていません。南太平洋及びインパールほかのアジアの森には、今も数多くのわれわれのご先祖が祖国に帰れぬまま眠っておられます)。
うーん、いつもの通りまたも旅行記の本筋からでんぐりがえってバック転してしまったので話を戻しましょう。というか、いつもとは違い思うところ大の旅行なのでなかなか先に進みませんがお許しを。

そんなわけでベルトコンベアです。右上画像のように途中には分岐があって、旧市街地各所でのかさ上げを同時進行で進めるということのようです。ちなみに稼働が開始されたのは2014年7月(つまりこの旅行で訪問した同じ月)とのことですが、とあるサイトによると「2015年中にかさ上げ用の土砂搬入を終わらせる予定」ともあります(信憑性については未確認)。

3年にせよ1年半にせよ、ものすごいスピードです。次回ここを訪問するときにはこの場所の様子も大きく様変わりしているんだろうなぁ。そしてその時、今回われわれが車を走らせたり歩いたりした場所は地下10m以上の深さに埋もれていることになるわけで‥いやわれわれはどうでもいいんです。ここに住まわれていた人の営みやその記憶さえ地中に埋もれてしまう、その哀しみに比べれば‥


あの山が切り崩されて、その土砂は地上20mくらいの中空を進み、



国道を横断し、いくつもの分岐を経たうえで‥



このように怒涛の勢いで旧市街地に注がれていくというわけです。
さて続いては、津波遺構として保存が決まっている旧道の駅陸前高田へ。震災前にはJRの鉄道駅も道の駅もあったのに、今はJRのBRT(バス高速輸送システム)しかないんですよね。でも、陸前高田の仮設市役所隣には「みどりの窓口」もちゃんとあるんですよ!(このページのあとの方で出てきます)。

ご覧のようなたたずまいの旧道の駅です。軽く検索した限りではここで亡くなった方は(少なくとも公式には)おられないみたい?だから遺構として残すという決断を下しやすかったのでしょう。というかやはり‥

という思いを強く感じました。これは「市街地が全てやられてしまった=既存の構造物所有者のことを考えることなく復興作業に入れる」ということももちろんありますが、それでも市街地全体のかさ上げゆえ地権者の承諾を得ることはさぞかし困難だったはずなのに‥

ここで一つ説明しておきます。たとえば銀行預金の場合、口座名義人が亡くなるとその相続人が「名義人口座を廃した上でその財産を相続する」わけで、この場合、まず間違いなく「目先のお金」の名義は移動します(ま、そこで骨肉の争いが起きたりするわけですが)。

しかしその一方で、土地の相続に関しては地方となると買い手もなかなかありませんし、そもそも「先祖代々の土地を手放す」必然性もないわけなのです。今でもここ陸前高田市の市街地の土地所有者は登記簿によると「戦前に亡くなっている方」すら多いのだそうで、となると、役所としてはこの復興事業に関して所有名義人の子や孫云々の、ある種ネズミ算式に膨れあがる相続人全てに承諾を得る必要があるわけです(行政としては法律通りに粛々とコトを片付けていくしかない)。



特にコメントはいらないと思うのです。道の駅の中@高田松原の松その他が入りこんだ画像を見てもらえば十分かと。
しかし陸前高田市のかさ上げ工事は旧市街地ほぼ全てで行われるだけに、地権者全ての承諾を得るというのはほとんど不可能に近い話です。ここに限らず全国どこででも起き得る話であり(都市部でも、長らく区画整理がされていない繁華街などでは権利関係が入り乱れているといいます)、登記システムの問題はさすがにそろそろ新たな手だてを考えないとさまざまなところで「何事も進められない」事態に陥りかねない気がします。

おっと話がそれかけた、陸前高田に話を戻しましょう。前のほうで「かさ上げ一つとっても陸前高田が一番進んでいる」というようなことを書きましたが、ではなぜ事業を進められたのかといえば‥

「何だそりゃ」と思う方がほとんどだと思いますので、NHK盛岡放送局サイトのページ(こちら)をご覧下さい。要は、復興事業においては土地そのものが何か別の利用目的に転用されない限り(ただかさ上げするだけであれば土地そのものは残る)、相続人の承諾を得ていなくても工事に着手できるようにしたということのようです。

ただそれはあくまで土地のかさ上げ事業だけに適用できる措置です。ですから今のまま(権利者の4割の承諾しか得られていない)では、極端な話「かさ上げした土地に、震災前とまったく同じ道路や区割りをすることしかできない」わけです。

しかし、スピードが求められる復興事業では「やれることからやる」のが一番です。浸水しなかった高台にはすでに復興住宅が建設中でしたが、願わくは相続者の承諾についてもうまく進展していきますように。


旧道の駅駐車場の国道側には、かつて高田松原内にあった石川啄木の歌碑が再建されていました(短歌そのものは別のものに差し替えられているそうです)。そしてその横には慰霊のための建物が。

国道を挟んで反対側にはガソリンスタンドが再建されていますが、その看板は津波当時のままで一部が壊れています。ガイドさんによると、スタンドの経営者さんは「修理せずあえてこのままでいく」と決めたのだそうです。

それと、やがてはかつての高田松原を再生すべく、流された松の子孫たちも近隣の山で順調に成育中なのだとか。その種=松ぼっくりは、市内在住の方がクラフトアート製作のために拾い集めていたものを利用したのだそうで、偶然とはいえそんなところから再び新たな「歴史」が始まることになろうとは。

ちなみに陸前高田市の復興計画の概要はこちらから見ることができます(PDFファイル)。どうやら現国道のあたりは特にかさ上げはせず、海側は公園ゾーン、山側は「産業用地」として整備されるようです。

このあとはやはり大きな津波被害を受けた気仙中学校を横目にしながら、気仙川越しに例の一本松を遠望します。今は一本松までの歩道が整備され歩いていくことができるのですが、このツアーではそこまでは行かないようです(少々時間がかかるから?それともTakemaが大幅遅刻したから?(苦笑))。

なおこの気仙中学校は川沿い、しかも海から至近距離にありながらも地震発生後、生徒たちが避難訓練通りに高台に避難した結果、1人の犠牲者を出すこともなかったそうです。防災教育上も有益ということでこちらも震災遺構としての保存が決定しています。

しかしその一方で、ここよりはるか内陸に位置し津波時の避難場所にも指定されていた市民体育館にはおそらく300人あまりの人たちが避難していたにもかかわらず、そこに津波が押し寄せ、助かったのは天井の梁につかまった3人だけだったといいます。「想定の甘さ」、そしてその根元にある「津波を軽くみていた」意識。このことについて綴った記事がありますので是非読んでいただきたいなと(記事はこちら:DIAMOND online「あの波ではダメだ。なめていたんだ、津波の怖さを…。消防活動中に家族3人を失った店主の『枯れ果てた涙』」。2011年12月の記事です)。

ガイドさんが在りし日の高田松原について説明して下さいます。自分は震災前、そんな松原があることもよく知らずにただ国道を通過したことがあるだけでしたので、松原内の風景はもちろんのこと、まるで南国のリゾートを彷彿とさせる夏の砂浜の写真などを「まるで別世界のように」眺めるばかりでしたが、ガイドさんはもちろんのこと復興商店街でお店を開いている方々、そして陸前高田市内で行き交う地元の方々、その皆さんが「あの日、地獄のさまを目の当たりにした」というのは間違いのないことです。そんなふうに思いながらお話を伺っていたとき、ガイドさんがこう呟きました。



いかに復興が進み、見た目の変化が顕著になったところで「心の復興」には結びつかないということ。失われた命は決して戻らないということ。たとえ生活再建が成ったところで、かつての大切な「家族の歴史・住んでいた家や地域のコミュニティ」は決して元通りにならないということ。

自分のような非被災者には決してわかりかねるそのような負荷をどっしりと背負いながら、被災地域の皆さんは目の前の日々を懸命に生きておられるということ、そのことだけは忘れてはならないと思います。

残念ながら、かねて予想していたとおり東日本大震災は風化の一途をたどっています。関東でたまに報道されることといえば孤独死問題であったり東電絡みであったりというくらいです。でも‥

わたしができることなどとことん限られていますが、これからもとにかくできるだけ現地を訪れ(これは三陸だけでなく福島もそうです)、現地を取り巻く状況や自分が感じたことをどんどん皆さんに知っていただければと思います。

たとえば三陸の牡蠣もそうです。津波から3年以上が経過した今、牡蠣の出荷可能量は大まかにいって震災前比7-8割のレベルにまで回復したそうですが、かつての販売先にはすでに国内他産地の牡蠣ががっちりと入りこみ、現在は「普通に出荷しても売れないので価格を下げざるを得ず利益が出ない」状態なのだそうです。

復興のためには何よりも「現地にお金が回る」ことが必要なのに、それができていないという現実。これは牡蠣に限ったことではないはずです。

このページをお読みの方々、もしよろしければ「三陸産 ○○(牡蠣とかホタテとかワカメとかサケとかホヤとかウニとか)」のキーワードで検索してみて下さい。いくらでも現地発の直販サイトがヒットするはずです。是非そこで「勢い余ってポチ」しちゃって下さい!(笑)。そのたった1人の僅かな行動(塵レベル)が山となっていけば、現地はさらに次なる復興に向けて動き出せるはずなのです。「仮設住宅や復興商店街」は本来あるべき姿ではないのですから!

というわけで16:30ころ、陸前高田庁舎に隣接する観光案内所前でガイドさんとお別れです。あらためて遅刻のお詫びを申し上げたことはいうまでもありません(ホントに駄目じゃんTakema)。

ところで観光案内所の隣には何と「JR東日本 陸前高田駅みどりの窓口」が!BRTとはいえあくまで正規の駅という扱いなのですから当然なのかもしれませんが、鉄路のない場所の駅施設というのはやっぱり何だか不思議な感じがします。

さてここからは同じ市内ながらかなーり山の中の「霊泉 玉乃湯」へと向かいます。温泉施設とはいえ湯温は期待できず加温循環必至、さらに市営の「簡易宿泊施設」という位置づけということで期待はしていなかったんですが?

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