− 深浦駅近くの海岸にて来し方を振り返るの巻 −



五能線からSLが姿を消して30年以上たちましたが、
今は国道をこんな「機関車」が!(地元保育園の送迎バス)

さて、立派な「機関車」を見送ったあとでわれわれも出発です。それにしても、テントの撤収がないと出発がスムーズなこと!(苦笑)。

まぁそんなことはどうでもいいとして、とにかく昨日通ってきた国道を南下していきます。本当は鰺ヶ沢に行っていか焼きも食べたかったんだけれど、これもまぁ次回ということにしましょう。まだお腹も減っていないしね。というわけでしばらく車を走らせると、深浦駅近くに到着です。個人的な話で恐縮ですが(あ、個人サイトなんだから別に恐縮することはないな)、実はわたくしTakema、深浦には懐かしい思い出があるんです。それは‥
今を去ること約27年前(昭和52年)、私は中1の時に生まれて初めて一人旅に出ました。今考えればえらく無謀な話なんですが、夏休みにクラブの合宿だと親に偽って合宿費用をせしめ(合宿そのものはうそじゃなかったんですが、中1は参加できなかったんです。でも参加者名簿の紙を見せずに費用だけもらったわけですね)、早速購入したのが当時国鉄が発売していた「東北ワイド周遊券」。今は当時のようにようにフリーゾーンの広大なチケットは売っていませんが、かつてワイド周遊券で旅に出た経験を持つ人は非常に多かったんじゃないですかね。中には旅行先で短期旅行者のチケット=有効期限たっぷりと交換してひと月以上旅行する猛者もいたようですしね(もちろん違法でしたので念のため)。でも今思うと、ああいうたっぷり余裕のある切符が売られていたからこそ、当時の若者も雄大な旅が出来ていたんじゃないかなぁ。飛行機と絡めた割引チケットじゃどうあがいても望めないような旅が。

さて話を戻すと、合宿費用から周遊券代金を払ってしまうと、残りはそう大した金額ではありません。宿に泊まるなどはもってのほかでしたから、夜は全て夜行でしのぐか駅寝という計画を立て(元気だなぁ@そりゃ13歳だし)、そして実行したわけです。記憶によると(最初の旅だけにちゃんと覚えてる)‥
昭和53年(1976年)夏、初の一人旅旅行日程表
 1日目 東京〜(確か夜行)〜会津若松〜(磐越西線 阿賀野川を眺めながらゆったりゆったり走る列車に、子供ながら初めて旅情だか何だかを感じた記憶が。ちなみに当時の客車の椅子はニス塗りの木造り、窓の日よけは金属製でしたっけ)〜新津〜(羽越本線)〜坂町(駅寝)
 2日目 坂町〜(米坂線 夏休みとはいえクラブ活動か何かで乗ってくる中高生の中で小さくなってました)〜米沢〜(奥羽本線 当時はチョコレート色の客車がスイッチバックで福島盆地までゆっくりゆっくり下りていったっけ)〜福島〜(国鉄バス 阿武隈山地のほのぼのした雰囲気が好きになった原点はこの時見た風景にあると思います。特にタバコ畑がすばらしかった)〜浪江〜(常磐線)〜仙台では駅の広い待合室で2泊しました(松島に行ったりしました)。待合室で寝苦しい夜を過ごした朝、「現場」に出るおっちゃん(今考えればこの人も宿に泊まるお金がなかったらしく駅寝)に半ば強引に誘われ、「その道の人々御用達の食堂」へ連れられていき、初めて『現場労働者の朝飯』を頂く。「食わなきゃ働けんからなぁ」の言葉は今でも覚えてます。
 3日目 仙台〜(東北本線)〜盛岡(盛岡駅で寝たんだっけ?記憶なし)
 4日目 盛岡〜(山田線−釜石線経由で一周する急行に乗って北上山地をぐるりと一周(ただし遠野で下車し、カッパ淵を見に行った記憶あり。柳田国男があの時生きていたら目を回したでしょうな、自分の長年の調査場所に中学生が1人で来てたんだものね)。たぶん花巻駅で泊まった?(記憶曖昧)
 5日目 花巻〜八戸まで行き、八戸線で普代まで。今は久慈までがJR、その先は三陸鉄道になってますが、当時は普代まで国鉄路線、その代わりその先は開通見込みなしという状態でした。で、この時初めて無人駅の野宿を体験。確か普代のちょっと手前の駅の小さな待合室で寝たら、一晩で200箇所以上蚊に刺された。後にも先にもそんなのは初めて(あたりまえですね)。
 6日目 確かバスで北山崎とかに行った記憶があります。当時あのあたり(三陸海沿いの路線)は国鉄バスが運行していたと思うんで、ワイド周遊券ならタダだったんですね。そのかわり、私鉄バス運行路線には全然行かれませんでした。宮古駅からほど近い浄土ヶ浜も憧れていたっけなぁ、でも2004現在いまだに行ったことがなかったりします(笑)。
 7日目 普代付近〜(八戸線)〜八戸〜青森(青函連絡船の待合室に泊まりました)。しかし今思えば、あそこは夏の家出少年少女の草刈り場だったでしょうに、私がとっつかまらなかった理由は今でもわかりません、はい。
 8日目 青森から朝一番の国鉄バス「みずうみ号(今でも名称は変わってないのね驚いた)」で休屋(現「十和田湖」)まで行き、確か乙女の象まで往復して、再び青森駅へ。そのあと夕方の列車で弘前へ、弘前駅泊(長距離線のターミナルではないので誰も駅寝しておらず構内も真っ暗。そんな中改札のすぐ横で新聞紙を敷いて寝ました。13歳と1ヶ月になったばかりの少年としてはあまりに大胆?
 9日目 朝4:50頃に弘前を出発する五能線に乗り、記憶に間違いがなければ海が目の前に広がる「驫木(とどろき)駅」にて下車、無人駅なのでそのまま宿泊。
 10日目 列車が遅れたか何だったか、とにかく深浦まで来ました。
そう、そんなこんなの大旅行の終盤にここ深浦に来ていたのです。それにしても、記憶をかっぽじって上の表に書き連ねてみましたが、いやぁ最初の旅行というのは相当のインパクトだったのか、かなりはっきりと覚えてますねぇ。まだ新幹線も走っていなかったあのころは、道中も人々もずいぶんのんびりしていた気がします。

そうそうこの旅行を終えて、素知らぬ顔をして家に戻るやいなや、母親に一発でバレました(笑)。連絡などは一切なかったんですが、息子の顔を見た途端母親の直感で「こ、こりゃおかしい!」とピンときたらしい。でもこっぴどく叱られた記憶がないのは、「都合の悪い記憶は忘却する」というセーフモードが働いたからなんでしょうかね(何のこっちゃ)。

さて、その時深浦の駅に降り立って「さてどうしようかなぁ」と思っていたとき、自分に声を掛けてきたお兄ちゃんたちがいました。大きなリュックにジーンズ、そう、今考えれば当時一世を風靡していた「カニ族」そのものだった彼らは、子供とはいえどう見てもアーバンな洗練さに満ちあふれていた中学生とはいえなぜだかよれよれで汗まみれのシャツを着たTakemaに興味を持ったのでしょうか。

今考えれば結構あぶなっかしいことだったかもしれませんが、その時の自分はなぜだかそのお兄ちゃんたちと意気投合し、駅近くの海岸で一緒にキャンプをすることになりました。自分にとっては、無人駅ひとりぼっち泊がテント泊に変わっただけなので特に違和感もなく(何という順応力!)そのまま海岸でキャンプ泊。夜はたき火を見つめていた記憶があります。
あ、本当に今思い出したけれど、あの時確か自分は年齢を偽っていたような?確か15歳とか言ったんじゃなかったか?まぁ当時、中1とはいえ身長は高かったし(たぶん167cmくらいあった。何だ、あれから数cmしか伸びていないのね)、話したであろうそれまでの旅歴も中1としてはとてつもないものだったし、納得してくれたのかな。それとも「不問に付し」てくれたのかな(たぶん後者でしょう)。ついでに、夜のキャンプでお酒を飲んだかどうかは全く記憶にありません(本当)。まだ下戸だったしね(当たり前だ)。
そして、そのあと25年以上このエリアに足を踏み入れたことはなかったTakemaは、今再び思い出の地深浦へ。自分があの時キャンプの一夜を過ごした場所、駅からほど近い海辺にある、その名も「大岩」はすぐにわかりました。懐かしさに車を停めてちょっと歩いてみることに。国道から海側には遊歩道が整備されています。27年前も歩道は付いていた気がしますが、もちろんこんな立派なものじゃなかったよなぁ。



そうそう、ここです。まさにこの場所でテントを張ったんだっけ!



そのまま進んでいくと、名前の通り「大岩」が近づいてきます。



ん?トンネルなんかあったっけ?と思いよく見てみると、昔あった海岸沿いの遊歩道は
波で浸食されたのか、すっかり崩落してしまったみたいです。コンクリの痕跡だけが残ってました。

27年前の夏、ここで同じ景色を眺め、同じ風に吹かれていたんだなぁと思うと、懐かしさと同時に「あれから27年!ずいぶん経っちゃったなぁ」という思いを抱かざるを得ません。だって「四半世紀以上昔」のことなんですからねぇ。あの頃、自分が日本と同じように海外をうろうろしたりするようになるとは思ってもみなかったし、まさか27年後の再訪が「野湯探しのついで」になるとは考えつきもしませんでした(そりゃそうだろ)。

何だかとってもしみじみと感じ入ってしまいましたが、大岩くん、いつになるかはわからないけれどまた来るぞ!その時はまた変わらぬ姿を見せておくれ!と心の中で念じつつ再び車に乗り込んだのでした(案外今度の冬に「五能線堪能!」と銘打って再訪したりして?)。

さ、来し方を振り返ったあとは再び現実に戻りましょ。この界隈、実は数カ所の「野湯」がひっそりと湯煙を上げています。まず最初は、ここからほど近い、あそこじゃあ!

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