−その13 田老で防災ガイドさんからお話を伺いました −



震災遺構としての保存が決定しているたろう観光ホテル。物言わぬ、されど圧倒的な迫力を持つ「語り部」です。

田老には9時過ぎに到着です。語り部ガイドさんとの待ち合わせ時間は9:30なので、その場所に行く前に三陸鉄道の田老駅に寄り道することに。

田老駅は盛り土の路盤上にあったため津波の被害を受けることはありませんでしたが、「線路のすぐ下まで水が来た」ということですから、左上画像の地下通路や階段などはもちろん全部水没したわけです(実際通路や階段はがれきで埋まったそうですし、地下通路前には「田老物産観光センター」という2階建ての建物があったはずですがその痕跡は跡形もありません)。でも上部ホームは震災前のまま。今となってはその「天国と地獄」の違いは全くわかりませんが‥。

ただし目の前を走るR45は当然ながら全面的に水没したわけで、そんな状態の中でここから宮古までの区間をいち早く2011/3/20に再開通させた三陸鉄道はすごい!(その経緯についてはこちらのPDFファイルがとても詳しいです)。そりゃ何がすごいって、

しまったこんな勝手な想像が正しいのかどうか語り部ガイドさんに聞けばよかった(時すでに遅し)。

ちなみにホームでうろうろしていたら男子中学生とおぼしき数人が階段を登ってきまして、男子中学生らしく仲間うちでじゃれあってます。自分もこんな時があったよなーとノスタルジックに見ていたのですが、ふと。

そう考えたら、この男の子たちが「自分など足元にも及ばない人生の先達」に思えてしまったTakemaでありました。そんな不思議な思いを抱きつついよいよ集合場所へと移動です。


右上画像マウスオンで、この堤防が完工した当時に取り付けられた誇らしげな揮毫画像に変わります。
左上画像の「学ぶ防災」という幟が待ち合わせ場所の目印。ここまで「語り部」という言葉を使ってきましたが、田老では未来を見据えて「防災ガイド」という位置づけにしているのだと思います。まだガイドさんが到着していなかったのでちょっとうろうろ。

防潮堤の通路には防潮扉があり、あの日もこの扉は閉じられ、そして扉は扉としての役割を完全に果たしたはずです。しかし津波は防潮堤をはるかに超える高さで押し寄せてきたわけで、その威力はこの堤のすぐ脇を見れば否がおうにも理解されます。



(奥に見えているのがたろう観光ホテルです)
そうしているうちに防災ガイドのKさんが到着です。お互いご挨拶のあと「まずは防潮堤に上がりましょう」というわけで堤防上へ。

左上が北側、右上が右側です。この第1防潮堤は総延長1958m、海面からの高さ10mとして1958年完工。その後二期工事として第2第3の防潮堤が1966年までに完工し、いわゆる「田老を守る万里の長城」が完成したわけです。

ただし誤解してはならないのが、設計時においても「これで津波を完全に防げる」とは考えていなかったということです。というのも、記録によると明治三陸大津波(1896年)の津波高は14.6m。江戸時代にはもっと高い津波が押し寄せたという記録もあるようです。

つまり、戦前から工事が始まったこの「万里の長城」も、その計画段階においてすでに「完全ではなくとも少しでも被害を減らせれば」という「減災」という観点から計画&設計されていたというわけです。このことの意味は実はすごく大きい‥。

左上画像で眼下に見えているのが旧市街地エリアです。その奥には中学校の建物が見えています。かの地震直後、生徒や地元の方々は校庭に避難しましたが、湾口に高く立ち上った水煙を目にした用務員さんが「ここでは駄目だ、もっと高いところへ!」と人々に訴え、さらに山手に避難したため学校での死傷者はゼロだったのだとか。用務員さん、素晴らしいGood Job!(ちなみにその後校庭にはがれきが押し寄せたそうです)。

旧市街地の北側には、山を切り開いて新市街地が造成中でした。災害公営住宅を含め285戸のキャパシティがあるそうで、そのほか小学校の近隣にも公営住宅が建てられるのだとか。

防潮堤の外側に再建された漁業施設平屋プレハブの向こうには製氷施設の建物が見えます。この建物は震災前からここにありもちろん被災、今は綺麗に再整備されましたが、その壁面には過去の津波高の表示があるということでそちらへ移動です。

ちなみに農協の愛称がJAなのはもちろん知っていましたが、漁協がJFなのをこの時初めて知った無知蒙昧の輩Takemaでありました(苦笑)。

建物の高さは5階建てに相当するのかと思いますが、その最上部に「平成 17.3m」と記載された掲示板が設置されています。またそのすぐ下には「明治 15.0m」の文字も見えています。この「明治」を生き延びた方々の思いが、数十年の歳月をかけて巨大防潮堤として形になったわけですが、その巨大さがあだとなりかえって「これがあるから大丈夫」という過信を地元の方々に植え付けてしまったというわけです(ガイドさんがおっしゃっていたことです)。

このことは「津波を語り継ぐ」ことの難しさを如実に表しています。そもそもこの防潮堤はある意味「時間稼ぎ」という前提のもとに建造されたものです。しかしその後大きな津波災害がここで起きなかったことにより、この「前提」の認識が受け継がれることはなかったわけです。

わたしは学生時代、民俗学のフィールドワークで旧新里村(現宮古市)に滞在していたことがあります。とはいえ村内には大人数が泊まれる宿泊施設がなく、「宮古の北の海側の町」に泊まりそこから新里村に通っていたことを覚えています(なぜ宮古市内ではなくその北に泊まっていたのかは謎ですが、わたしが決めたわけじゃないので)。その宿泊地とは‥ここ田老だったのではと思うのです。

その時、山裾側にあった宿から散歩に行き、海側の堤防の上に登ったことを覚えています。そしてその時確かに思ったのは次のようなことでした。


30年と少し前のことですが、このことは多少の驚きと不思議さの感覚とともにはっきりと覚えています。当時20才になるかならないかの、津波の恐ろしさもまったく知らなかったTakemaでさえ不思議に思えたその感覚は、かえってこの土地に住んでいる人々の中にはあまりなかったということなのです。

わたしが今回各ページの中で「震災遺構の保存」をさんざん書いてきたことの原点は「この学生時代の感覚」に端を発しているのかもしれません。われわれ人間は「知識よりも経験」を優先して考える生きものです(そうでなければ戦争などとうの昔になくなっているはずです。要は『知識として学んだ歴史』など、目の前の判断においてはせいぜい『参考資料』程度に過ぎないということなのでしょう)。だからこそ、世代をこえて受け継がれるべき「動かぬ証拠」としての震災遺構が必要なのだと考えるのです。

幸い、ここ田老ではすでに「大きな証拠」の保存が決定しています。このページトップにあった6階建ての「旧たろう観光ホテル」がそれです。それではそこへ行ってみましょう。

建物の下まで来るとその威容に圧倒されます。この威容は震災前まではある種の安心感を含むものだったと思うのですが、今となっては自然の圧倒的な力とわれわれ人間の無力さを同時に示すステータスとなっているようにも思えます。

ご覧のとおり1.2階部分は完全に壁ごと引きはがされてぶち抜かれ、3階の窓枠も全てなくなっています。よく見ると4階のエアコン室外機が全て左側に移動しているのが見えますから、津波は4階の窓枠下あたりまで押し寄せていたのでしょう。

しかし1.2F部分がぶち抜かれたおかげで建物は津波の水流による横方向の負荷を受け流すことができたわけで、このことがなかったら建物は津波による倒壊の可能性さえあったのかもしれません。それこそこの旅の初日、あの女川の旧江島会館を見たばかりなのですから。


ありがとう。これからは物言わぬ語り部として後生の人々に津波の恐ろしさを伝え続けてください。形ある最後の日まで。
Kさんのご自宅兼民宿はこのホテルのすぐそばにあったそうで、「この辺かな」と指し示してくださいました。その思いの重さと深さをわたしは正確に知ることなど到底できません。しかしわずかにでも「推し量る」ためにわたしはここに来てお話を伺いたかった、それがこの旅(三陸編)の目的だったのです(格好付けてるなぁ)。

ちなみに「防災の町」を示すがごとく、市街地周辺の山裾にはそれこそ縦横に高台への避難路が設けられていました。「白い手すり付きの階段を登ればとにかく高台に逃げられる」ということで整備されたのでしょう。しかし「逃げられる」ということはあくまで「逃げようとする」ことを前提にしています。

「逃げ道を作る」という行政の施策は間違っていなかったのですが、残念ながら住民の意識の変化(根拠なき楽観)まで想定が至らなかったことについては今後十二分に分析&今後の避難行動に役立てる余地があるように感じます。そしてそれは、「生まれてこのかた大津波を経験していない住民が住む中部−西部日本の太平洋側の皆さん」にいざというときが来たときの準備にもなります。否、必ずや役立てねばなりません今回の被災を各地の今後のために。

このあとは宮古市田老分庁舎(旧田老町役場)へ。

高台に位置していたため津波が庁舎まで及ぶことはありませんでした(というか大津波を想定した上でこの場所に建てられたのでしょう)。

庁舎の脇には「津波防災の町宣言」の碑(平成15年設置=左上画像マウスオン)があり、またその横には昭和8年の大津波時に田老村の村長だった関口松太郎氏の像があります。津波災害後、旧満州への全村移住計画までもがまことしやかにささやかれる中、「移転できる高台はなくまた移住についても懐疑的な面が多い、されば防潮堤を造るしかなかろう」と判断しその実現に尽力した「田老防災の父」とされている方です。

「防災の町宣言」碑には「災禍を繰り返さないと誓い」とありますが、残念ながらその誓いは空しいものとなってしまいました。関口翁(の像)は田老の湾をじっと見つめていましたが、あの日あの時関口翁の目にかの大津波はどう映っていたのでありましょうか。

さて最後にこのツアー参加者限定のDVDビデオを見るべく第2会場へ。ごく普通の民家でしたが立地が微妙な位置で、ここより海側の家がほぼない‥Kさんにうかがうと、やはり「浸水はしたが流されるほどではなくとどまった」家屋なのだとか。

ここで拝見したビデオは、先ほどのたろう観光ホテルのご主人が建物上層階から津波襲来時の様子を撮影したもので、TVやネットにも流出していない(いやな表現ですな)オリジナル動画なのだそうです。


ちょっと意地悪ですみません。
あれ、クリックしても反応ないんだけれど?とお思いになった諸氏、申しわけありません。「ネットにも流出していない」動画ファイルがわたしの手元にあるわけもないのです(苦笑)。「悲しきド迫力」で防潮堤を越える津波の動画は是非ガイドツアー予約にて(宮古観光協会:0193-77-3305、学ぶ防災担当)。

ちなみにここまで南三陸、陸前高田、大船渡とそれぞれ語り部の方々のお話を伺ってきたのですが、当時つけていた日記をふり返ってみると、ここ田老のKさんのお話が一番詳しくメモされていたわけなのです。というわけで、ここから下ではこの日のTakema日記をご覧いただければと思います(長いし内容もかぶってますが、もちろんこの日記の方がリアルなので)。
浄土ヶ浜から田老までは30分もかからなかったので田老駅へ立ち寄る。あとで防災ガイド氏から聞いた話だが、この駅の線路下まで津波(がれき)が来たのだとか。ちょうどわれわれがホームにいたときに男子中学生数名が上がってきてふざけていたが、この子たちもあの日津波を経験したんだよなぁ。当時はまだ小学生だったかな?

このあと「学ぶ防災」の集合場所へ。ガイドのKさんはたろう観光ホテルの少し南側で民宿(収容40人くらい)を経営なさっていたそうだが、家はもちろん流され今は仮設暮らしらしい。まず最初に防潮堤の上に登って説明を受けた。北側の防波堤がひどく崩壊していたが、あれは高さこそ同じ10mだが高潮対策と して建造されたものらしく強度的にも弱いらしい。本家の防潮堤は万里の長城と呼ばれ、昭和8年の津波を受けて当時の町長が「町の高台避難ではなく、今回規模の津波が来ても耐えられるような防潮堤を造って津波に立ち向かう」という選択をしたのだそうだ。

専門家を東京から呼び寄せ、防潮堤内部には石組みを入れて強度を持たせ、また中央部をせり出させることによりいざ津波が押し寄せたときにその力を町の中心 部ではなく左右にそらすという設計だったらしい。ただしその後構築された外側の防波堤がその対角線状に設置されたのであまり意味はなくなってしまったと思われる。

北側の製氷所には過去から今回に至る主な津波の到達高度が表示されている。南側の防潮林としての松林は一部を除き第2波(15m)で一気になぎ倒されたら しい。また、湾内の開口部に第2波が押し寄せるとき、推定38mだったかの波しぶきが上がり、それを目にした中学校の用務員さんがこれはまずいと、避難していた中学生や地域住民の方々に裏山への避難を叫び、そのためこの中学校(町の北側やや奥)にいた人の犠牲者は皆無だったし、中学生はお年寄りを背負った りしていい仕事をしたらしい。結果としてグランドには4軒の家が流れ着き1Fは浸水だったそうだ。ちなみに南側にある小学校はもう少し高台にあったためグ ランドには浸水なし。

これまで何度も津波により多くの死者を出した土地柄ゆえ、町のどこからでも5分以内に高台に逃げられる避難用歩道が整備されていて、見たところ必ず白の手すりが付けられていた。これは視覚的にも「白の手すり付きスロープなら逃げられる」という目印になっていたのだと思うが、高台から眺めてあちこちに見える坂道は、実際のところ家々に隠され防潮堤からはあまり見えなかったはずなのだ。

高台には住宅、商店、病院、保育園などが設置される(小中学校は現在のまま)。R45は現在よりもやや内陸側に移設される。現在残っている住宅には居住可能で(それでも1Fには浸水しているのだが)、4階建ての公営住宅(坂道が厳しい等のお年寄り向け?すでに予約でいっぱい)も建設されるらしい。

しかし、万全と思われた田老でもハード面ソフト面ともに問題があったことが明らかだったという。ハード面では津波の大きさを過小評価していたというのは当然のことだが、「防潮堤のせいで海が見えない」ということが大きく、旧市街地では消防団の車が気づかずに走行していて3人が津波にのまれたらしい。

一方でソフト面はもっと怖い。Kさんも「自分たちは万里の長城に守られているし避難路も四方に張り巡らせている。避難訓練も日々行っていたし、自分だってまさかこんな津波が来るとは思ってもいなかった」とおっしゃる。また避難を渋っていた老人男性に避難を説得していた人たちも同様。人間の一生としては多くの経験を積んでいるはずの老人の経験論など、自然のサイクルの前には赤子も同然というわけだ。

いったん避難しながら「たぶん大丈夫だろうし」というわけで戻った人も多かったらしい。ホテルからの映像ではおばあさんが映っていたが、寒いからというので服を取りに戻ったらしい。一般的に老人は位牌やアルバム、中年は通帳や印鑑等の金銭関係を取りに戻るらしい。そして若い世代は「家族の身を案じて」戻るというのだ。この場合「津波てんでんこ」はやはりうまく機能したわけでもない。でも難しいところだ。

このあと第二会場でDVDを見た。防潮堤を越えた津波はまさに「壁が来た」という感じだったが、そのときどうもKさんが「あまり画面を見ないようにしている」ように見えたのは気のせいだろうか。そういえばここに来る前のたろうホテルも案外あっさりと「さ、行きましょう」だったし。


DVDのあと自分の体験を話してくださった。地震後疑心暗鬼ながら「三王岩」の見える展望台側に逃げ、そこで高さ20数mの岩の半分以上を覆う津波を見たたこと、その後しばらく茫然自失状態だったこと。しばらくして町の様子を見に行ったところで居合わせた女性と「町は終わったね」という感じの言葉だけを交わしたこと、それ以外には何も言えなかったこと、そしてさらに今の自分たち被災者は先の見えない中に置かれている中で常に気を張っていないとどうかなってしまいそうな気持ちでいること等を話してくださった。やはり見かけの復興と心に受けた傷の修復とは別物なのだと実感。
このあと車でKさんと集合地点に戻りそこでお別れ‥というか、Kさんはすぐに次のお客さんの案内に回らねばならなかったのです。この語り部ツアー予約時に「この日の午前中は予約が多い」ということで時間を早めてもらった記憶があります。季節にもよることでしょうが願わくはこの「予約の多さ」がこれからも続きますように。

さて最初に待ち合わせた防潮堤下でKさんとお別れしたわけなのですが、そのすぐそばの漁業施設ではウニの口開け作業をやっているということなので見学させてもらうことにしました。


正直いってものすごく地道かつ手間のかかる作業です。ウニが高価なのもよーくわかります。ちなみに地元の方?がかなりの量を買っていかれましたが万札が動いていました。もしかして仲買人さんだったかも?わたしらも買いたい気持ちだけは満々でしたが、まだこのあと数日東北をうろうろするので見学だけにとどめた次第です(無念)。

このあと、Kさんが地震のあとに向かったという三王岩の展望台へ。なるほどこの景色を見慣れていた人がこの半分以上の高さに及ぶ海水の塊を見てしまえば、「とてつもない思い」を抱いたこともわかるような気がします。

ただ、われわれが気に掛けなければいけないのはそんな震災当時の精神分析などではなく今の地域の皆さん、特にKさんのように「気を張りつめ続けて」いる人なのではないかと思うのです。

社会生活上の物理的弱者である老人や子どもへのケアについては震災直後から今に至るまでいろいろな施策(霞ヶ関の考えることですからかなり的外れなものの方が多いような気がしますが)がなされています。でも、

うーんとっても難しいところですが、少なくとも被災者の皆さんは「必ず何かを心に秘めながら生きておられる」と思うわけで、それをどこかで口に出せる人はまだシアワセです。出せずに頑張っているお父さんがいるとしたら、そのお父さん軍団に何らかの手(チャンス)を差し伸べないと。「伸びすぎたものはゴムにしろ心にしろいつか必ず切れてしまう」と思うのです。

ちなみに旅行後このページをタイプするにあたりいくつかのウェブサイトを参考にさせていただきましたので、各ページへのリンクを以下に紹介いたします。他サイトにぶん投げるおざなりな感じですが、まとめサイトを含め勉強になりましたので。
[まとめサイト」 [静岡大学関係] [三陸のともしび]
さてこのあとは北三陸方面へと進みます。国民的ブームとなったNHK連ドラ「あまちゃん」のエリアです。

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