−その11 大槌から山田、こちらはまだまだという感じ‥−



「その時」を示す時計。保存が決まった大槌町旧役場正面部分にて。

さて釜石を出発して大槌町に入っていきます。R45は旧市街地をバイパスしてしまうのでこれまでは通過していたのですが、今回は時間的に余裕もあるので行ってみることに。

市街地ではかさ上げ作業も行われているようでしたが(2013秋から着手したらしい)、何だか陸前高田のアレを見てしまうと遅々として進んでいないようにも思えます。もっともかさ上げの総面積が陸前高田よりも狭く、またかさ上げ自体も平均2.2m(最大3.8m)ということで、2015年度中には終わるようです。

しかし、建物の2階上部までが冠水したにしてはかさ上げが低すぎないか?と思って調べてみたら、大槌町の選択は「防潮堤(高さ18m)の建設」ということのようです。なお災害公営住宅の建設開始も2015年以降ということで、2014年中に最初の住宅が完成する陸前高田よりも遅れています。

というわけで旧庁舎にやってきました。ここでは当時の町長を含む33名の方々が殉職なさったわけで、この庁舎を残すか否かについてはかなり議論があったそうですが、結果的に正面部分だけを残すということで結論が出たようです。実際に死亡者が出た遺構を残すことについては賛否が分かれるところですが、わたしは大槌町の判断を尊重します。石巻の旧大川小学校でも、生き延びた旧在学生が「校舎を残して」と活動しているようです。何とかその方向で進んでほしいところですが、あちらでは訴訟も絡んでいることから今後どうなるかはわかりません‥。

庁舎の横壁は「内部から加わった力?」により大きくめくれ上がっていました。どれほどの力だったのでしょう。そして庁舎の前には祈りを捧げる献花台が。しかし、右上画像にも写っている賽銭箱はこれまで再三にわたり盗難の被害に遭っているといい、われわれの訪問後2014/8にも盗まれたそうです(その後賽銭箱だけが町内の海岸で発見、そして2014/9、賽銭箱自体の撤去が決定しました)。

犯人はまだ捕まっていないようですが‥あまりにも悲しい話です。盗まれた金額の問題ではなく、犯人はここで亡くなられた方々や、その方々に向けて手を合わせた人たちの「想い」までも下足で踏みにじっているわけですから。その不遜さはある意味万死に値します。一刻も早く、犯人が逮捕されますように。

庁舎の周辺は足場が悪く、かつてそこにあった建物の鉄筋がむき出しになっている場所もあります(右上画像マウスオン)。いずれは撤去されることでしょうが、やはり復興の遅れを感じずにはいられません。

ところでそのマウスオン画像にもちらりと写っていますが、被災地域の空き地には結構水たまりがあります。この地区には豊富な地下水脈があり、震災前はその水が生活用水や漁港でも使われていたのだとか。となるとこの土地のかさ上げによりその水脈がどうなるのかがちょっと気になります。

さてここからは県道231号経由でR45に戻ります。この県道は山越えのワインディング路で幅も1.5車線程度なのですが、その道をそこそこ上がった左側に突然仮設住宅が現れたのにはちょっとびっくり。こんな場所に仮設住宅を造らざるを得なかったということはそれだけ町内に安全な平地が少ないことを意味するわけで、大槌町もやっぱり大変だぁ。

R45に戻って坂道を下っていくあたりは吉里吉里地区です。2011夏の訪問時、ここにローソンの仮設店舗ができていてものすごく嬉しく思った記憶があるのですが(というか、自分が見た限り被災地の国道沿いで買い物ができるところはほとんどありませんでした=実際はあったのでしょうけれど)。

右上画像にマウスオンすると2011/8の撮影画像に変わりますが当然ながら同じ建物ですね(笑)。で、記憶を思い起こしてみると‥!

(左上画像マウスオンで2011/8当時の画像に変わります)
2011/8、あの「報恩」の横断幕を目にしたとき、「そのように感謝されるほど自分は何かをできているだろうか?」と自問自答した記憶があります。結果としてあの旅行のあといろいろなところにいくばくかの支援をしたような気がします。あのお宅にお住まいの皆さん、こちらこそありがとうございました!外壁も綺麗になりましたね!


でも、この緑のじゅうたん部分にはかつてぎっしりと家々が立ち並んでいたはずなのです。そのことを忘れちゃいけない。
さて先に進みましょう。続いてやって来たのは山田町の船越地区。船越半島の付け根付近は津波により両側から波にさらわれたようで、2011/8の訪問時には2階建てのRC造建物の屋根にポルシェが乗っかっているというシュールな現実を目撃した場所でもあります。

国道から船越半島へのメイン分岐を曲がると、この歓迎アーチが出てくるのは震災前も同じでした。ただここから坂を下りていった先の光景は大きく違います。確か2010/10の訪問時には右側の多目的グランド?で地域の文化祭が行われていた記憶があります(アナウンスが聞こえていましたっけ)。

下りきった正面には三陸山田温泉「浜の湯」跡が、2011/8当時と同じままの姿で残されていました(草は刈られていますが)。もうこのままでの再開はなさそうですね。また隣にあった「屋上にポルシェ」の公共施設はすでに跡形もなし(両上画像マウスオン)。一方で、荒廃地の山を切り崩して重機が作業中でした。平らにならしているし‥もしかして?(淡い期待‥淡いですが。このあたりには「多目的広場」としての津波避難地が造成されるようですが、それにしてはちょっと低すぎるよなぁと)。

旧船越公園付近は以前は相当規模のがれき集積場でしたが、今はだいぶ縮小したようです。塀があるのでわかりませんが、もしかしたらがれき云々ではなくかさ上げ中なのかもしれません。

そこからは南側の船越湾沿いの道を上がって高台の国道に戻ります。ここは2011/8当時「坂を上がるにしたがって津波被害の差がグラデーションのようにわかってしまった」住宅街でしたが、これだけ草が茂ってしまうともうそこまでの悲しきわかりやすさはありません。というか進度の差はあれど、これから津波被災地を初めて訪れる人は「元々との比較」を画像や動画をもとに想像するしかないわけで、震災直後から現地入りしていた方々に比べたらそのあまりの変貌ぶりを直接実感しにくくなるはずです。

それは現在を含めてまさに「復興のたまもの」そのものでしょう。しかし、その復興工事の実態は当然のごとく「巨大な工事現場」であり(やむを得ないことです)、そしてその復興のステップが進めば進むほど「ここで何が起こったのかを実感できない」再生された市町村が出来上がっていくはずです。もうこの旅行記中で何度も書いていますが‥

これから「津波の被災地」「Damaged area by the Tsunami」をキーワードにしてこの地を訪れる国内外の人たち、そしてまだ今日の段階でこの世に生を受けていない被災地の未来を生きる方々のためにも「リアルなもの」を残すことは大切だと思うのです。今回の津波で「でもチリ地震の時もここまでは来なかったし」「津波が来たら上から呼んでくれ、すぐに上がるから」「ちょっと家に大切なものを取りに行ってくる」と言い残した上で悲しいかなその後波間に散った多くの方々の惨事をもう二度と繰り返さないためにも。

なおこのページに限らず津波及びその遺構に関する自分の意見は、あくまで外(津波被災者以外)の者が現地をたった何度かだけ(!)見ただけで述べているものであり、このような意見はご家族ご親族やご自宅、そしてお仕事を実際に失った方々のお気持ちを大きく傷つけることになってしまうのかもしれません。

ただ、外から三陸を見ているからこそ見えてくることもあるのではないか、その一心から綴っていることだけはご理解いただければと思いますし、少なくともわたしなりに「三陸の未来」を栄えあるものにできればという願いからの意見であることだけはここに表明したいと思います。なおこのページはわたしの個人旅行記サイト内であり、サイト内におけるTakema個人の意見については決して強要や同意を求めるものではありません。自分がその時思っていたことをできるだけそのまま再生したというようにご理解いただければ幸いです。

何だかずいぶんビクビクしているような書き方になっちゃいました(笑)。でも、あとのページでも書く予定ですが、「その現場」にいなかった者は「想定」でしか理解できないのです。TVやネット動画や画像は正直いってクソ食らえ、あれで津波の怖さなんぞ本当にわかるはずはない、そこには「実体験」が伴っていないのですから。はい、この続きは宮古市田老の訪問記で書きますね。

R45を北上していくと左上画像の三階建ての建物が見えてきました。海沿いの防波堤の無力さを今さらながらに示すかのごとく1F部分は波の貫通により完全に丸見え状態、そして2F部分も窓ガラスなしで向こう側が見えています。

あ、えーっと、正式名称は「サインポール」なのだそうですが(何だよ全然工夫ないなー)、そんなことはともかくとして気になるのは「本当にくるくる=営業なさっているのか」ということです。帰宅後調べてみたら山田町織笠地区にある「ヘアーサロンみなと」さん、被害を免れた3階にて確かに営業中だそうです。あー失敗、事前にその情報を仕入れていれば万難を排してここでカットしてもらったのに。次回訪問時の課題ですが、復興事業が進むにつれいずれここでの営業が難しくなることも予想されます。いずれにせよ、こちらの経営者の方も生活再建のためにぎりぎりのところで奮闘なさっているということだけはしっかりと理解申し上げた次第です。

ここ山田町の中心部は、気仙沼同様津波による火災(ガスボンベの爆発や車のガソリンに引火等)により水攻めと火攻めで壊滅的な被害を受けたといいます。左上画像の看板は2011/8にも反対方向から撮影していて(左上画像マウスオン)、もはや商店街の体を為していない町の姿に唖然としながら通過した記憶があります。

しかし浸水はしたでしょうが火の手の及ばなかった内陸方面に進んでみると(実は郵便局=右上画像の仮施設)でお金の出し入れをしたかったので「郵便局こちら」の案内看板に従った結果ずんずんと内陸へ誘導されたわけですが)、海岸部との高低差はさほど感じなかったにもかかわらず、1kmも進まないうちに突如として「普通の街並み」が現れました。この内陸部にも津波は押し寄せたとは思いますがとりあえず「家屋を含め最悪の被害にはならなかった」ということなのでしょう。



山田町中心部の国道45号は延長6km近くにわたって冠水したようです。しかしさして急に高くなっているようには思えない内陸部ではかろうじて家が残ったということ。そこにわずかな希望を感じずにはいられません。生活の復興にはもちろん差が生じていることでしょうが、「全員が全てを失った疲弊」よりははるかにましなのですから‥。

さてそれではそろそろこの日のお宿に向かいましょう。この日も加温循環湯ですが(笑)。

[戻る] [次へ]