- 2019夏(31) 、ウクライナ編(7) ツアー2日目、まずはプリピャチ市内の集合住宅屋上へ - チェルノブイリ市内のホテル「Desiatka」に到着です。 |
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1日の終わりに日中立ち寄ったショップに再び訪問。「ここでビールとかが買えますよ」と聞いたら、もう誰もが飲み物の棚へと一目散(笑)。ちゃんと冷蔵庫で冷やされていましたんでよしよし。しかしホテルの部屋に冷蔵庫はなかったわけですが。まぁしょうがないかと。 |
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左上画像がその配置で、左から順に「共同シャワー&トイレ」「別のお客さんの部屋」「われわれの部屋」となっています。廊下側のメイン鍵は男性との話し合いで自分が管理することになり、結果、ほぼ開けっ放しでした。だって建物出入口脇に喫煙所があったんだもん♪なお部屋に灰皿があったかどうかは覚えていません。そもそも室内で吸う習慣は数十年前に捨てましたんで=喫煙OKの居酒屋は除く。でも多分なかっただろうなぁ。 |
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0.12μSv/h。やや高い位置からの計測となりましたが問題ある数値ではまったくありません。ワンちゃんもここなら大丈夫‥でもリード等で結ばれているわけでもないので、どこにでも行かれそうなのが「自由なんだけれどいいのかな」的な印象でした。あ、ホテルの正門がキッチリ塞がれていれば問題ないか(正門は見にいきませんでしたが)。でも案外おおらかというかいい加減なんだよなぁ旧ソビエト圏って(苦笑)。 |
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ま、まぁ悪くはなかったかな(笑)。ちなみにサラダは旧共産圏夏サラダのデフォルトとでもいうべき「トマトとキュウリ」でありました。チーズが添えられているだけいいかも。ボルシチじゃなくてトマトスープにマッシュポテトの添えられた肉料理(ハンバーグだったっけ、ソースはなく塩胡椒味)。パンがあるとはいえ量的にはかなり少なめで、大食いの人は夜中お腹が減ったのではないかなと。 |
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部屋に戻ったあとは購入していたビールで乾杯といたしました。 |
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明けて翌朝。夜半にはかなり強い雨も降っていたようですし雷も鳴っていました。朝方6時10分頃(夏でも日の出は遅いのでまだ暗め)に喫煙所まで出てみたら、ようやく上がった太陽に照らされてうっすら虹が出ていました。 |
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屋号を示す看板、ウクライナ語とロシア語表記かな。いずれにせよ読めませんがとにかく「10」です。 |
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あ、「кафе」だけはわかります。「カフェ=ここに行けばとりあえず食べ物飲み物には困らない」ですからねー。開店しているかどうかはともかくとして(笑)。 |
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ん?左上画像の実は何だろう?(不明)。右上のブドウの実は生食用?ワイン用? |
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総量が少ないですから生食用でしょうけれどね。そういえばわれわれが現地を訪問している頃にこんなニュースが発せられていたようです。これは‥間違いなく売れるでしょうね。自分ももし販売されていたら買ったはず(呑兵衛)。 |
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敷地内にはこんな柱まで。白光真宏会、ある意味やるなぁ。 |
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リフォームされた館内廊下。柱は白樺をイメージしていると思われます。雑談ですが白樺の林って一次林なのです。広葉樹林帯を伐採すると最初に生えてくるのがカンバの木々。やがて地味が肥えるとそこに(日本の高原なら)ナラとかブナが生えてきて樹種交代というわけです。だから日本で白樺の林を見れば「あ、ここは開発林だな」とわかりますし、高山帯のダケカンバ帯などは「樹種交代などまかりならんほどに厳しい気候条件」であることが読み取れるわけです。以上雑談終了。 |
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朝ごはんも量は少なめ。見えている範囲すべてで2人前ですが、これで大食い系男子の方々は暴動を起こさないのでしょうか?(笑)。ちなみにこのチェルノブイリ市までの流通は問題なく行われており、当然キエフからの物資搬入が行われているはずです。 |
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しかし日本のホームセンターを想像してはいけません。店構えこそ大きいですが建物内の販売エリアは小さなもので、その代わり「有効利用されていないスペース」は広かったです。さすがソビエトテイストというべきなのでしょうか? |
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再び10km圏内のゲートを通過します(入域時には放射線量値のチェックはありません)。この日はさらに進み「本家」たる原発周辺および当時の原発管理の本拠地たるプリピャチ市を訪問するわけですが‥うっひゃー、強い雨が降ってきたぁー!‥と思ったら止みました。この日午前中のお天気はかなり変わりやすい感じだったようです。 |
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雨が止んだタイミングで一旦停車、ここで写真タイムということで下車。奥に見えているのは事故を起こしたチェルノブイリ4号機に被せられた鋼鉄製シェルター。事故直後に急造された「石棺」は見られなくなったにせよこれはこれで間違いなき「一歩前進」です(まだまだ何百歩もあることでしょうが)。 |
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なお4号機が「とりあえずシェルターで覆われた」のは2016/11末ということですが、もちろんそのあとの接続作業(もちろん廃炉作業用のルートは確保)が行われてきたわけで、この作業の正式稼働(完成)が宣言されたのは2019/7/10だったそうです。やっぱりそれなりに時間がかかるんだ。 |
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なお前のページで「極端に高い」数値の画像を出しましたが、あれは完全に計測方法として間違っていますからね。福島原発事故後には「その方面(有象無象)の方々が」同じような計測の仕方によるデータ画像を公開して悦に入っていたようですが、科学的計測(比較が出来るデータを取得する)という点ではまったく意味のないデータにほかなりません。 |
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前日はチェルノブイリ原発の南東~南側をめぐっていましたが、この日は原発の脇を通って北西側のプリピャチを訪問します。かつてのメインストリート(片側2-3車線)も今では舗装林道みたいになってしまったようです。除染作業および物質の減衰その他により線量値はそれほど高くもありません(もちろんホットスポット除く)。でも事故後の緊急作業時には「黒鉛を手で拾って回収する作業員」の方々がおられたのだとか。嗚呼‥(チェルノブイリ原発4号機では黒鉛1700トンが減速材として使用されていました)。 |
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車内では、事故前のプリピャチ市内の様子を伝えるビデオが上映されていました。人口約5万人、チェルノブイリ原発とともに開発され、そして原発事故とともにその役割を強制終了させられた都市であるプリピャチ。 |
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どんどん道が「細く」なってきた先に、高層ビルが見えてきました。十数階建ての住宅団地です。市内には中高層の住宅団地が建ち並んでいるのです。 |
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この建物に入ります。外観からして高級マンションの趣です。 元々はエレベーター(左上画像)がありましたが、今は人力で上がるしかありません(当然)。 |
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それにしても、事故当時(1986年4月)にはもう普通に住民の方々が住んでおられたこの集合住宅、当時としたらかなりの高級住宅だったのではないかと思いますねぇ。党員幹部の家族優先だったとか?(想像)。 |
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あちこちに、取り残された家具とか生活用品が散らばっておりました。 最上階には配管が延び、機械室となっていました。 さらに細い階段を上っていくと‥ようやく屋上です。 実際の距離感というか見え方はこんな感じです。 |
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植物の生命力はすごい。アスファルトを割って根を張りここまで背を伸ばしています。 |
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建物1Fまで降りてきたら、大量の本が散らばっている部屋がありました。ここは地域の図書室だったとのこと、宜なるかな。 |
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さて、それでは次の場所に移動しましょう。十字架が何とも切ないです。 |
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