集落の近く、ひっそりとした佇まいの安徳帝墓所。
さて、1178年に俊寛が没してからたったの7年後、あの壇ノ浦の合戦によってあっけなく平家は滅亡してしまいます。その末裔は全国各地の山里に隠れ住み、その結果現在でも「平家の落人集落」といわれる場所がいくつも存在しているのは周知の通りです。ではこの島にも平家の落人が?いやいやただの落人ではありません。何とこの島には「朝廷」まであったのです!
さて皆さん、その昔?学校の歴史の授業では、この源平争乱についてだいたいこんなふうに習ったのではないでしょうか?
「一ノ谷、屋島の合戦において平家を追いつめた源氏側は、1185年壇ノ浦の合戦によって平家を滅亡させた。まだ7才の幼い安徳天皇は、清盛の妻二位の尼に抱かれながら入水、壇ノ浦の露と消えた。」
しかし、これには異説があったのです。ここ硫黄島に残っている伝説によると、平家は壇ノ浦の合戦を前に何と安徳天皇を硫黄島に落ち延びさせ、合戦には代役を立てたということなのです。あの安徳天皇が生きていたという伝説、これは見逃せません。
さらにその伝説によれば、かの天皇はかつて鹿ヶ谷の変によって流罪となった藤原成経、平康頼が建立した「熊野神社」を皇居と定めて暮らし、平家の残党討伐からも逃れ1243年に66才でなくなったというのですね。
前にも出てきた写真ですが、あらためて「熊野神社」。皇居です。
天皇はともに落ち延びてきた平資盛の娘である櫛匣の局を妻とし、隆盛親王が誕生。その子孫は長濱家として存続し、1598年、秀吉の朝鮮出兵の折には島津義弘の危機を救ったとして、以後この熊野神社は島津氏による庇護を受けたということです。
さらに天皇といえば、三種の神器を抜きに語ることは出来ません。これらは代々長濱家に受け継がれてきましたが、江戸時代に島津氏が長濱家から借り受け、しかしその後の混乱によって行方不明になったとかどうだとか。現在、開発センターには島津氏の「借用証」が保管されています。一見の価値あり。
これがその「借用証」。暗くてわかりにくいが、「○○一巻」「○○一腰」「○○一枚」など
物品名のリストが記されているのはわかりますよね。
またこれはかつてどこかで聞いた話ですが、第二次大戦後占領軍が日本に駐留していた時期、マッカーサー宛に多くの日本人が手紙を出したそうです。その中に、「われこそ本当の天皇である」と名乗り出た者がいたそうで、私は長濱氏の関係者がその手紙の差出人であったかどうかは調べていませんが(ほかにも「本当の天皇」説はいくつもあるようですし)、もし万が一マッカーサーがその手紙を重視し、申し出通り長濱氏を「本当の天皇」として担ぎ出していたとしたら‥、こりゃあもう、日本の歴史は根底から覆ったのかもしれませんね。「長濱天皇」ということばを、私はずっと以前に聞いたこともあるのです。
さて現在長濱家は35代に至っているということですが、ただし現在の当主は島を離れ九州本土にいるということのようで、今後この島における長濱氏の位置はどのように変わっていってしまうのか、少々気になるところでもあります。
さて、安徳天皇については古来から「実は女性ではなかったか」というような説があるようです。幼時からほとんど一握りの近親者だけで育てられ、ほとんど表舞台に姿を現さなかったということがこの話の根拠の一つになっているのでしょうが、長濱家に代々伝わる巻物にはこの安徳天皇が次のように描かれています(開発センター所蔵品を撮影させていただきました)。
うーん、女性としてみればそうも見えるような見えないような。確かに髪の毛も長いような気もするけれど、この絵だけで男女云々を判断するにはさすがに無理があります。これもまた、「歴史ロマン」の一つとして曖昧にしておく方がいいのかもしれませんね。
2002年5月注
上記の初稿には「男性であったか女性であったかは歴史ロマン」などとぼやかして書いてしまいましたが、この件について、「本物の安徳天皇は男性、影武者が女性であったと私は調査解明しています」とのご指摘を日本歴史研究所所長の木村信行さんからいただきました。それによると、実際その「影武者」が誰であったかというところまでの特定がなされているようです。木村様、ご指摘ありがとうございました。この件その他歴史の背景につきまして興味がおありの方は、是非こちらのHPにいかれてはいかがでしょう。歴史関係の様々な論文提出および出版もなさっていらっしゃいます。
さて、お勉強の話が2ページにわたって続いてしまいましたが、歴史ネタはここまで。次からはこの島のもう一つの魅力である「温泉」について述べたいと思います。