- 2019夏(29) 、ウクライナ編(5) 巨大レーダー施設Duga(ドゥーガ)関係いろいろ - 熟したリンゴ、もいでかじってみたかった!(当然禁止されています)。 |
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このあとは事故後に放棄され沈没した船を眺めます。Google Map等で上空からの画像を見るとわかるのですが、このあたりのプリピャチ川(ドニエプル川の支流)はかなりの氾濫原を有しており、かつての流れの痕跡も多く見られます。そこそこの「暴れ川」だったのでしょうか(河川堤防がほぼなかったことによるものかもしれません)。上の場所も、かつての川の名残というわけです。 |
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対岸にも何か施設があるようでしたが、よく聞いていなかったので不明です(苦笑)。 |
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再びチェルノブイリ市内に戻ると、ここで「休憩」。メインロード沿いにある「商店&カフェ」が営業しています。市内には原発の関係者も生活していますし(定期的に交代する)、我々のようなツアー客(日帰りツアーも多いし各社が催行しているのでかなり多い)や、数はぐっと少ないですが自主帰還している定住者(「サマショール」と呼ばれる)もおられるわけなので、需要はしっかりあるわけなのです。商店はほかにもう1軒ありました(他にもあるのかは未確認)。 |
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1Fが商店、2Fがカフェになっています(トイレも2F)。ATMもあり。 |
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ツアーバスが到着すると、店内は御覧の通り大盛況に。この時は小休憩でしたが、この日の夕方、もう一度立ち寄った際には「冷えたビール」を購入する人(われわれもそうでした)でごった返しました(笑)。ツアー中は禁酒ということでしたが、ホテル滞在中は問題なく飲めるようです。 |
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さて、このあとはさらに原発方面に進んでいきます。原発から10kmの場所にもう1つのゲート(Leviv Checkpoint)があり、そこを通り抜けてしばらくするとツアーバスはメインロードを外れ細道を進んでいきます(元々はこんなに細くなかったと思いますが)。 |
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やってきたのはソビエトの軍事施設があった「チェルノブイリ2」という場所にある巨大レーダー基地「Duga(ドゥーガ)」。居住人口は約1000人だったということですが、そのほぼすべてが軍の関係者だったであろうことは容易に想像できます。右上画像の門の脇(通用口)から中に進んでいきます。 |
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さすがに少し数値が上がりましたね(問題ないレベルですが日本の除染基準値)。 |
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このレーダーは、「OTA(Over the Horizon=超水平線)」レーダーと呼ばれ、冷戦時代にアメリカほか西側諸国からの大陸間弾道ミサイル発射を早期に検知するために巨費をかけて建設されたそうです。高さは150m、長さは500mにも及びます。電離層ではね返る微弱な電波をキャッチし、早期防衛・警戒に役立てるという触れ込みだったそうですが、実際には解像度も低くて対象の判別が困難、結局使い物にはならなかったのだとか。 |
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ガイドさんは一生懸命メカニズムを説明してくれますが、ちーっともわかりませんでした(文系脳)。 それにしても全然壊れていない!さすが軍事用(と思ったら奥の方は壊れていました)。 |
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しかし、ここに限らずところどころに落書きが見られます。これは「ストーカー」と呼ばれる不法侵入者たちの手によるものとされ、当局はこのような落書きを消しているようですが、いたちごっこになっているのかもしれません。 |
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と考えると、観光客に対する皮肉的なメッセージを放っていると考えることが出来るかもしれません。もっともそんなメッセージとみるのは深読みのしすぎで、ストーカーの単なる「自己顕示欲の発現」に過ぎないのかも。 |
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さらに奥に進むと、別のレーダーアンテナが出てきます。最初のものよりは一回り小さい感じですが、違うのはそれだけではありません。 |
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真下を歩くのは結構リスキーかもしれません(無理にそこを歩く必然性もないのですが)。 |
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入りきっていませんが、これが一連のレーダー施設の受信を担当していたアンテナなのです(送信側は別の場所=国境を越えたベラルーシ側にあったようです)。 |
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続いては、アンテナのオペレーション施設内に進んでいきます。 |
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長く延びる通路を進み、一旦外に出ると‥ええ、この状況ってどういうこと? |
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当時「最新鋭」だったはずの機器が屋外に打ち棄てられています。われわれはその機器を踏みしめて移動することになるわけですが、これはいったい誰がどのような目的で?まさか「ストーカー」ではないはず、となると‥ |
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であったことは言を俟ちません。そもそも「東西冷戦にかかわる軍備増強合戦」自体が壮大な無駄だったわけですけれど。そして冷戦終結後も形を変えながら「無駄遣い」は今も続いているわけですが‥。もっともその根底には「人間の飽くなき欲や妬み、憎しみ」などのネガティブ系情念があるわけで、たぶん人類が存続する限りその流れは継続していくはずですから(断ち切れるものであればすでに人類歴史の中で誰かが断ち切っているはずです)。 |
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そんなわけでパーツを踏みしめてオペレーション施設へ。うわリンゴが! 内部も当然廃墟状態です。機器什器も運び出されたがらんどう。階段に磁気テープが絡んでいました。 階段をずんずんと上がっていきます。33年前まで、ここは超機密施設だったはずですが今は‥。 上がるにつれて、どんどん「最前線」っぽくなってきました。高圧電流を示す機器も。 |
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そういえばこの施設が稼働していた際には1-4号機総計発電量は3,800MW、そのおよそ1割がこのレーダー施設に供給されていたということでこれまた壮大な無駄。またレーダー波発信施設からは常にパルス波状の電波が発信されるため、ヨーロッパの無線家たちは受信するノイズを「ロシアン・ウッドペッカー(キツツキ)」として忌み嫌っていたそうです(wiki情報ですが)。 |
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かなり上がってきたところで、そろそろ核心部のオペレーションルームっぽいところに到着。ここもかなり破壊されていますが‥ |
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2019/8の訪問時点で33年前に起きた原発事故。直近都市であったプリピャチ(後述)の避難映像は残されていますが、ここチェルノブイリ2地区における事故当時&その後の映像は公開されていません。多分残してもいないのでしょう。軍事基地ゆえ「設営も闇、そして撤収も闇の中で」ということだったはずです。 |
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さらにこんな通路を目にしながら(さすがに通りませんでした)、再び外へ。 |
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機器を踏みしめて出た先にはリンゴの木が多くの実を付けていました。ツアー中、「ゾーン内の一切のものを持ち帰ることは禁止」されていますし(そもそも地べたに座り込むのも禁止です)、ましてや「摂取」たるや最大の禁止事項にあたるはずですが‥食べてみたかったなぁ(やってませんので念のため)。 |
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この部屋はかなり保存状態がよかったようなのですが、何だかこれはすごいや。さまざまな戦闘機材のスペックが惜しげもなく公開されています(軍事基地ですから当たり前なのですが)。 |
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事故後にあらためて(こっそり)作り直したはずもないでしょうが、退色が少なくてびっくりです。 しかし実際は廃墟施設なのです。この鉄骨階段だっていつまで通行できるやら。 |
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続いて訪問した建物には地域のジオラマが設置されていました。右上画像に見えているジオラマ、これを作っていた人はその当時かなり楽しかっただろうなぁ、たぶん技術士という名の趣味人だったろうし(笑)。 |
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このあとは外に出て歩きます。ここはおそらく消防署、当時使用されていたと思われる防護マスクが誇らしげに?置かれています。もちろん発災直後の消防隊員の活動は素晴らしかったようです。でも「何が起きているのか」を一切知らされないままの出動‥。おそらくはここから出動した消防隊員も‥合掌。もちろん消防車が戻ってくることもありませんでした(廃棄場所へ)。 |
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当然読めませんが、プロパガンダ系の掲示看板でしょう。 こちらにはアンテナのジオラマもありました。よく残っています。 |
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このあとは再び建物を出て、森の中を移動します。しかしもちろん、この場所が「森」であったはずはありません。左上画像はボイラー室の跡で、左側に見えている太い木のようなものは煙突です。この界隈の暖房を一手に引き受けていたはず。そして右上画像はいまだ原形をとどめるベンチ。この先には作業員の宿舎があります。 |
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宿舎といっても家族も一緒に住んでいたでしょうから「社宅」的な感じだったのでしょう。バスタブも大型です。翌日に訪問したプリピャチ市内の高層住宅もそうですが、当時としてはかなり快適な住環境が構築されていたように感じます。原発や軍事基地関連には潤沢に予算が付けられていたことを示すものでしょう。どこの国でも似たようなものです。 |
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部屋のベランダからはドゥーガのアンテナを遠望できます。「職住近接」です。 |
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再び「森の中」を進みます。ツアーのガイドによっては「どんどん行ってしまうので迷子になってしまった」例もあるようですが、われわれのガイドさんは全体(12-13人)のそれぞれの動向を確認しながら進んでくれたのでまったく問題なしでした。 |
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やや線量値が上がりました。建物の脇にはこんな絵も。 |
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内部には体育館や映画館もありました。プロパガンダ映画なども上映されていたのかと。 |
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最後にまた、おびただしい数の電子機器残骸を目にしながら、最初の場所へと戻りました。結構な距離を歩きましたわ。というわけで、ここで「一服」。このあとはもうちょっと見学したあとチェルノブイリ市内の「お宿」へと向かいます。 |
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