− その2 シャン族の村訪問はお茶と煙草と地域の現実談議(2) −



村の中をのんびりと歩いていきますのだ。

さて次のお宅に行くまでの道で、スペイン人のドラウルが「えっ?」と思うような質問をし始めました。それはあのアウンサン・スーチー女史軟禁問題に関する話だったのです。自分はここミャンマーに来るまでの下調べの中で、「うーん、どうやら現地ではこの問題についての話題はタブーにしておいた方が良さそうだな」と感じ、もちろんこれまでの数日間もその話はおくびにも出さないでいたのですが(地元民の中にも政府に通じている者がいて、どこで聞き耳を立てているかわからないという話も、ホントかどうかはわかりませんが読んだ記憶がありましたから)、ドラウルはそのことを全く気にかけるでもなく、いきなり単刀直入にその質問をし始めたのですから、「やっぱり自分の(日本人的)感覚とは違うのかなぁ」と思いながら聞いていたのです。

ちなみに彼は世間知らずの若造でも何でもなく30代半ばの立派な社会人、知的で真面目な人でしたよ。あえていえばドイツ人のカツキンよりユーモアのセンスがなかったかな(笑)。

しかし、ガイドさんは「ちょっと待て、その前に説明しておきたいことがある」と前置きした上で、次のように話し始めました。変な脚色(及び間違った記憶や思い込み)があるといけないので、ここからは当時の日記を抜粋することにします。聞き取ったことをその日の夜にまとめて日記にしたものなので、細かな年号や内容には記憶違いや思いこみが含まれているかもしれません。その点についてはご理解ご容赦下さいませ。

ここから話がシャン関係の話になった。

このあたりはもともとシャン族の土地であり、長年地元の王族が支配して支配してきたのだが、1947年のビルマ独立後にアウンサン将軍?との間に自治(及び独立)に関する約束は出来ていたらしい。しかし将軍が暗殺されたあと事態は大きく動き、シャンの意向とは裏腹にこの地域はビルマ政府の管理(支配)下におかれることとなった。それに対する反抗としてシャン地方革命軍が結成され、政府と内戦状態になった。

内戦状態のため、中央(ヤンゴン)政府はこの地域を外国人立入禁止区域に指定した。当時のティーボー市内は極度の緊張状態にあり、市内であっても政府軍が来ると住民はみな山に逃げたのだという。特に男性の場合は、政府軍に捕まるとそのまま移送されて「強制徴用」となり、別の地域で「政府軍兵士として」働かされたのだそうだ。せめてもの救いは、彼ら政府軍がこの地を「自分たちの土地」と考えていたため町の破壊を行わなかったことであり、そのため町は今でも昔の面影をそのまま残しているということだった。

禁止の解除が認められたのは1994年のことであり、ということはツーリストがこの地域に立ち入れるようになったのもたかだかここ10年のことらしい。ちなみにこの地域では、現在でも中央(ヤンゴン)政府による実効支配区域はティーボーの市内エリアに限られており、この村をも含む周辺地域は今もシャン地方革命軍の支配下にあるのだという。なるほど、それでスーチーさんの話も村の中では堂々と話せることに強く納得。

ちなみに現(ヤンゴン)政府とは、現在においても「停戦協定」が遵守されている
だけであり、現在のところその協定が破棄されることはなさそうだが、シャンの人々は「この地は『ミャンマー』とは別の国である」という意識を強く持っており、たとえば特産のパイナップルにしても、「マンダレーに輸出」するという感覚らしい。これらは自分にとって何だか思いがけない内容であり、「地球の歩き方」には決して載っていない「現実」でもあった。
念のため申し添えれば、「地球‥」の編集部は立場上現政権について気を配った記述をせざるを得ないわけで、「地球‥」を批判しているわけでは決してありませんので念のため付け加えます。下手をすれば「地球‥」を国内持ち込み禁止にさせられてしまう可能性もなしとは言えないお国柄なのですから。
ちなみにシャン族の分布はこのティーボーエリアだけでなくいわゆるハイランド地方全域に及んでおり、たとえばインレー湖周辺ももともとシャン族のエリアだし、ここから近いピンウールィンも当然シャンのエリアだったのだが、強引にマンダレー側に編入されてしまったという歴史があるらしい。全人口におけるシャン族の割合およびイギリスによる植民地時代におけるラングーン政府との関わり合いの濃淡もそのあたりの歴史に関係しているのではないかと勝手に思った。

なお、ミャンマー国内の内戦としてあげられるのはここシャンだけではなく、タイ国境エリアにおける少数民族の問題もある。もともとタイ北部のメーサイなどに行った時に感じていた問題ではあるが(前に日帰り訪問できたタチレクが、次に訪問した時は国境閉鎖になっていたりしたし)、現在においてはこちらの方が現在進行形的に流動的な情勢らしい。共産主義を旗印に掲げたこの独立闘争(確かカレン族だったっけ)は、現在でもヤンゴン政府と停戦協定を結ぶことなく続いているのだという。

ちなみに「戦うための武器」の入手だが、ここシャンは中国から、そしてカレンの方は「黄金の三角地帯(タイ側ではほぼ無くなったが、ミャンマーでは政府の取り締まりの手も及ばず現在でも栽培されているという)」からあがるアヘン売買で得た金を用いて、内戦から脱却しつつあるカンボジアやラオスから(余った武器を?)調達しているようだ。

アヘンの話になったのでついでに書くが、ガイドさんの出身はここティーボー周辺ではなく、同じシャン州ではあってもかなり中国国境に近い村らしい。そこは国境近くという地理的要素も重なり、現在もなお非常に事情の複雑な場所であるらしいのだ。周辺にはミャンマー軍のみならず中国人民解放軍なども(何と国境を越えて)展開しており、それに対して村は自治軍を構成してそれらに対抗し、結果としては
「小さな独立状態」にあるらしい。

どうやって「独立」を維持(=敵を排除)しているのかといえばやはりアヘンの売買によって得た資金によるところが大きく、もちろん現在でもケシは堂々と(他からの干渉がないのだから当然だが)栽培されているらしい。アヘンの運搬手段としての馬が1頭いれば大きな収入を得ることが出来るというのだから、村の人々にとっては「やめる意味のない仕事」だといえるだろう。今その村に「代替作物の栽培」を提案したって、所詮無駄なことなのだ。

ここの村人は今もアヘンの常習者であり、しかもガイドさんによれば女性のほうがよく吸うのだという。なぜ?と誰かが尋ねると、「さぁねぇ、男は寝てばかりだけれど、女は家事で起きている(=吸える)時間が長いからじゃないの?」という、ウソかまことか真偽を図りかねる答えが返ってきた。ま、ガイドさんも村を離れてかなりたつわけだろうし、われわれ旅行者に真実を隠す必要性もないわけだから、理由は本当にわからないのだろう。いずれにせよ、今なおシャンの奥の方でアヘンが今でも製造され続けていることだけは確かなようだ。

ところでアヘンの話から、いつの間にか話題はビンローになった。ガイドさんいわく、ビルマ人はビンローを喫するがシャン人には全くその習慣がなく、そのかわりみな煙草を喫するということらしい。全くもってありがたいことで、自分にとって「いつでもどこでも煙草が吸える」という環境は何だか久しぶりだ(ただしCharles GHの各室内は禁煙。そのかわり部屋以外では問題なし。まぁ西洋人向けの宿だからそういう点はしょうがないのかな)。

このあと4軒目へ。またお茶が注がれる。たぶんこれで8杯目だ。ここの庭にはいろいろな果物の木があり、カツキンは地元の人が「Crystal Apple」と説明してくれる実を「ドイツ語では何というのだろう」と知りたかったらしく辞書をとりだして調べ始めた。

歴史の違いというべきだろうか、近代日本ではもともと日本にないものにあらためて日本名を冠することをしようとはせず、そのまま外来語をカタカナ表記にして済ませてしまう。オレンジしかり、コンピューターしかり。しかし旧宗主国は違う。植民政策の過程において元々あった村の呼び名をそのまま自分たちの呼び名にすることをよしとせず、それまで住んでいた人には全く馴染みのない、そして自分たちにはとてもわかりやすい名前を付けたのだ。今さら当時の人々のその名付け行為を「非」とするつもりはない。それはそういう時代だったのだからやむを得ないことであり、現在の自分の価値基準を押しつけることは意味をなさないだろう。

ドイツ人のカツキンは(多分ドラウルもそういう発想をするのだろうが)、旧宗主国の民族的なプライドか、植民地での名詞の呼び名をそのまま自国語として受け入れることはせず、自分たちが置き換えた(はずの)新たな独自の名を見つけたがる。そこに新鮮な驚きを感じたのだ。まぁ日本もシンガポールを昭南島と置き換えるようなことはしていたようだけれどそれは近年のほんの一時のことであり、明治期に端を発する外来語の漢字表記、そしてその次のステップとしてのカタカナによる外来語表記の慣習は、
日本語の懐の広さとともに守る姿勢の希薄さを露呈したものだと思ってしまう。その点中国は「電脳」の国だからなぁ。旧宗主国ではなくても中華思想がある!というわけか。それはともかくとしても、

辞書で現地の果物のドイツ語名を調べ始めたカツキンと、「そんな果物の名前は日本語にはないだろうから『クリスタルアップル』と覚えておけばいいや」と思ったTakemaとの文化的素地の違いはかなり根深い。

ドラウルはここでもまた、さっきの話の続き「ミャンマー政府はなぜ獅子身中の虫スーチーを殺さずに軟禁しておくのか」という話をしていた。かなり興味があるようだ(スペインでは日本と同様にミャンマーに関する報道がほとんどないだろうから。でも自分もスペインの「バスク祖国と平和(だっけ)」についてはほとんど知らないのが現実だから、彼の「知りたい」という欲求を否定することなど出来ない。むしろ彼の姿勢に学ぶべきことは多い)。

ところで日本ではなぜスペインよりもはるかに近い国ミャンマーについての報道がなされないのだろう。スーチー女史の身辺に何か動きがあった時は報道されるが、ここシャンの独立問題や、カレン独立運動についての報道はほとんど聞いたことがない。報道姿勢に偏りがあり、また「ミャンマー現政府を必要以上に刺激することは得策にあらず」という、戦後からずっと「守りの外交」を貫いてきた日本政府の意向も働いているのだろうか。いや、本当は「ニュースバリューが低く、取材も大変だ」というのが本音なんだろうな。

話は変わるが、旅行の計画段階で行こうとしていたラーショー(ティーボーよりもさらに中国国境に近く、マンダレー発の列車の終着点)は、ティーボーに比べてはるかに大きな町であるだけでなく、民族的にも中国系の比率が圧倒的に高い町らしく、いわゆる「ミャンマーらしさ」はほとんど感じられないくらいだという。そういえばカツキンはピンウールィンからここティーボーに移動してきたが、ミャンマーの田舎町として落ち着けるのは圧倒的にこちらだという。やはりラーショーでなくここティーボーを選んだのは正解のようだ。

なお、やはり中国人の商才たくましきというべきか、ここティーボーでも新築中の家(特に市内)はまずそのほとんどが中国系商人のものらしい。GHの向かいでも、曲面ガラスをあしらった(周囲の家並みとは全く浮いた雰囲気の)「立派な家」が建築中だったが、これもまた云々。



ハイ、長々テキストはここまででぇっす!(笑)。ちなみに一部表現は変更したとはいえ、上記内容のほとんどが日記をそのまま書き写したものですから、われながらホントに真面目に書いてたのね(自分に感動)。

それじゃ、あとはこの時の数少ない画像をいくつかご紹介してこのページの結びとしましょ。

油断しながら村の中の道を歩いてはいけません。ふと道の一段上を見上げたら、大きな体の水牛くんが口に草をくわえたまま微動だにせずこちらを見ていました。びっくらこいたのはこっちだって!

川沿いに出ると、お父さんと息子が釣りにいそしんでおりました。雰囲気的には「休日に息子と楽しむレクリエーション」というのではなく、「今日の義務@二人してこの日のおかずを釣りあげねば!」という雰囲気でした。ちなみに見ている限り、餌を取られただけのようでしたけど(ごめんなさい)。
さて、続いて最後のお宅(5軒目)へ。それにしてもガイドさんの行動を見ている限り、どの家を訪問するかは「ガイドさんの気分次第」のようで、この家などは家の前を通過しようとしたら中から声がかかり、しばらく世間話に興じていたと思っていたら「じゃ、中に入れてもらいましょう」というとってもアバウトな感じでした。ガイドさん自ら「ちょっと戻った」のは確かですから、このツアーコースがマニュアル化されていないのは確かなようです。そしてそれこそ自分たちにとってはまさに「願ってもないツアー!」だったのです。

さて、今度の家は失礼ながらこれまでに比べてちょっと質素な印象を受けました。出していただいたお茶の湯飲みもちょっとくたびれたような感じでした(もちろんそのこととそこに住む人の印象は全く別ですので念のため!)。ここでは何と「シャンの内職作業ここにあり」を見せていただくことが出来たのでした!



おじいちゃんがお茶を注いで下さり、おばあちゃんは話をしながらも手を休めず!

じつはこのおばあちゃん、葉巻きタバコを一本一本手作りで製作していらっしゃったのでした。よくよく聞くと、実はこの家の畑でタバコ葉の栽培をしているわけではなく、工場で乾燥&細かく裁断された原料葉と巻くための未裁断葉を購入し、この家でそれを日がな製品に仕立て、再び完成品を工場が買い取るのだといいます。工場とすれば売買の過程で2回利ザヤを稼げることとなり(ずるいな)、一方内職の作り手は安い買い上げにむくれながらも泣き寝入りというのがよくあるパターンなのですが、さてここミャンマーではどうなのでしょう?おっとその前に?
おばあちゃんの職人芸 (26)

「こうやって葉巻きたばこは作られていきます」

いろいろと会話を交わしながらも、手はテキパキと動き続けてます。さっすが慣れた「職人」は違う!

asf形式、1.21MB、54秒



完成品をうちのPCキーボード上に置いてみました。「@」から「T」までの長さの葉巻きたばこ、全部手巻きです。

ところで、おばあちゃんの手の動きを見ながら(目立たぬように)葉巻きたばこ1本を製作するのにかかる時間を計ってみました。1本を作るのに約50秒です。工場には1000本単位で卸すということでしたが、となれば1000本×50秒÷60ということで、1ケース分を作るのには約14時間弱かかるという計算になりました。仮にその14時間ぶっ続けで働き続けるとして、その労働によって得られる代価(卸値-仕入れ値)は全部で400Kにすぎないそうです。US1$=900Kとして換算しても、その総額は日本円にして約50円ということになります(計算合ってるかな@不安)。

14時間労働の代価がたった50円!べらぼうに安すぎます!まぁ自宅で出来る内職仕事は基本的にすべて歩合で、それを時給に換算するととてつもなく安くなるというのは日本でも同じなのですが(なぜかその現状をよく知っているTakemaだったりします。完全歩合制だから最低賃金法も適用されませんし‥)、それにしても安い!もちろん物価は日本と比べてそれこそとてつもなく安いミャンマーですが、単純計算=3.6円/時給という計算をしてしまったあと、「しまったこんな計算するんじゃなかった」と反省したTakemaでした。

ただし、経済的裕福度と心の裕福度は決して比例するものではありません。むしろ反比例する場合も多々あるんじゃないかと思うTakemaにとって、このおばあちゃんの笑顔は「救い」どころか観音様の化身のようにも見えたのですけれどね。

さて町へと戻っていきます。濁っているとはいえ小さな川のほとりに続く水たまりのある道。こんな風景、小学生の自分もあの頃毎日のように見ていたっけ。今はもうびっしり建物だらけになってしまったあの場所で‥
さて、このあとは町に戻ってツアー終了、ガイドさんと別れて3人で昼ご飯となりました。そして午後、「異国の野湯めぐり」へと単独で向かったTakema「なめたらあかん」攻撃が容赦なく襲いかかります!(笑)。

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