− ジャール平原、まずは「定番」サイト1へ −

というわけでジャール平原に向けて出発です。しかし天気は‥うーん全面的に曇っていてイマイチ。昨日までは晴れていたようですし、しかも今は乾期真っ盛りのはずなのに何でだよーっ。結局シェンクアン滞在中はずっとこんな天気(曇り時々雨)でした。特にジャール平原は晴れているのと曇りなのとではたぶん全然印象(爽快感)が違うはずなのでちょっと残念、いや大いに残念でした。天気のことは誰にも文句が言えないんだけれどね。

明後日までの行程でガイドをしてくれるのはソータさんではなくイーバンさん。モン族の方で、故郷はここポーンサワンよりももっと南の方ながら、子供のころにポーンサワンに引っ越してきたのだとか。英語はツーリストに教えてもらいつつも基本的に独力で学んだそうです。

出発後すぐ、観光局らしき事務所で入域手続きのために小休止。建物前の広場には戦車の上の部分や爆弾の殻などが展示?されています。で、室内に置かれていたのはモン族の伝統楽器。イーバンさんが「吹いてみます?」というので、職員の方はいませんでしたが勝手に吹いてみました。


「おしんこどんもTakemaもめいめいに」

ただしTakemaは調子に乗って浮かれているだけとも言います。

Wmv形式、1.1MB、28秒

さてさてこれから向かうジャール平原ですが、石壷の集中する場所ごとに「サイト1.2.3‥」というようにナンバーがつけられています。何でもサイトの数そのものは20箇所余りあるそうですが、旅行者が訪れるのは1-3のみ(他のサイトではたぶんまだ不発弾処理が終わっていない?)。中でもサイト1が一番人気なのは、町から一番近く(しかも全舗装路)、また一番大きな壷があるからなのでしょう。

ちなみにいつ頃&なぜこのような壷が造られたのかはいまだに謎らしいです。いろいろ説はあるようですが(石棺=墓だとか)、誰も真相を知らないままだというのがラオスらしいぞ。わからないまま世界遺産に指定されちゃったらどうするんだろう?(笑)。ちなみに登録申請中だそうですから‥。

そんなわけで、ゲートからしばらくなだらかな坂を登っていくと、あれまいきなり「大物」が出てきました!



全ての壷の中で最大のものがいきなりお出迎えっ!

ちなみに驚いたのがここサイト1の位置。丘の上なので見晴らしがいいんですが、周囲を眺めていると、指呼の間にシェンクアン空港が見えるではありませんか!なーるほどこんな場所にあったのねと地理感覚を新たにしました。これならいざとなれば飛行機で帰る前に寄ってもらうことだって出来るんじゃないか?という感じです。もっとも空港からここに直行する道路はありませんが、無理をすれば間に広がる草原を突っ切って歩いてこられる?

それだけは絶対にやめておきましょう!(きっぱり)



この標識の意味するものは?

前のページで「ベトナム戦争中ラオスにはベトナムよりも多くの爆弾が投下された(国民1人あたり1トンらしい)」というようなことを書きましたが、直接アメリカに宣戦布告したわけでもないラオスが(ラオスは中立国、ただし政府軍と革命軍との内戦はあったらしい)どうしてアメリカ軍の標的になったのでしょうか。

実は、北ベトナム軍が南に物資を補給するために設定した、通称「ホーチミン・ルート(トレイル)」がこのあたりや南部のパークセー付近を通っていたのです。「ルート」とはいっても車が通れるような立派な道というわけではなく、それこそゲリラが通るような小道だったりしたわけで、アメリカ軍は「見えない補給路」を絶つため闇雲ともいえる絨毯爆撃を行ったそうなのです。その不発弾(大型爆弾のみならず空中で撒かれるクラスター爆弾も)は今もこの地に数多く埋もれており、1999年から2006年までの間に938人が死傷したといいます。一説には各爆弾の1-2割は不発弾だったというのですから、その数は半端なものではありません。

さらには別の場所を爆撃する予定で飛び立った飛行機が何らかの事情で爆弾を投下しなかった場合など、「着陸時の爆発の危険を避けるため」という理由でこのあたりに落としていったこともあったようで、こうなるともう本末転倒としかいいようがありません。

上の画像に記された「MAG」Mines Advisory Groups)とは地雷等処理の国際NGO組織なのですが、この標識がある場所は「不発弾がないことを確認済み」ということになるわけです。ただし、それは標識の白い側だけ。その反対側にも同じような標識が埋め込まれており、その間の場所だけが安全地帯ということになります。

ここサイト1はジャール平原の中でもっとも多くの観光客が訪れる場所ですが、それとて刈り払いのなされた「標識内側」のみが安全な場所で、近くに見える空港までの草原エリアは当然未チェックエリア。上で「絶対にやめておきましょう!」と書いたのは、命の危険を冒してまでショートカットで歩く価値は全くないでしょ?というわけなのです。

ちなみにこの大壷のすぐ脇には、アメリカ軍の爆弾が爆発して出来た大穴(クレーター)があります。直径は10mくらい?ここサイト1もまた、ベトナム戦争時には「戦場」だったのです。

ラオスでの不発弾処理は一説によると「あと100年かかる」とも言われているようであり、今ももちろん撤去作業は続いています。上記「MAS」はイギリスの組織ですが、日本からも「JMAS(日本地雷処理を支援する会」というNGO組織がここシェンクアン県で活動中です。またこちらはカンボジアの不発弾処理NGO組織のページですが、このあとわれわれが行く予定の「サイト3」近くの水田での地雷発見(by MAG)についての記事があります。4000平方mに145個!たった60数m四方の土地に!そして毎年そこで水田耕作が?恐るべき現実がそこにあります。



あちこちにこのようなクレーターと標識とがあります。

ちなみに上の画像ではわかりませんが、このようなクレーターの中心部には、さらに深くえぐれた小穴があいていることがあります。実はそれ、ラオスの人々が爆弾の金属片(アルミニウムとか)を取り出すために掘った穴なのだそうな(「Bomb Crator」に対して「Lao Cratorだ」とかイーバンさんはおっしゃっていたような)。その地で生きる人のたくましさを感じますが、現実にはそういう人たちも不発弾にやられて多く死傷しているというのですから、それこそ「命がけ」の仕事というわけです。ちなみにこちらのページが参考になるかも知れません。

すっかり不発弾ネタになってしまいましたが、そろそろ壷の話に戻しましょう(笑)。サイト1には335個、2は90個、3は160個の壷があるとネット上に書いてありましたが、丘の上には10数個しかない感じ。見ると、はるか下の方に多くの壷群が見えます。数からいえばあちらがメインエリアのようですね。と、その前にもう少し記念撮影っと。



背の高いのも低いのも、またほとんど壊れてしまったものもあったりします。

さて下のエリアに行こうとすると、なぜかイーバンさんは全然別方向の踏み分け道を歩いていきます。するとそこには洞窟がぽっかり口を開けていたのです。



あれあれ何の穴?防空壕か何かだったのかな?

イーバンさんの説明によると、実はベトナム戦争時この洞窟はガソリンの貯蔵庫として利用されていたのだそうな。で、そのことが米軍の知るところとなった結果この界隈は爆撃の的となったということなのだそうです。空爆により洞窟の上部には穴が3つ開いています。洞窟内にはドラム缶のフタとおぼしきものもありました。あな恐ろしや、爆発は免れたんでしょうか?(聞くのを忘れた)。



ガイドによっては何の説明もしないのか、イーバンさんに質問してくる旅行者もおりましたっけ。



さてこのあとはいよいよの密集エリアへ。でもなぜ横並びなんでしょうかね?

こちらには小型の壺がたくさん並んでいます。壊れたものもいくつか見受けられますが、これは爆撃のせいなのか風化したのかはよくわかりません。で、「壷の中に入ってみた」のが右上画像。Takemaが入ってます‥が、「マウスオンし続ける」と?(笑)。

実はこの両画像、よっこらせと上から入り込んだわけじゃありません。この壷は破損品なんで‥左上画像にマウスオンするとこの壷を横から撮影した画像に変わります(笑)。

その後もどんどん歩いていきます。中に水が溜まっている壷も、乾期には乾いてしまうんだとか。あのー今って乾期なんですが‥。中央画像は一応説明が必要でしょう。数ある壷の中で、唯一これだけが「外側に人形(ひとがた)の彫刻が施されている」ものなのだとか。マウスオンすると大体のイメージがわかります。

さらには蓋付きの壷もあります。というか1つだけですが。しかしこれまたマウスオンするとわかるのですが、何だか本体と蓋のサイズがミスマッチじゃないですか?本当にこの壷用の蓋なのかしらん?

これについてイーバンさんは「自説」を披露してくれました。それは‥
「蓋の上方を見てください。いくつも円形に段差がつけられているでしょう?実はこの蓋はこの壷専用のものではなく、多くの壷に使い回されていたと私は考えます。で、今上を向いている側が本当は下側になるんじゃないかと思うんです。」
つまりはこういうことですね(これはあくまで彼の仮説ですので、「へぇ、そうなんだ」と信じ込まないでください(笑))。

確かに、ほかに蓋が見あたらないのも不自然です。蓋フェチの輩が蓋だけをことごとく持ち去った訳でもアルマーニ(無言)。やっぱり使い回していたんでしょうかね。でもこれらがもし墓=石棺なのだとしたら、蓋を開けておくというのはやっぱり不自然な気が‥というかコワイぞ(笑)。というわけで、「謎」なんだからこれ以上考える必要はないのであります(逃)。

さて、このような「変わり壷」はともかくとして、正直なところフツーの壷をずーっと見ていても特に面白いものではありません(苦笑)。じゃあ何で来たんだと言われれば返す言葉もないんですが、やっぱり曇っていてうすら寒いから印象がイマイチだったのかなという気もします。青空の下で見てみたかった!

上の2枚はアホやってるわれわれ夫婦です。ちなみに左上画像に「マウスオンし続ける」と‥何だか今回このパターンが多いような‥Gifファイルになっちゃうし重くなるのであんまり多用すべきじゃないんですが、世の中ブロードバンド時代だしまぁいいか(開き直り)。というかそろそろFlashにしなさいって!(ソフトは持ってるんだけれど使い方をマスターしようとしてない)。



駐車場には何とKawasakiのオフ車が2台!車体に貼られたステッカーから見るに、ライダーはタイ人?

再び駐車場まで戻ってきたあとで看板を見てみると、NZの不発弾処理隊がここサイト1エリアの「掃除」をしたことがわかります。約3ヶ月の活動期間中に発見され処理された爆弾の数が127個だということも。ジャール平原、特にサイト1といえばシェンクアン県最大の観光地といえるでしょう。そこですらたった3年前に作業をしたばかりだというところに、この地域の見えない未来があるように思えてなりません。

ちなみにラオス政府は、出来るだけ早い時期にジャール平原エリアの不発弾処理を完了させたいという意向のようですが、それはもちろん平原全体を指すのではなく、まだ最低限の確認しかできていない(と思われる)サイト2&3のエリアのことを言っているのでしょう。ここサイト1だけですら数ヶ月かかっているのですから‥。

それではいよいよその「サイト2&3」に行ってみましょう!ガイドのイーバンさんの指示に従って行動すれば大丈夫!(たぶん)。
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