- 2019夏(32) 、ウクライナ編(8) プリピャチ市内のプールや学校、スーパーなど -



続いて市内中心部へと進んでいきます。見えている建物はホテルでした。

森の中の「細道」(元々は大通り)を車は進み、途中で車を降りて歩きとなります。放射線量値は0.20μSv/hくらいで低く抑えられています。これって放射性物質自体の減衰によるところが大きいのだと思いますが(Cs137の半減期はもう過ぎています)、もちろん「除染」による低減効果や、地表が落ち葉や土に覆われた事による遮蔽効果もあるような気がします。



「この場所は事故が起きる前はこんな場所でした」とガイドさんが示します。背景の森を見ると全く信じられないほどですが、木々に交じって昔の街灯柱があることから、ここが大通りの一部だったことが知れるわけです。







続いては「Azure」という複合スポーツ施設です。先ほどの集合住宅と違い、こちらはかなり外壁等が傷んでいるようです。よく見ると、コンクリート造ではなくレンガ積みにモルタルを塗っただけの様子。構造からして違うからなんですね。



屋内運動場もありますが、こちらの有名どころとしては‥





1970年代に建設されたこの建物は1986年の事故後も使用されていました。使用が終了されたのは事故の12年後である1998年。しかしもちろん通常のオペレーションが行われていたわけではありません。

事故後、「リクビダートル(ロシア語で「後始末をする人」の意味)」の人々が市内に入り、除染、汚染木の伐採などさまざまな作業に従事しました。その人たちは当然「汚染(被曝)」するわけで、作業終了後にここで泳ぐことは、いわば自分自身を「除染」していたようなものです。

でも本当に泳いでなんかいたのかな?プールサイドのもともとの床部分はそのままだと作業の邪魔だということで(滑りやすい?)すべてはがされ、別の板(またはコンクリート)が敷かれた云々とガイドさんが話していたような気がするんですが、残念ながらこのあたりガイドさんの説明についての記憶曖昧)。

残念ながら現在ではプールの下方に入り込んだストーカーにより、へたくそな落書きが書きなぐられてしまっていますが、長い間ずいぶん頑張ってくれたんですね。なお、「Azure Swimming Pool」で検索するとwikipedia(英語版)のページがヒットしますが、そこには事故から10年後、1996年撮影のプール画像が掲載されています。「プリピャチで一番清潔な場所」かぁ、なるほどなぁ。



さすがに内部はぼろぼろになっていますが、計測板は今でも使えそうです。

このあとはプール棟の隣にあったMiddle School No.3へと移動します。ここも定番の訪問地のようです。ネット上にもこれと似た画像が山と出てきますから。



理科室とおぼしき部屋には大量の廃棄ガスマスクが。これらのマスクは原発事故対策用ではなく化学兵器に備えて準備されていたもののようですが、結果としては役に立った‥ん?でもちょっと不思議です。

もし避難時にガスマスクを持参したとするならマスクはここには残らず避難先にて廃棄されるはずです。また使用済みガスマスクがこの部屋だけに集積されるのも不自然です。

また当時の避難画像を見るに、マスクを着用しての避難者はほとんどいないように見えました。公式発表は「3日だけ念のため避難する、そのあと再び戻れる」でしたから、市民が放射能汚染について深刻にとらえていなかったのはある意味当然でしょう。

ガスマスクは消防署の跡地に置かれていたように、公的機関には非常時に備えてガスマスクが備蓄されていたのでしょう、そしてここは学校ですから当然備蓄があったはず。

あるサイトにはこのような説明がありました。

「ガスマスクの内部には銀が用いられており、事故後銀泥棒が現れて備蓄倉庫からガスマスクの銀の部分だけを取り外して持ち去ったとのこと。」こちらのサイトに記載あり)

この方はプライベートツアーを利用したとのことですから、ガイド氏(軍人さん)から直接説明を受けているはず。情報の信憑性は高いはずですし、またマスクがここにあることの整合性も説明できます。なるほどなぁ。



東日本大震災の時も、「整然と行列」「お互い助け合い」というような美談の裏側ではあちらこちらで空き巣や銀行侵入事件が起きていたといいます。いわゆる「火事場泥棒」がここにもいたというわけですね。しかもある意味「命を賭けて」‥。

さてこのあとは校内を回ります。



そろそろこのような「廃墟」も見慣れてきたように感じますが、廃業したホテルなどの建物とは違い、ここは「ある日突然普通の生活、日々のサイクルが打ち切られた」場所なんですよね。廃墟ではないにしろそれは福島第一原発の周辺地域と同じ。震災後初めて富岡町夜ノ森地区を通ったときのことを思い出します。まだ居住制限地域だったので、町はあるのにほぼ誰もいなかったあの時のことを(この時です。2014年3月)。

そして、別の教室には何ともほのぼのする壁画が。







ところで気になったのがその「みんな仲良し」系の壁画と、誰かがあとで開いたとおぼしき左上画像ノートの内容です。ミドルスクールというからには中学校なのでしょうが、壁画の絵柄はどう見ても小学生向きだし、ノートの内容を拡大すると足し算引き算の練習問題で、これは明らかに小学校の学習内容。もしかして中学校と小学校が併設されていたのでしょうか?その可能性は高そうな気がします。



市内中心部の学校だったこともあり意匠もモダンです(建物を支える柱なのに強度的にどうなのよという気もしますが、そもそも33年間放置されてもびくともしていないのですから問題ないはずです)。

いっぽうで、ある場所に集積されていたこの綿のようなもの‥これって‥石綿ですよねたぶん(苦笑)。



学校の前にて比較同定。ここはアスファルトがまだ頑張っています。



このあと崩れた学校校舎などを目にしながら市の中心部にやって来ました。ここはスーパーマーケットVoskhod Grocery Store)。商品棚の列を示す掲示もお洒落。少なくとも1980年代半ばの日本のスーパーより断じてお洒落(当時の高級スーパーは知らないけれどさ)。それにしても、避難指示が出たときも営業はしていただろうに、どんな感じで「撤収」して帰宅したんだろうかここの従業員さんたち(いやこの日働いていた全ての方々にいえることですが)。



おしんこどんはガイガーくんの計測行動に同行しておりました(笑)。



そして中央広場(レーニン広場)にやってきました。左上画像はホテルポリーシャ、右上画像はエネルゲティック文化会館です。かつてのプリピャチ市心臓部にあたるこの場所ですが、当然のごとくここにも植物が根を張り始めています。あ、福島のTシャツを着ている人がいますね(笑)。



これらもこのままずっと「放置」されるのでしょう。「お宝」にあたるものは間違いなく全て持ち去られてしまったはずですから。左上画像の肖像画の人、もう亡くなられているとは思いますが、まさか自分の肖像画がこんな形で残り続けるとは思いもよらなかったことでしょう。

さて続いては遊園地と水辺のカフェへ。はい、もちろんどちらも営業してはいませんが。

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