祈東北復興!で東北を目指したつもりが、気がつけば北の大地も巻き込んでいつもの湯めぐりに(笑)。

− その21 津波被災地、その被害の濃淡はあまりにもはっきりしすぎていて‥ −

* このページ内画像および内容は全て2011年8月下旬現在のものです

さて浄土ヶ浜観光船を下りて、8月下旬現在はトンネル&一部山道系の階段を登りに登って第1駐車場へと上がってきました。震災以前も思いましたが、ここの観光船は足の不自由なお年寄りには優しくないです。これを期に何とか導入できないかと思うマリンハウスまでの無料アクセスバス&遊歩道のシニアカート導入なんですけれどね。というのは‥


(ただしあくまで2011/8下旬段階の情報です)

そんなふうに思いつつ、車のエンジンをかけて宮古漁港方面に真っ直ぐ向かう裏道を下っていきました。さっきまで遊覧船から見ていた宮古港、「歓迎 宮古港入港」と書かれていた掲示。しかしその「裏側」にはあまりにも切ない「現実」があったのでした。



港近くの家々はすでに解体撤去が終わり更地になっていました。移転営業のお知らせ看板も。



旧魚市場エリア。ねじ曲げられた電柱、垂れ下がった屋根。あの日どれほどの「水の塊」がここに押し寄せたのでしょう。



郵便局もご覧の通りのがらんどう。鉄筋の建物は残っていますが、1階の内部はひどいものです。



約10ヶ月前、ごくあたりまえに営業していたこちらのGS。屋根を越えた高さにまで水が来たことがうかがえます。

愕然とさせられつつも、そういえばわれわれはまだお昼ご飯を食べていません(この時すでに16:00近く。それにしてもいきなり現実的ですなぁ)。早めの夕食ということでどこかで食べればいいんですが、店はやっているのか?相当内陸まで行かないと食堂はないのではないか?という危惧があります。また今夜の宿である嶋田鉱泉は素泊まり宿なので、当然ながら朝食(とお酒のおつまみ)をどこかで買い込む必要があるのです。

最悪コンビニでもしょうがないなとは思いましたが、まずは昨秋にも訪問した「魚菜市場」を目指してみることにして一路市内中心部へ。すると‥



実は宮古市街は海岸域や閉伊川沿いを中心に津波の襲撃を受けたものの全域的に壊滅的な被害を受けたわけではなく、やや内陸に位置するこの魚菜市場までは水が上がらなかったということなのです。詳しくはこちら(宮古市による被害調査のPDFファイル)。

同様に宮古駅も水をかぶることはなかったそうで、そのため山田線の盛岡−宮古間、三陸鉄道の宮古−小本間は震災後早い時期(2011/3月末)に運行を再開しています(ただし宮古以南は甚大な被害を受け2011/8月現在手つかず状態)。



宮古の港から上がったイカやサンマが売られていました。是非買いたいんだけれど台所がない‥。

時間のせいなのかお客さんの姿は前回訪問時より少なめに感じましたが(もしかしたら周辺の居住人口が減っているからかもしれません)、それでも市場らしい独特の雰囲気は以前のままです。そうそう、ここには食堂もあったんだよなということで、その名も「まんぷく食堂」へGo!



ちなみにわれわれが注文した直後にお店の暖簾が下げられ閉店となりました(アブナカッタ)。もっともその後も「ラーメンでいいから云々」とお客さんが入店していたことはここだけの秘密です(笑)。

それにしても、この魚菜市場界隈の町並みや人の流れは全く以前のまま。それと比べて先ほどまでの港近くの惨状‥。ほんの少ししか離れていないのに、あまりにも違うそれぞれの現状に心が痛みます。と、神戸出身の職場の後輩が阪神淡路大震災直後について語っていたことを思い出しました。それは‥

という話だったと記憶しています。そしてそのことはここ宮古のみならず大船渡でも気仙沼でも、いや八戸から千葉の旭市に至るまでの太平洋沿いにベルト状に続く津波被災地の全ての場所に当てはまることなのです。十数mの標高の違いが生存のみならず生活の未来をも大きく変えてしまうその残酷なまでの「現実」をまざまざと見せつけられている気がしました。

少し海沿いの商店街付近(左上画像)には1.5m−2mほどの水が押し寄せたようですが(上記PDFファイル参照)、少なくとも画像を見る限り道路沿いの家々の様子はある程度落ち着きを取り戻している様子です(信号はまだ機能していませんでしたが)。今回は訪問しませんでしたが、昨秋に訪問した「よし寿司」さんはこの通りから路地に入ったところにあり、ネット上でチェックしてみると「2011/6/1から営業を再開」という情報が出ていました。ちなみに夜の部の営業は16:00からということで、しまった今回再訪すればヨカッタと後悔先に立たずの典型(無念)。

しかし、津波およびその引き波に建物ごとさらわれてしまったお宅は「生活再建」をそれこそ「一から」、いや「一」も残っていないのですから「ゼロから」スタートさせなければなりません。二重ローン問題はいまだ抜本的な解決にいたっておらず、その場合は「マイナスから」のスタートを余儀なくされるわけです。

今回の大津波そのものを「人災だ」と声高に唱える人はいないでしょう(多少なりとも人災的な部分はあったとしても)。「これより下に家を建てるな」という教訓を示した碑文があったことがニュース等で取り上げられましたが、その内容が震災前に三陸全体の共通理解として把握されていたわけでもなく、また結果論はともかくとして、万里の長城に喩えられた釜石の大防潮堤は釜石の人たちに大いなる潜在的安心を与えこそすれ、「あんなもの役には立たない」と声高に訴えていた人を寡聞にして存じ上げないTakemaです。
なおTakemaが大学生時代にここ宮古周辺でフィールドワークを行っていた際、「どうして堤防の外側にこれほど多くの家が多く建っているんだろう?」と不思議に思ったことは確かです。よそ者だからこそ現地の風景がより不自然に見えたのでしょう。でも「さらに外側に新しい防潮堤が出来た」「湾の入口で津波を弱める海上防潮堤が構築された」とあれば、地元の方々がそれを信じて旧防潮堤の外側に建物を建てたことなどをとがめ立て出来ません。政府やお役所に責任をなすりつけることはたやすいのかもしれませんが、いずれにせよ「起きてしまった3.11」の前に時計の針を戻すことは誰にも出来ないのです。
とにかく、今回の大震災における「復興スタート地点での格差」は地域内に明確な形で存在しています。だからこそ被害を受けなかったわたしたちは薄っぺらい人類愛的に「頑張ろう日本!」と叫んで終わるのではなく、もっともっと直接的に、今こそ現地で困っている方々のお手伝いをすべきなのだと考えます。

被災された方々はそれこそ「命の危機」から脱してはいます。しかし大切なのはこれからで、「普通の生活」に戻るために日々格闘なさっているわけです。たとえばこちらのマッチングサイトの掲示板では「○○が必要」「余っている××関係の器具はありませんか」等々、種々さまざまな「生活再建のための物資支援要望」が今も日々アップされています。このサイトは要望者さんと直接コンタクトを取ってやり取りをするものですから無駄が生じません。「震災直後に募金はしたけれど実はそれっきりだなぁ」という方々、是非ともこのサイトをご覧いただき直接的なご支援をよろしく御願いいたします。



このあとは宮古市中心部からR45を南へと向かいます。津軽石地区より南の国道沿いは津波被害が見られません。

津軽石というのは宮古市中心部から南に進んだあたりの地名なのですが、石巻線のここでもJR東日本の適確な判断が乗客の命を救ったという事実があります。地震当時、JR山田線津軽石駅に停車していた列車が‥?

東日本大震災:津波に間一髪、列車の乗客ら

3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生時刻に、津波で被害を受けた岩手県宮古市のJR津軽石駅をダイヤ通り発車しようとした列車があっ た。乗客・乗務員は運行管理センターからの指示と住民の協力でいち早く安全な場所に避難し、間一髪、津波から逃れた。住民らは「客を乗せたまま発車してい たら津波にのまれた」と胸をなでおろしている。

JR盛岡支社によると、激しい揺れがあったのは花巻発宮古行きの下り普通列車(2両編成)が津軽石駅を発車しようとした時だった。運転士には宮古 駅にある運行管理センターから無線で直ちに大津波警報の発令が知らされ、発車の緊急中止と乗客の避難指示が出た。ダイヤでは列車の発車時刻は午後2時46分15秒。地震の発生時間と同じだった。

運転士と車掌、駅にいたJRの委託社員がホームに飛び出した乗客20人を近くの市立津軽石小学校に誘導した。乗客の中にはお年寄りもいたという。津波はその時、津軽石川河口の水門から国道45号の土手を越え、あっという間に小学校の校庭付近まで迫った。

動揺する乗客らに「裏山に逃げろ」と声を上げたのが、水門閉鎖から戻った地元の消防団員で宮古浄化センター職員の高橋宏行さん(31)。乗客らは高橋さんの指示に従い走って逃げた。校庭は津波で浸水。津軽石地区では、逃げ遅れた何人かの住民が犠牲となった。

列車は2両とも約70メートル釜石寄りまで押し流されて脱線し、線路をふさいだ。列車が走るはずだった線路は流されるなどした。高橋さんは「運転士は津軽石の地理に明るくない様子だった。どこに逃げたらいいかと聞かれたので、とっさに答えた。全員助かり、ほっとしている」と話した。

(毎日新聞 2011年4月24日)

それにしてもJR東日本はすごいなと思ってしまいます。新潟中越地震でも東日本大震災でも、新幹線は中越で脱線させただけでどこかの国のように車両を高架からぶら下げるようなことはもちろんありませんし(あ、あれは地震じゃなくてただの大雨でしたよね(意味深))、新幹線だけでなく在来線でも「地震が起きたときの即判断&指示」マニュアルが機能しています。よくあるパターンとして「地震発生、大津波の危険あり、発車を見合わせて新たな指示を待て or 現地状況に応じて各自判断せよ」が考えられますが、もしあの日あの時そのような指示が出ていたら‥

と、ここまで書いたところで「ホントか?全部OKだったのか?」と思って調べてみたら、実は「列車ごと流された」事例も仙石線内であったようです。

まぁ旅行記の本筋から外れるのでこの件はこの辺で。R45を南へ下っていきます。

反対車線には警察車両がどんどん通過していきます。左上画像のバスは愛媛県警のものですが(ちなみに前後にもたくさん同警車両あり)、この三陸沿岸R45沿いではとにかく日本あちこちから招集された警察車両を見ることになりました。愛媛、大阪、静岡、山形、栃木‥いやたぶん10道府県くらいは見かけたんじゃないかな?とてつもない初期復旧作業をなしえた自衛隊の大部分がほぼ撤収した2011/8月末でしたが、警察関係は信号系統の消えた交差点での車両誘導等のお仕事が。

あ、そこに「被災地の治安維持」というのがもちろん付け加わるわけですが、「自由を標榜しつつともすれば自国の価値観を他国に押しつけようとする」かの国のロス地震後とは違って三陸地域の治安は震災後今に至るまで安定しています。でも予防としての「見せる保安」は大切です。

で、右上画像の通り今宵の宿である嶋田鉱泉へ。予想通り(立地が高いので)被害は一切なし。気になったのは復旧復興に携わる作業員の方々で満員に?ということでしたが、たまたまこの日は日曜日だったこともあり当日予約で何とか泊まれたという感じです。でも並びの部屋は作業員の皆さんで満員御礼モードのようでした。



まさか昨秋から10ヶ月後に再びこちらのお宿に泊まることになるとは‥。複雑な気持ちでの宿泊です。

チェックインは17:20ころでしたが、前回同様地元の方々で混んでいました。既湯ですからがっつく必要もありませんし、まずは部屋でまったりということで‥ん?部屋のTVがアナログのまま‥ああそうでした、被災3県はアナログ波が1年間延長されているんでしたっけ。何だかこの映り方も味があっていいんだけれどなぁ(笑)。

ちなみにこの日は復旧復興の作業員さんのため夕朝食も作っておられた様子、もし頼めば朝食付きで泊まれたのかも?(そりゃ無理か)。すっかり忘れていましたが、こちらのお宿には立派な自炊室があるんでした。それを覚えていれば魚菜市場でサンマを買って‥いや、片付けが面倒だからやはり買わなかった可能性大(大笑)。

結局入浴タイムのラスト頃に入浴しましたが、あやしげな有機系の臭いがあってイマイチ入浴。念のためカランの湯を何度もかけて、朝一番の湯に期待をかけます。どなたかご老人が?いやまぁやめときましょう、誰しもがいつか向かう道です。

そんなわけで朝7:00、気を取り直しての朝湯です。昨晩の入浴タイム終了後に清掃が入ったこともあり、例の臭いはすっかり消えていました。んじゃ、安心して湯を楽しみましょう。というわけで浴槽の湯でかけ湯を始めてみると‥



ここ嶋田鉱泉の湯は前回訪問時にもおしんこどんをして「那須鹿の湯もビックリの激熱!」と言わしめた湯なのですが、あの時の男湯はそう熱くもなかったんです。しかしこの朝の湯はジャグジーのある「ぬる湯」でさえも表示は46度。実際のところは手湯計測で45度台後半というところで、最初のかけ湯にはビックリしました。しかし「うん、でもこれなら何とかなるはず」。



Takemaは先日「実測オーバー48度の壁」をようやくクリアしたのであります。あ、でもこの訪問時は47度台半ばが最高記録だったか(笑)。

しかし、仕切りの向こうの「あつ湯」には「死のニオイ」が感じられます。いや、有機系じゃなくて感覚系のね(笑)。何度かトライしましたが結局足を2秒浸けただけで「うん、こりゃダメだ」ともうダッシュで即撤収を繰り返すばかり、無念の断念ですがまぁしょうがないか。

宿泊の皆さんはこれからお仕事ということでどなたもお風呂には来られませんでした。そんなわけで湯上がりにロビーでまったり。先代の円楽さんが大笑いしてますねー。津波被災地の皆さんにも、このような「腹の底から笑える日」が1日でも早く訪れることを望むばかりです。

さて、この日は宮古から海沿いを南へ下っていきます。悲しき現況を見ることになるはずですが、今回はその現況を見に来たのですから心を引き締めて拝見申し上げねば。そんな思いを抱きつつ嶋田鉱泉を出発しました。
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