− 2009 タイ北部湯めぐり(9) 「タイ日本友好記念館」訪問 −



タイ国内でもかなり訪問しにくい地域に位置するこの町に、なぜ日タイ友好の記念館が?

バーン・ノーンヘーン温泉から戻ってきたのはすでにお昼過ぎ。というわけでクンユアムの町内でお昼ご飯です。観光地ではないので地元の皆様御用達の麺屋さんへ。うん、そのほうがいいんだもんね。というわけで左上画像の食堂にてクイティアオ*2を注文。なお、肉野菜ぶっかけメシを頼んだアッさんのお代も含めて130Bとは、驚きの安さでございました。

ちなみにこの時点でかなりのどが渇いており(ずっと炎天下にいたんだからあたりまえですね)、もちろんペットボトルの水はありましたがここは一発「キンキンに冷えたビールを飲みたい!」と思うのは人情というもの(個人差はあると思いますが)。で、アッさん経由で店の方に聞いてみると「うちには飲み物は置いていないけれど、隣の薬局にあるよ」とのこと。というわけで隣に行ってみたわけですが、


(ソフトドリンクはふんだんにありましたけれどね)

というわけで、ソフトドリンク所望のおしんこどん用にスプライトを買って戻ってみると、Takemaの言葉を聞いたアッさんが「それじゃ、わたしが近くの商店でビールを買ってきましょう」と、たぶんこのお店のものと思われる自転車を借りてわざわざ買いに行ってくれちゃったのでありました。アッさん、そりゃあまりにもサービス良すぎです!それにそこまでご苦労をかけてまで飲みたいわけでもなかった‥ということは申し上げられませんでした(笑)。

で、数分後に「キンキン冷え系」の缶ビールとともに舞い戻ったアッさん、ありがとうございました!美味しくいただきました。

さて直立不動のお犬さま(タイの犬には珍しく?精悍な顔つきですねー)にワンワンと吠えられながらも車に戻り、歩いても数分と思われる「タイ日本友好記念館」へ。



「タイ日本友好記念館(THAILAND-JAPAN FRIENDSHIP MEMORIAL)」。2009年(タイ暦2552年=釈迦の入滅年を紀元0年として計算)に改名されるまでは「クンユアム旧日本軍博物館」という名称でした。なぜこの地クンユアムに日本軍関係の博物館があるのでしょう?それは、この地域がビルマ戦線の作戦活動上重要な拠点地域であったことに由来します。

第二次大戦中の日本軍による行動目的の1つに「援蒋ルート」の遮断がありました。ビルマのラングーン(現ヤンゴン)からマンダレー、ラーショーを経由して中国の雲南省に至るルートは連合軍による中国国民党(重慶政府)を支援する物資輸送ルートにあたっていましたから、中国戦線を有利に進めるためにはこのルートの遮断が欠かせなかったというわけです。

しかし当時のビルマは英植民地であり、まず日本軍はビルマ国内を制圧する必要がありました。となれば当時の日本軍にとっての拠点は、当時親日政権が存在したタイ国内に置くのが一番だったのです。ここクンユアムはタイ側からビルマ側に抜ける入口に位置する重要な地でしたから、タイ北部の要衝であるチェンマイからメーホンソンまでの道路開削(当時この両地点を結ぶ道路は存在しなかった)が最初の作戦行動となりました。

その当時のクンユアムには5000-6000人の日本人が滞在し、またタイ人も工事労働者として一緒に働いたそうです(給料はそこそこの額が支給されたようですが、やはり危険を伴う作業ゆえ多くのタイ人が犠牲になったようです)。

そしてチェンマイからメーホンソンを結ぶ道路が完成。現在両エリアを結ぶ道路は近年になってかなり整備され、完全舗装の2車線道路になりましたが、少なくとも1990年代初頭までは未舗装で、それこそ雨季には通過にも困難をきたす超悪路だったと記憶しています(その話を聞いて当時行くのを断念しました)。

1942年1月にビルマに侵攻した日本軍は5月末までにビルマ全土を制圧し、43年には日本占領下のもと傀儡的な独立が宣言されましたが、その頃から連合軍は圧倒的な物量を携えて反攻に転じたのです。
なお、この地域におけるもっとも有名かつ悲惨な作戦として「インパール作戦」があげられますが、この作戦も「日本の制圧下にあるビルマへの連合軍侵攻を食い止めるためにその本拠地であるインパールを叩く」というのがそもそもの目的だったわけです。もっとも作戦そのものは「物資の補給」という基本中の基本を無視した愚の骨頂的なものであったため、その結果は戦いの勝敗以上に悲惨な者となりました。インパール作戦には86,000人の日本軍が動員されたというのに、戦死者は32,000人余、戦病者は40,000人以上に達したとされ、しかも戦病者のほとんどは「餓死者」だったというのです。


1944年に始まった連合の反撃は熾烈を極め、ビルマ戦線の日本兵士とてその圧倒的な物量の前にはなすすべなく敗退・転進に次ぐ転進を余儀なくされました。

ビルマから帰還する兵たちは食糧も尽き、また体力が落ちた状態で熱帯の風土病に冒され、力尽きた者はその場に倒れそのままかの地の土に還ったといいます。つまりクンユアムまでたどり着くことの出来た日本兵はごく一握りに過ぎなかったというわけです
ところでビルマに取り残されたまま終戦を迎えて武装解除された日本兵、彼らを題材にして竹山道雄氏により著されたのがあの「ビルマの竪琴」です。1956年と1985年にそれぞれ映画化されましたからご覧になった人も多いのではないでしょうか。
さてかろうじて歩けた兵士たちはタイ側の拠点クンユアムを目指します。「クンユアムまで戻れば‥」という一念だけに基づく帰還行軍だったらしく、博物館長であるチューチャイ・チャムタワット氏がまとめた資料冊子によれば「日本軍には食べ物はほとんどなかった」という記載があります。また「敗走してきた道は血の海だった。途中で死んだものはそこに埋められた。生きている者はクンユアムに運ばれた」との記述も。

それでも、クンユアムに帰還できた兵士は幸運でした。クンユアムの村人は日本兵を各家に分散して滞在させ(家の規模にもよるが各家に5-20人くらいだったということです)、そこで命を救われた日本兵、すなわちわれわれの先祖の数たるやいかにと思えば、当時決して豊かではなかったクンユアムの人々に感謝してもしきれないくらいです。

しかし、この記念館(博物館)は、そもそも帰還した元兵士の皆さんや日本側の団体によって設立されたわけではないというのが驚きなのです。以下の文章をお読み下さい。

 私は、クンユアム警察に署長として赴任してくるまでは、何の考えもなかった。1995年(平成7年)に赴任してから、いろいろとクンユアムの人々の家に挨拶に回った。

 そうしたところ不思議なことにどの家にも宝物みたいにして、日本の兵隊さんのものを一つか二つ必ず持っていた。水筒、毛布、鉄兜、飯盒等。これが日本の兵隊さんの思い出の品ですよと言う。 私はいろいろと聞いてみた。むかし日本の兵隊さんがいっぱいクンユアムに来て、兵舎を作って、4年〜5年くらいここに住んでいたよといった。私は何も知らなかった。

 そこから私は本を読んだ。チェンマイの図書館、メーホンソンの図書館にも行って第二次世界大戦のことをいろいろと勉強した。しかし、クンユアムの日本兵のことは何も分からなかった。ここクンユアムには、日本兵との思い出が埋もれている。

 しかし何事もなかったように、人々は日々の生活をしている。若い人は何も知らない。唯みんなの心の中に思い出が残っているだけだった。

 村のおじいさん、おばあさんだけの思い出とするのはもったいないと思った。今何もやらなければ、だんだんと忘れ去られ、いずれ何もなくなってしまうだろうと思った。

 私は本気で調べ始めた。メモを取り、またビデオ、カセットテープ、写真も撮って、おじいさん、おばあさんからいろいろと話しを聞いた。日本軍のこと日本兵のこと、当時の村のことを。そして同時に、私は村人から日本兵の遺品を集め始めた。

 私は、もっとやらなければいけないなと思い始めた。
 人々の思い出を、これから伝えるために。
 この本に書いたことは村人の知っていること見たことを、私が聞いて調べた事実である。

 今回の調査には時間がかかった。一人一人言うことがいっぱいなので整理することが大変であった。タイ人だけ、タイ語だけではない。ビルマ語もあるカレン語もある。

クンユアムの遠い村まで聞きに行った。通訳の人もお願いした。みんな65歳以上で耳も悪いし、大きい声で人々とも話をした。ほんとうの、ほんとうの事を知りたいために。

 そうして私は今、タイ国内のいろいろな地域での、第二次世界大戦の歴史を書き留めて欲しいと願っている。この本を作り上げることは大変であった。しかしこれはクンユアムのみんなの思い出で、日本の50年前のことが書いてある。ぜひ学生の皆さん、そして若い人がこの本を役に立ててほしい。

 私はこの本の制作に精一杯の努力をした。もし足りないこと、間違いがあればご容赦いただきたい。

 ご協力いただいた方々に心からの謝意を表したい。

(「第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出」冊子より、館長チューチャイ・チョムタワット氏の前書き日本語訳=武田浩一氏、を引用いたしました。)

チューチャイ氏は地元出身の方でもなく、たまたまここクンユアムに警察署長として赴任なさった方なのだそうで、もともと日本軍に関しては何らの思い入れもなかった方なのですね。しかしここクンユアムに赴任して現地の歴史的状況を知り、各家に保管されている日本軍関係の遺物を、何と私費で集め始めたそうなのです!

その集めた品々を展示し始めたのがこの博物館というわけですが、現在でもなかなか簡単には行かれない場所(メーホンソンからもワインディング路で2時間近くですからね)に位置するクンユアムゆえ維持管理は大変だったようですが、やがてかつて現地に滞在した経験のある旧兵士の方々、そしてこの博物館の存在を知った心ある方々の支援により多くの寄付支援が行われ、現在では非営利の「日泰平和財団」による運営となっています。

そして、財団理事長であるチューチャイ氏ご夫妻は、2006年にタイを訪問した天皇皇后両陛下に謁見し、現記念館他について直接感謝のお言葉をいただいたそうです。そう、チューチャイ氏の「ほんとうの、ほんとうの事を知りたいために」という知的好奇心は、日タイ友好関係の新たな大きいうねりとなったといえるのでしょう。



さて、いまだに当時及び現地の詳細についてよく理解しているとは思えないTakemaです。しかし実はこの博物館については上記財団の日本語サイトがあります。せっかくこのページをお読み下さっている皆さんであれば、是非以下の日本語サイトをご覧下さいませ。


(上記ロゴをクリックすると記念館サイトのウィンドウが開きます)



この冊子は表紙の装丁こそ違いますが現在も記念館で販売されています。こちらはSさんから提供いただいたものです。

というわけで、以下は上記サイトをお読みいただいたという前提で書き進めます(力ずくですが(笑))。

この記念館は数年前にリニューアルされ、今回のタイ旅行についていろいろ情報をいただいたSさんによると「随分整然とした館内展示になった」ということでした。というわけで敷地内に入っていこうとすると‥あ、入口手前の広場脇にある商店で入場料の支払いをお忘れなく(チケットもここで発券=50B/人)。で、日タイ両国旗がはためく中を進んでいきます。

入口付近には日本軍が使用していた輸送車が展示されています。以前は入口前広場の屋根の上(!)に展示されていたようですが、パプアニューギニア(ラバウル)でも感じたこととして、せっかく博物館として将来にわたって継続展示していくのであれば、今後屋根掛けが必要になっていくのでしょうね。なお建物の入口手前には慰霊の塔が建立されています。



入口近くに掲示されている日本語での説明文。この部屋でビデオが上映されます。


【上記日本語案内の内容】

日本の皆様、ようこそクンユアムへ!!!

ここは、かつてあの無謀なインパール作戦で敗退した延べ数万の旧日本軍将兵がビルマから(軍の命令で移動)こちらの住民に大変お世話になったところです。

ここで命拾いをして復員した軍人は多いのですが、マラリヤなどの熱病・重傷のために他界した傷兵はおよそ7000人−10000人と伝えられ、これまでにここで発掘された遺体はわずか306体です。

[第二次世界大戦クンユアム博物館]

設立‥平成八年十一月
発案者(兼館長)‥もと警察中佐 チュー(ト)チャーイ・チョムタワッ(ト)氏
管理担当者‥チャーリヤ・ウッパラ氏

ご参考のため下の記事をご覧下さい。(略)

(注)クンユアムとは「山川」という意味です。

(注)日本陸軍曹長のフクダ・ヒデオ氏(鳥取県出身)と結婚して二人の子を成し、悲劇的な別離を強いられたパー・ケーオさんの娘時代の映像はスクリーンにも登場します。彼女の住み家はすぐ近くにあり健在です。


ここは、クンユアムの文化センターです。

博物館敷地の入口に、タイ語で「クンユアム文化センター」と表示してあります。倉庫には未整理の遺品などが沢山あり、当時使用された車などがまだ屋根に乗っています。

ここから北へ約300mの所に小学校と幼稚園が、そしてさらに500mばかり北の位置にクンユアム中高等学校があります。

生徒数は、中1〜高3までの6学年で1000余人、この生徒たちの祖父母の方々が、インパール作戦に敗れてこちらへ移動した日本兵士たちを助けてくれました。

クンユアム郡を含むメーホンソーン県はタイのシベリアと呼ばれ、タイでもっとも貧しい県といわれています。クンユアム中高校には図書館がありますが、本はまだ少なく教材も教師も不足しています。貧しい生徒たちもいます。

63年以上も前の忘恩の日本人にならないためにも、役立つ教材があったら寄贈してください。07年5月から、ボランティアの日本語教師がいて、ここで日本語を教えています。
日本語を学ぶ生徒は約300人います。日本を知るためのビデオでもCD・テープでも結構です。

学校も重要な文化センターだと思います。

平成十九年八月十五日 




旧日本軍の装備が並ぶ中、慰霊の壇がしつらえられています。



これらの品は、チューチャイ氏が個人として集めたものなのです。


一通り見学を終えて募金箱に寸志を入れます。と、施設館長のチャーリヤ・ウッパラさんがビジターズブックへの記入を求めてノートを差し出してくれました。自身の思いを書き入れ、せっかくなのでお願いしてチャーリヤさんと記念写真を撮らせていただきました。

チャーリヤさんには、われわれがここを訪れるきっかけとなった雑誌「SAPIO」のクンユアム紹介記事コピーを差し上げました。今後現地に行かれる方、もし館内にSAPIOのコピーが掲示されていたら、それはTakemaがこの時寄付したもの(寄付なんて大層なものじゃないですが)だと思ってください(笑)。

見学を終え、この場を去る前にちょこっとお手洗いへ。本館の裏にあるトイレへ行くと、あれま大きな建物だこと。で、どっちが男性だろう?と思いながら入口ドアに向かって歩いていくと‥


(左上画像にマウスオンすると拡大画像に変わります)

で、今気づいたんですが、女性用トイレの入口にはいったい如何なる「麗しき女性」の写真が飾られていたんでしょうか?見に行くのを忘れましたし、おしんこどんはトイレに行かなかったので確かめることは出来ませんでした(笑)。

そんなわけでこの博物館を後にしたわけですが‥やはりニューギニア同様複雑な思いは消えませんでした。自分には日本人として何が出来るのか?出来ることといえば‥。しかしその一方で、実は先日全く別の国のある人物から「Help us!」の手紙も届いています。「助ける」とは何なのか、そして「ボランティアの自己満足」とはいったい?



そんなことを考えながら次なる目的地に進んでいきます。ところで左上画像、いったい何が10Bなんだろう?

さて徐々に太陽の角度も傾いてきました。というわけで本日最後の目的地は「3つ目の温泉」なのですが‥くわー白濁温泉、し、しかし!
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