もう一つの歴史、硫黄島編。



御赦免の船に向かって「足ずり」をする俊寛僧都の像は開発センターの横にある。
しかしこの後、我々はあまりにも予想通りの行動に出るのであった。

さて絶海の孤島のイメージのある硫黄島ですが、実は歴史上の舞台にもなっています。まずは歌舞伎の題材にもなった俊寛僧都がらみの説明をさせていただきましょう。

1177年、俗にいう「鹿ヶ谷の変」。平家打倒の密策を企てたかどにより、僧俊寛、藤原成経、平康頼の3人は鬼界ヶ島(硫黄島)に流罪となります。「平氏にあらずんば人にあらず」のことばに象徴されるように、当時平清盛を中心とした平家の台頭はよくもあしくもはなはだしく、その横暴に不満を抱いていた者たち(平家以外の者たち)は多かったはずでしょう。そんな中「平家打倒」を企てる一派が現れても全く不思議ではありません。しかしこのことに対する清盛の怒りは甚だしく、貴族や僧に対しては死罪が適用されなかったこの時代、一番重い咎(とが)としての流罪を申しつけたということですね。

話はそれますが、流罪といえば、たとえば学問の神様として知られる菅原道真はこれより約280年前ながら大宰府に流され、かの地で都を思いやりながらこの世を去った後怨霊となって都に災いをもたらしています(時の権力者藤原時平らは、彼を「天神」、いわゆる神として祀り上げることによって事態の収拾を図りました。だから今でも各地に「天神様(神社)」として残っているわけですね=御霊信仰)

また、創作とはいえこれより約160年前に書かれた「源氏物語」では、光源氏が半ば流罪の形で神戸に引きこもっているときに「こんなこの世とも思えぬ世界で云々」とやたらに涙を流していたりします。これらの例は、当時の貴族たちがいかに「都人」(いい意味でも悪い意味でも)であったかを如実に表しているということでしょう。

そんな時代。平安王朝の権力エリアというか版図(支配エリア)が平安中期と末期とでそれほど変わっていない中、失礼ながら今でもなかなか交通の不便な鬼界ヶ島に流罪になるというのは、当時の貴族の感覚でいえば「死」に限りなく近い、いや、「死」以上の屈辱であっただろうことは想像に難くありません。
なお誤解のないように言えば、「きかいがしま」と呼ばれる島はこの薩摩硫黄島の他にもう一つ、ぐっと南に下った奄美大島の東側にも「喜界島」があるのです。しかも、当然のごとく向こうの島にも俊寛伝説があったりするわけですね。これについては今さらどちらが本物だと言い張るわけでもなく、「何となく」それぞれが主張しているといった感じを受けますが、まぁ歴史ロマンの世界ですからあんまり突き詰めなくてもいいんでしょうかね。



平成8年5月29日に硫黄島で上演された歌舞伎「俊寛 -平家女護島-」のパンフレット。
風雨の中、中村勘九郎らによる熱演は見る人の心に響いたという。

しかし硫黄島に「流された」彼ら3人のうち、現地における俊寛僧都の行動だけはどうも違っていたようです。

「僧都」とか「僧正」とか、宗教界の階級を表す(これとて怒られそうな表現ですが)名称を聞くと、現代の坊さんはともかく今から1000年近い前の坊さんはどこか違っていた(=徳を積んでいた)のではないかとつい思ってしまいがちです。でも実状は全然違う。今と同じどころか、もっとどろどろした世界だったようです。考えてみれば政権を担った貴族の多くは出家しています。権勢をふるったあの藤原道長でさえ、「入道殿(入=入る、道=仏道に)」などと呼ばれつつ、相変わらず生臭い政治の世界に身を置いて権謀術数に明け暮れていたわけで、その出家の根本にあった意識が「仏道への帰依」などというものであったとはとうてい思えず、そこにあったのは言うなれば来世への希望というか「来世でもいい思いができますように」的な欲望に他なりません。

そして俊寛僧都。僧侶ながらも気が荒くて鼻っ柱が強く、現状に不満たらたらで時の政権を倒すにはどうしたらよいかと考えていたのなら、まぁよくいっておぼっちゃん育ちというところでしょうか。しかも「都人」としてのプライドは強く(これは当時の貴族意識としてはある種当然のことではありますが)、島に着いたあとも彼一人だけは島人と交流を持たずに山奥に一人移り住み(俊寛堂)、残りの二人が前ページの写真にあるような熊野神社(三所権現)を建立して帰京を祈願していたときも、それに参加することはなかったようで、それでも彼らとは一応付き合っているというのですから、何だか妙に中途半端な見栄というかプライドを抱き続けていたようです。

俊寛は一人で自給自足の生活らしきものを行います。もちろん山奥で自活できるわけもありませんし、何よりも同胞への恋しさからから、たまには沢を下って今の港まで出てくることもあったようで、今でも集落近くのその沢のことを「俊寛河原」と呼んでいるということを聞きました。

また、彼は彼なりに帰京を願ったことでしょうか、河原の小石に文字(法華経の中の文字)を書き付けて流したということです。居酒屋「花女里家」のマスターが子供の頃、文字が書かれた石がよく見つかる場所があったということですから、それが俊寛自身の手による「本物」かどうかはともかくとしても、作り話ではないということですね。



開発センターに展示されている、法華経の文字が書かれた石。
どの石にも書かれているが、←のついた石が一番わかりやすいかも。



藤原成経、平康頼らが熊野権現を模して建立したという熊野神社。
彼らはここで赦免帰京を日々祈願したという。

しかし、都での中宮(皇后)の安産祈願の為、今でいう「恩赦」が検討されました。「3人とも帰京させた方がいいだろう」という意見も出ましたが、これに真っ向から反発したのは誰あろう平清盛。「俊寛だけは赦免しない!」二人の間にそれまで何があったのかはわかりませんが、清盛としては、これまでいろいろと気を遣ってやった相手に裏切られたという気持ちがあったのでしょう。「あいつだけは許さない」という感情的な部分があったのかもしれません。ともあれ俊寛を除く二人に赦免状が下されました。

そうして赦免船がいよいよ鬼界ヶ島にやってきました。何とその船にやってきた役人を出迎えたのはともあろう俊寛。赦免状に自分の名前がないことに驚き、状の表から裏まで目を皿のようにして見渡しますがやはり「俊」の文字一文字すらありません。一人取り残されることになった彼は、帰京とは言わない、何とか九州まで乗せていって欲しいということを頼みますが、それも果たされず、彼は港近くの岩の上で岩の上で足ずり(じたんだ)を踏みながら「これ乗せて行け、連れて行け」と叫びつつ離れていく船を見送ったといいます。

彼が船を見送りつつ「足ずり」をした岩を「足摺岩」といいますが、今は港内の海中に逆さまになって沈んでしまったということです。ここで見直して下さい。このページの一番上の画像。そう、その「足摺岩」のすぐ近くにある開発センター、その前庭にある俊寛像は、まさにその足摺岩上の彼をあらわしたものだったのです。

そうなると黙っちゃいられないTakemaとおしんこどん。俊寛の心にほだされてというよりはただの野次馬根性的に、ついついやっちゃいました。ここを訪れる誰も(でもないかな?)が行うこのポーズ!



あ〜あ、最悪ですな(爆)。

その後、俊寛はほとんど乞食のような生活をしながら島を彷徨していたといいます。一方、有王という人物はかつて俊寛に仕えていた若者ですが、赦免船に俊寛の姿がなかったことから一念発起し、鬼界ヶ島を訪ねることに。俊寛の身内の者はほとんど皆殺されるか病死してしまっていたが、唯一残された娘の手紙を預かって島へ向かったわけです。

島に着いた有王は、あまりにも変わり果てた俊寛の姿を見つけ、娘の手紙を見せるとともに一族郎党のことを話します。6つになっていると思っていた若君がすでに病死していたこと、北の方もすでにこの世の人ではないこと。しかしこのことは俊寛にある決心をさせずにはいられなかったようです。彼は有王にこう言います。
「‥あれが今生の別れと知っていれば、せめて今しばらく、あの子(若君)を見納めていたものを。親となり、子となり、夫婦となるのも、みなこの世だけの縁ではないはず。その妻や子が先立って逝ってしまったというのに、それがどうして今まで夢にでも知らされなかったのだろう。人目も恥じず、何としても生きのびようと思ったのも、せめて今一度彼らに会いたいと願ったからこそだ。今は命を長らえてなんになろう。これ以後さらに生きながらえて、お前に多くの苦労をかけるのは心苦しく、我ながら情け知らずというものだろうよ。」
そうして俊寛はそれから一切の食事を絶ち、三十七才でこの世を去りました。有王は帰京後俊寛の骨を高野山に納めた後出家し、残された姫君も続いて十二才の若さで尼となったといいます。俊寛が荼毘に付された場所に、今は「俊寛堂」が立てられているというわけです。

 

島の内陸にある俊寛堂。彼はここで暮らし、ここで息絶えたのだろうか。
堂に至る椿の並木道は苔むし、落花が彩りをそえていた。

何とも重苦しい結末です。絶望のうちに無念の死を遂げた俊寛。島ではその霊を悼み、毎年お盆の盆踊りとともに「柱松」という送り火の行事がとりおこなわれます。高さ10m以上の大松明に火をつけるというこの行事、その火は遠く屋久島からでも見ることが出来るということです。

しかし、この島の日本歴史はこれでは終わらないのがすごいところ。
さらにはあの安徳天皇伝説までっ!