- 2019夏(31) 、ウクライナ編(7) ツアー2日目、まずはプリピャチ市内の集合住宅屋上へ -



チェルノブイリ市内のホテル「Desiatka」に到着です。

1日の終わりに日中立ち寄ったショップに再び訪問。「ここでビールとかが買えますよ」と聞いたら、もう誰もが飲み物の棚へと一目散(笑)。ちゃんと冷蔵庫で冷やされていましたんでよしよし。しかしホテルの部屋に冷蔵庫はなかったわけですが。まぁしょうがないかと。

ホテル名の「Desiatka」とは(もちろん正式名称はウクライナ語のキリル文字表記ですが)数字の「10」という意味であるようです。また、現在チェルノブイリ市内にはここを含めて2つの宿泊施設があるようで(2つしかないともいう)、ガイドさんいわく「どちらの宿に泊まれるのかは状況によって異なります。本日皆さんが泊まる宿はグレードが高いほうです、おめでとうございます!」ということでした。

でもまぁ、2014にリフォームしたとはいえそもそもがソビエト時代からの宿ですから設備は質素。われわれの部屋(右上画像)はキングサイズのベッドが1つにTVがあるのみ。なお入口ドアは1つなのですが部屋が2つあり、そちらには別のお客さん(男性1人)が泊まっていました。シャワーとトイレはそのお客さんとの共用。多分ファミリールームを想定した間取りなんでしょう。



左上画像がその配置で、左から順に「共同シャワー&トイレ」「別のお客さんの部屋」「われわれの部屋」となっています。廊下側のメイン鍵は男性との話し合いで自分が管理することになり、結果、ほぼ開けっ放しでした。だって建物出入口脇に喫煙所があったんだもん♪なお部屋に灰皿があったかどうかは覚えていません。そもそも室内で吸う習慣は数十年前に捨てましたんで=喫煙OKの居酒屋は除く。でも多分なかっただろうなぁ。

なお宿泊客が出歩いていいのはホテルの敷地内だけで、ホテル周辺の道路ですら勝手に歩き回ることは許されていません。10km圏内の検問所より外にあるとはいえ、ここは十分に「ゾーン」(30km圏内の立ち入り禁止区域)の中なのですから。市内には作業員の宿舎などもあるようですし、前にも書きましたが高齢者を主とした自主帰還者も生活しています。

なお敷地内は十分に除染がなされているようでした。



0.12μSv/h。やや高い位置からの計測となりましたが問題ある数値ではまったくありません。ワンちゃんもここなら大丈夫‥でもリード等で結ばれているわけでもないので、どこにでも行かれそうなのが「自由なんだけれどいいのかな」的な印象でした。あ、ホテルの正門がキッチリ塞がれていれば問題ないか(正門は見にいきませんでしたが)。でも案外おおらかというかいい加減なんだよなぁ旧ソビエト圏って(苦笑)。

ただし夜間から早朝にかけては宿泊客も建物の外に出ることができません(施錠されます。喫煙所までは可能)。これって夜間に火事でも起きたら避難できずに‥。そういう宿ってアジアの国々で時々見かけますが、幸いこの宿には部屋の窓まで格子で封印されているわけではないので何とかなりそうです(笑)。

さて19:30に夕ごはん。食堂へと進みます。何となくの雰囲気ではこの日の宿泊ツアーは3団体だったのかなと。料理に選択権などはなく出されたものをただ食べるのみ!



ま、まぁ悪くはなかったかな(笑)。ちなみにサラダは旧共産圏夏サラダのデフォルトとでもいうべき「トマトとキュウリ」でありました。チーズが添えられているだけいいかも。ボルシチじゃなくてトマトスープにマッシュポテトの添えられた肉料理(ハンバーグだったっけ、ソースはなく塩胡椒味)。パンがあるとはいえ量的にはかなり少なめで、大食いの人は夜中お腹が減ったのではないかなと。



部屋に戻ったあとは購入していたビールで乾杯といたしました。

ところで日本ではこれまで一般的に「チェルノブイリ」という呼称(表記)を用いていますが、これはロシア語由来の発音に基づくものであり、2019/7に在日ウクライナ大使館は日本語表記の場合「チョルノーブィリ」という呼称を用いてほしいという要望を発表しています。グーグルマップはそれに従っていますね。

ただ関係ない話になりますが、それより何年も前に「グルジアじゃなくてジョージア呼称でよろしく」と世界各国に要望したしたかの国に対して、ウクライナはいまも「グルジア」呼称を使用し続けているのだそうな。それじゃ駄目でしょ!また在日大使館によると「ウクライナ」の日本語表記についても「ウクライーナ」を希望しているようです。こういうのって「人の振り見てわが振り直せ」という気がしますが‥。



明けて翌朝。夜半にはかなり強い雨も降っていたようですし雷も鳴っていました。朝方6時10分頃(夏でも日の出は遅いのでまだ暗め)に喫煙所まで出てみたら、ようやく上がった太陽に照らされてうっすらが出ていました。

ちなみに気温はご覧のとおり(2019/8/8)。日中はともかく朝晩はそこそこ気温が下がるのはキエフとおんなじです。このあと少しして施錠が外されたので、敷地内限定お散歩に出てみました(おしんこどんはまだ睡眠グ中)。



屋号を示す看板、ウクライナ語とロシア語表記かな。いずれにせよ読めませんがとにかく「10」です。

あ、「кафе」だけはわかります。「カフェ=ここに行けばとりあえず食べ物飲み物には困らない」ですからねー。開店しているかどうかはともかくとして(笑)。



ん?左上画像の実は何だろう?(不明)。右上のブドウの実は生食用?ワイン用?

総量が少ないですから生食用でしょうけれどね。そういえばわれわれが現地を訪問している頃にこんなニュースが発せられていたようです。これは‥間違いなく売れるでしょうね。自分ももし販売されていたら買ったはず(呑兵衛)。



敷地内にはこんな柱まで。白光真宏会、ある意味やるなぁ。



リフォームされた館内廊下。柱は白樺をイメージしていると思われます。雑談ですが白樺の林って一次林なのです。広葉樹林帯を伐採すると最初に生えてくるのがカンバの木々。やがて地味が肥えるとそこに(日本の高原なら)ナラとかブナが生えてきて樹種交代というわけです。だから日本で白樺の林を見れば「あ、ここは開発林だな」とわかりますし、高山帯のダケカンバ帯などは「樹種交代などまかりならんほどに厳しい気候条件」であることが読み取れるわけです。以上雑談終了。

さてそんなわけで、客室数を考えれば明らかに席数が少ないと思われたので早めに朝食会場へ。フライング気味なのはいつものことです(普段はお風呂だけれど)。



朝ごはんも量は少なめ。見えている範囲すべてで2人前ですが、これで大食い系男子の方々は暴動を起こさないのでしょうか?(笑)。ちなみにこのチェルノブイリ市までの流通は問題なく行われており、当然キエフからの物資搬入が行われているはずです。

さて朝食後しばらくして出発です。お天気は小雨。と、ここで「雨具を持ってきていない」参加者が数名おり、「どこかで買えないかな」というリクエストが(ちゃんと準備してこいよな、普通の場所じゃないんだから!)。ガイドさん、では別のお店に行ってみましょうとの判断で近隣の商店へ(昨日のお店をスーパーとするならば、今度のお店は金物屋というかホームセンターかと)。事故前は10万人もの人口を誇っていた土地で、かのプリピャチ市(このあと訪問します)の倍以上の人が住んでいたわけですから‥ただしwikiによると2016現在の人口は704人とのことですが。



しかし日本のホームセンターを想像してはいけません。店構えこそ大きいですが建物内の販売エリアは小さなもので、その代わり「有効利用されていないスペース」は広かったです。さすがソビエトテイストというべきなのでしょうか?

メインロード沿いを見渡すと、市内中心部ゆえ歩いている人や乗用車も走行しています。ところであの2人組はなぜあえて草の茂ったエリアを歩いているんでしょうか?しかも雨が降ったり止んだりでぐっしょり濡れているはずなのに?

結局雨具購入リクエストを出した人が無事目的の品を買えたのかどうかはわかりませんでした。自分の記録画像を見る限り、このあと雨の中雨具なしで移動していた人もいますし、いっぽうでビニールポンチョ(失礼ながら見るからに安物)を着用している人もいました。でもそもそも白系の人って案外雨には無頓着だし‥。それってステレオタイプですかね?

そうそう今回のツアー参加者ですが、西欧系の旅行者が圧倒的で(まぁ英語ツアー車ですからある意味当然。ロシア語&ウクライナ語ツアー者は別車両)、われわれ以外の東洋人は上海からのソロ旅行者が1人いただけでした。その彼はまだ30代とおぼしき感じで、少し話しているうちに日本のアイドルファンだということで意気投合(ただし自分はそのアイドル=大塚愛を知らなかったので、実際のところはすぐに歌い出したおしんこどんとの意気投合でしたが)。しかしこの彼は、この日の後半に残念な状況に陥りました。昨日の車内アナウンスの時に寝ていたのかな?



再び10km圏内のゲートを通過します(入域時には放射線量値のチェックはありません)。この日はさらに進み「本家」たる原発周辺および当時の原発管理の本拠地たるプリピャチ市を訪問するわけですが‥うっひゃー、強い雨が降ってきたぁー!‥と思ったら止みました。この日午前中のお天気はかなり変わりやすい感じだったようです。



雨が止んだタイミングで一旦停車、ここで写真タイムということで下車。奥に見えているのは事故を起こしたチェルノブイリ4号機に被せられた鋼鉄製シェルター。事故直後に急造された「石棺」は見られなくなったにせよこれはこれで間違いなき「一歩前進」です(まだまだ何百歩もあることでしょうが)。

ここで動画です。1986年に事故を起こした4号機はもちろん即座に機能を喪失したわけですが、そのあとも1-3号機はしばらく稼働していました(2号機:1991年運転停止、1号機:1996年運転停止、3号機:2000年運転停止)。これには「全機停止すると電力需要を賄えない」という「大人の事情」があったのだろうと思います。

でもこの原発では事故当時「5/6号機が建設中」だったのです。もちろん建設は中止され、建設クレーンなども「その時のまま」残されていますが、もし事故段階で5/6号機が運転を開始していたとしたら‥川というか運河を挟んで反対側に位置していることもあり管理系統は別のはずだし、もしかして現在も運転を継続していたのかも?動画にはその巨大冷却塔(5/6号機併用)や原子炉建屋も見えています。



なお4号機が「とりあえずシェルターで覆われた」のは2016/11末ということですが、もちろんそのあとの接続作業(もちろん廃炉作業用のルートは確保)が行われてきたわけで、この作業の正式稼働(完成)が宣言されたのは2019/7/10だったそうです。やっぱりそれなりに時間がかかるんだ。

さてこのあとはチェルノブイリ(4号機)の南側を通ってプリピャチ市へと向かうわけですが‥やっぱり高線量の場所はあるわけです。「赤い森」直近を通過する際の車内線量値の変化を動画でご覧下さい(動画としてはダサダサですが、音声オン推奨です)。





なお前のページで「極端に高い」数値の画像を出しましたが、あれは完全に計測方法として間違っていますからね。福島原発事故後には「その方面(有象無象)の方々が」同じような計測の仕方によるデータ画像を公開して悦に入っていたようですが、科学的計測(比較が出来るデータを取得する)という点ではまったく意味のないデータにほかなりません。

でもこれは移動する車内(車体という一定の遮蔽物あり)、かつ間違いなく地上高1m以上ありの場所、そしてメインロードゆえすでに最低限の除染は行われているはずですから、この界隈の放射線量値は相当高かったのだろうと思います。そもそも松の木々が枯れてしまうほどだし。このあたりにはいやなもんが本当に沢山飛んできたんだろうなあ。



前日はチェルノブイリ原発の南東~南側をめぐっていましたが、この日は原発の脇を通って北西側のプリピャチを訪問します。かつてのメインストリート(片側2-3車線)も今では舗装林道みたいになってしまったようです。除染作業および物質の減衰その他により線量値はそれほど高くもありません(もちろんホットスポット除く)。でも事故後の緊急作業時には「黒鉛を手で拾って回収する作業員」の方々がおられたのだとか。嗚呼‥(チェルノブイリ原発4号機では黒鉛1700トンが減速材として使用されていました)。



車内では、事故前のプリピャチ市内の様子を伝えるビデオが上映されていました。人口約5万人、チェルノブイリ原発とともに開発され、そして原発事故とともにその役割を強制終了させられた都市であるプリピャチ。

原発と軍事基地を背後に控え、閉鎖都市ではありましたがその町並みは近代都市そのもので、原発従業員が居住する「若い都市」でもあったそうです(人口平均年齢26歳だったとか)。平均年収もソビエト国内平均を圧倒し、生活レベルも高いという、ある意味「共産主義下の理想郷」だったのかもしれません。

なお事故後のソビエトは2年後、チェルノブイリ原発から50km離れたスラブチッチに新たな人工都市を構築しました。現在チェルノブイリ原発の廃炉作業にあたる作業員の多くはこの都市から鉄道で通勤しています(最後はバス)。プリピャチ市から各地に避難した人々は避難先で酷い差別を受けたそうですが(福島差別とまったく同じ構図)、このスラブチッチ市が建設され移入してから「ようやく人目を気にしないですむ普通の生活ができるようになった」と安堵したのだとか。





どんどん道が「細く」なってきた先に、高層ビルが見えてきました。十数階建ての住宅団地です。市内には中高層の住宅団地が建ち並んでいるのです。

その中でもひときわ高い、16階建ての集合住宅に入っていきます。車を降りるときは雨は小雨ながらまだ降っていましたが、えっちらおっちら階段を上がっていく途中で止んだようです。



この建物に入ります。外観からして高級マンションの趣です。



元々はエレベーター(左上画像)がありましたが、今は人力で上がるしかありません(当然)。


それにしても、事故当時(1986年4月)にはもう普通に住民の方々が住んでおられたこの集合住宅、当時としたらかなりの高級住宅だったのではないかと思いますねぇ。党員幹部の家族優先だったとか?(想像)。



あちこちに、取り残された家具とか生活用品が散らばっておりました。



最上階には配管が延び、機械室となっていました。



さらに細い階段を上っていくと‥ようやく屋上です。











実際の距離感というか見え方はこんな感じです。





植物の生命力はすごい。アスファルトを割って根を張りここまで背を伸ばしています。



建物1Fまで降りてきたら、大量の本が散らばっている部屋がありました。ここは地域の図書室だったとのこと、宜なるかな。



さて、それでは次の場所に移動しましょう。十字架が何とも切ないです。

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