かつてここにあった超高級リゾートへ向かう道の分岐には、
かつてをしのばせる指導標が落ちていた。何だかもの悲しい。

花女里家のマスターから興味深いお話を伺いました。それはかつてこの島にあったヤマハの超高級リゾート施設のこと。その名を「旅荘 足摺」。もちろん俊寛僧都が都行きの船を涙ながらに見送った「足摺岩」に由来するネーミングでしょう。なお上の写真を見ると「足摺荘」と書かれていますが、当時の宿の紙袋などには「旅荘 足摺」と記名されているので、おそらくはこちらが正しいと思われます。実はこの花女里家のマスターもかつてこの宿で働いていらっしゃったということで、いろいろなお話を伺うことができたというわけです。

しかしまずその前にこのヤマハリゾートそのものについて、今から20数年前に屋久島の郵便局で働いていらっしゃったほんやさんの説明を以下に引用させていただきます。
【コラム屋久島】
昭和40年代後半から50年代の前半にかけて離島ブームというものがあり、ヤマハはこれを先取りする形で屋久島、トカラ列島の諏訪之瀬島、三島村の硫黄島、八重山諸島の小浜島などに相次いで「ヤマハリゾート」という、超豪華リゾート施設をつくりました。

このうち、諏訪之瀬島と硫黄島(いずれも屋久島の近く)には専用の空港までつくりました。当時は円が安く、海外旅行は高嶺の花だったので離島観光がその代役を果たしていたような感じでした。しかし、その後、円高になって海外旅行が身近なものになり、残念ながらヤマハの目論見は外れ、沖縄の「はいむるぶし」という施設以外は閉鎖、撤退してしまいました。ただ、屋久島の永田にあった石蕗舎は他の業者に売却され「つわのや」という名前で今も営業しているということです。

ふーん、そうだったんですか。確かに屋久島のつわのやって今でもあるようですね。昭和40年代後半といえばちょうど沖縄が日本に復帰した頃ですから、それがブームに火をつけたという感じだったんでしょうか。ヤマハは船舶関係にも強いですから、自社製クルーザーのオーナーにも来てもらおうという目論見だったのかもしれません。

そのころの私はまだ小学生でしたから、そんなブームについては全く知らないままでした。で、今回この三島村とか十島村とかを調べていくうちに、「硫黄島空港は全国唯一の村営空港」とか「諏訪之瀬島の空港は閉鎖中」とか書かれているのを見て、最初「なぜこれらの島に空港が?離島振興策の一環か、それとも国の安全保障対策の一環なのかな」などと思ったことがありましたが、なんと観光目的に作られていたということを知ってびっくりした記憶があります。

ヤマハの計画は、船(含むクルーザー)や専用飛行機でこの島に着いた人たちに滞在型のくつろぎ時間を過ごしてもらった上で、今度は屋久島の石蕗舎に渡ってもらう、そしてさらに諏訪之瀬島を経由して、できれば沖縄まで足を延ばしてもらう。その経由地それぞれに豪華リゾート施設を設置しておく、というものであったようです。しかし、この計画における最大の誤算といえば、有産階級に新しい旅行スタイルを提案したという点では特筆ものではあっても、当時の人々の休暇事情についてはあまり考慮していなかったというところにあるのかもしれません。長期休みが取れず、せいぜい2泊3日くらいの休み、それすら前もって根回ししておかねばきびしいことだって多々あったであろう当時。それはお金持ちであってもそうは変わらなかったでしょうし、現在でも、1週間以上の連続した休みを簡単に取ることができる人はそうそう多くありません。

また、この宿の立地にも何となく違和感を感じました。「旅荘 足摺」は島の内陸部に建設されていたのです。現在においても「リゾート、離島」とくれば「オーシャンビューは当たり前、部屋からそのままビーチへ直行もできるのかな?」というふうに連想し、またそれを望んでしまう我々の価値観からは「せっかく離島に来たのに何で宿から海が見えないの?」という素朴な、しかし切実な疑問というか不満が出たであろうことは容易に想像がつくところです。

勝手な想像ですが、要は「先走り」しすぎた計画だったのかもしれませんね。もっともこのリゾートの遺物として遺された空港のおかげで、この島では急病人が出たときなども飛行機ですぐ本土に向かうことができます。空港の存在は大変ありがたいということです。閉鎖中の諏訪之瀬空港のほうはどうなっているのかな。



マスターが保管なさっていた、「旅荘 足摺」の施設全景写真とルームキー。
写真が小さくて見にくいですが、かなり大規模な施設だったことがわかります。

さて、上の写真からも「旅荘 足摺」が相当本格的な施設だったことはわかります。となると気になるのは当然滞在費用のこと。料金はいくらくらいだったのでしょう。これについては先ほど引用させていただいたほんやさんHPの「屋久島青春日記」に、同じヤマハリゾート「石蕗舎」(屋久島)についてのこんな記述があります(該当ページへの直リンクはこちら)かなり参考になりそうです。
石蕗舎(つわのや)は、県道から少し入った海の近くにあった。それほど大きな建物ではなかったが、屋久島の果てともいえるこんな場所によくもこんなものをつくったもんだなぁ、という感じがした。中に入り、昼食を予約してある旨をつたえると、屋久杉のテーブルの一つに案内された。かなり広いテーブルが8っつくらい並んでいたが昼食の客は、私たちだけだった。テーブルの向こう側は、一段低い絨毯敷きのスペースになっており、グランドピアノ一台と、ギターが数本見えた。奥にはお酒がならんだショットバーのようなところがあり、大きな窓越しに、海が見えた。

席についてまもなく、カレー一式が運ばれてきた。
一人1500円というので、カレーにしては高いなと思っていたが、さすがにカレーだけではなく、スープやら、サラダやらいろいろとついていた。ふだん、貧しい自炊生活で、面倒くさいときはご飯に醤油をかけただけの食事もめずらしくなかったので、このカレーは、べらぼうにうまかった。ただ、惜しむらくは量が少なく、ただでも早食いの私は、ものも言わずに、3分くらいで平らげてしまった。最後に出たコーヒーを飲みながら、海の方をみてみると、遊歩道のようになっているところが見えた。
(中略)

【コラム屋久島】
このときのカレーの1500円というのは、当時公務員だった私の給料が6万円弱でしたから、今の感覚では5000円くらいだと思います。
ちなみに、この翌年、友人が屋久島に新婚旅行に来たときに泊まった石蕗舎のスイートルームは、当時で1泊3万円でしたから、今なら10万円というところで、ハンパじゃなく高かったようです。

うはぁ、カレー1500円!いや、今なら5000円!宿泊料もすごいですね。花女里家のマスターから料金の話を聞いてぶったまげた(しかし酔っていたのでいくらだったか正確には思い出せないんですが)記憶があるので、「旅荘 足摺」でもこのくらいのお値段だったんでしょうね。こりゃ庶民には泊まれないや。まぁ庶民相手に作った施設ではなかったのでしょうけれど。

ちなみに現在も営業している沖縄の「はいむるぶし」の料金を調べてみたら、ピークシーズン2名1室で一人32,200円(デラックスルーム)でした。ちなみにスタンダードルームのローシーズンでは13,200円ですから、時期さえうまくはずせばまぁ手の届く料金ですね。でも決して安くはないなぁ。



当時ヤマハが宿泊者用に作ったと思われる?「足摺−平家物語より−」、
「平家物語」の中の僧俊寛に関する場面を抜粋して口語訳した和綴じ本です。
紙質にもこだわりが見られ、そのしっかりした作りには風格さえ感じられます。
限定500部配布だったようですが、そのうち一冊は現在Takema家所蔵品に。

さて、そんなヤマハリゾート「旅荘 足摺」ですが、今は撤去されてしまって影も形もありません。しかしそうなると、その在りし日の姿をしのばんがために行ってみたくなるのが人の常(うちらだけかも)。というわけで、次のページではその訪問記をまとめてみましたのでご覧下さい。