うわっ、見事になんにも残ってないっ! 
− ヤマハリゾート「旅荘 足摺」の跡地を訪れてみました −

 

さて、「旅荘 足摺」の跡地にやってきました。場所は俊寛堂からそう遠くないところなのですが、もちろん看板などは出ていませんから地元の方に聞いておかなければなりません。硫黄岳をはじめ姶良カルデラ関係の山々の景色がいいところですが、もちろん海は見えません。

この前夜、花女里家マスターにここへの行き方を聞いた時にマスターはこうおっしゃっておりました。
「施設を作る際、ヤマハと村との間で「撤退する際は全てを原状に戻すこと」との取り決めがあった。ヤマハ側も、基本的に土を削って(新たに造成して)建物を建てることは一切しなかった。さらに撤去の際も徹底的に現状に戻したから、今行っても木が生えていないこと以外は自然のままになっているよ。」
この言葉を聞いたとき(今だから書きますが)、「とはいっても実際行ってみると結構遺物が残ってるんじゃないのかなぁ」と思ったTakemaなのでした。コンクリの破片とか割れたガラスとか、そういうものが散らかったままになっているのではないかと思ったのです。建築時はともかく、撤去時の「仕事」は結構いい加減なものなのではないかという固定観念がありましたから。

でも実際に現地を訪ねてみると、確かにマスターの言うとおり!何も残っておりません!上の写真でもおわかりの通り、跡地にはまだあまり草が生えていませんから(季節的にも冬ですし)、地表の様子は一目瞭然です。しかし、遠目だけでなく実際に足を踏み入れてみると、かなり広い敷地跡にも関わらず本当に人工的な何も見つかりません(実は一個だけ旧エントランス近くで見つけてはしまいましたが)。ここにかつてのリゾート施設があったことなど、事情を知らない人がこの広場に来ても全く想像もできないでしょう。ヤマハはすごい、撤退するときも「いい仕事」するなぁ。そう思えざるを得ない一瞬でした。

しかし、あえて残したと思われる「痕跡」は残っています。以下、その「痕跡」についてご紹介しましょう。


かつての「車寄せ」付近の石畳。港からここまで上がってくる椿のトンネルロードから、突然視界が開けるとこの石畳が現れます。奥に延びるこの石畳を歩いていくとフロントに行きあたることになっていたのでしょう。道自体は今でも「生きて」いますから、わざわざこの「舗装」を剥がすことはないということで残されているものと思われます。それにしても、昭和40年代にこんな入口(ちゃんと旋回場まである)まで備えた施設があったとは、やはり驚かざるを得ません。

施設とは道を挟んで反対側(場所的には少しずれていますが)に残されていた建物。雰囲気から察するにかつての従業員宿舎であったと思われます。これだけは今後使い道があるという考えだったのでしょうか。でもこの建物とてもう築後30年はとうに過ぎていますよねぇ。とてもそうは見えない感じでした。何より人の来ない場所ゆえ、「廃屋=窓ガラスが割られ内部は荒らされて怪しい雰囲気」という感じがないんですね。今でも少し手を入れれば十分に住めそうな様子でした。


そんなわけで、島の人に言わせれば「嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった」というこの「旅荘 足摺」。しかし、撤退時にはヤマハから村の人々にちょいとばかりの恩恵があったそうです。それは「不要になった家具等の、村内在住者への譲渡」。高級リゾートでしたから室内の調度品もそれなりの価値があるものが多かったようです。ただし閉鎖してしばらくは室内もほうっておかれましたから、いろいろな意味でガタがきている=商品価値がなくなっているというわけで、「これ、欲しい人は持っていっていいよ」的な激安(時にはタダ)即売会が行われたようなのですね。うーむ、その話を聞いたときにはむちゃくちゃ羨ましかったぞ。ね、マスター!

というわけで島の家々のいくつかには、もしかしたら今でも当時のリゾートの調度品が現役として働いているのかもしれません(いくつか確認しました)。うーん、当時を語る証人だな。