祈東北復興!で東北を目指したつもりが、気がつけば北の大地も巻き込んでいつもの湯めぐりに(笑)。

− その22 山田から大槌、そして釜石へ。どこもひどい被害、でも一歩ずつ一歩ずつ。 −



車窓からは山田湾が。徐々に牡蠣イカダが復活し始めていました。でも、もともとはこんな数ではなかった‥。

* このページ内画像および内容は全て2011年8月下旬現在のものです

そんなわけでR45を南下していきます。海は何とも穏やかで、あの悪夢の大津波など信じられないほどなのですが、しかし国道沿いの風景は間違いなく災害の爪痕を大きく残したままでした。画像が多くコメントが少ないですがご容赦下さい。



震災から6ヶ月弱、瓦礫は除去されていましたが、ここに住まわれていた方々の営みはもうありません。



ついつい立ち寄りたくなるホームセンターも、GSも、いまのところ再開の予定はなさそうです。



「スマイルガーデン 山田商店街」の看板が悲しく映ります。コンクリート製の大規模施設も解体作業中でした。

さてこのあとは、営業を停止したという情報だけは把握していた三陸山田温泉の現状を見てみようと船越半島への分岐を左折します。しかし、その惨状は予想をはるかに超えたものでありました。

10ヶ月前には何やら文化祭のようなものをやっていて賑わっていた船越家族旅行村。しかし今は「存在しません」というべきなのでしょう。坂道を下っていくと、道路は一部未舗装状態になってしまいました(右上画像マウスオン)。

そしてその先のT字路を左折して少し行くと三陸山田温泉「はまの湯」のはずです。しかし、現地に着いてみると「再開への道があまりにも遠い」ことを思い知らされました。

上画像にマウスオンすると2010/10現在の画像が表示されます。2階部分が完全になくなっているところを見るに、おそらくこの電柱の上の方まで「水の塊」が押し寄せたのでしょう。いや、でも隣の施設を見てみたら「それどころではない」恐るべき津波の爪痕が残されていたのです。



つまりはこの地にはあの高さ以上の津波が押し寄せたということ‥。うわーそんなの想定‥できないですわ!

われわれ人間は所詮「自らの経験を最優先に考えてしまう」のですね。「歴史を学ぶ」とは「先人の経験を自らの判断基準に加える」ことを目的としているはずですが、自分も含めてその「教育の効果」はまだまだなんです。年号や戦争の名前を覚えるのが歴史の勉強ではないはずです。大切なのは「そこから自分が何を学ぶか」なのです。

10ヶ月前に車を停めた駐車場は瓦礫置き場になっていました(左上画像マウスオン)。ここは金属類に分別された置き場になっているようです。そんなわけで、Takemaの手元に残された「はまの湯」サービスカードに「次のスタンプ」が押印されるのはかなり遠い先になってしまいそうな気がします(茶色っぽい色で写っていますが実際は薄い青。バックの色が裏移りしちゃったようです)。でもいつか「次のスタンプ」を押してもらえることを楽しみに!出来ればその時は塩素控えめでお願いします(笑)。


かつての「旅行村」は瓦礫の集積場になっていました。船越半島の付け根にあたるこのエリアは標高が低いこともあり津波が一気に通り抜けたようです。そして震災後は数少ない平坦地としてこのようなことに‥そしてこの瓦礫は今後どこに運ばれることになるのでしょうか。

震災後、瓦礫の受け入れ先として様々な提案がなされ、そしてそのほとんどの受け入れ予定先として名前が挙がったそのほとんどの地域の自治体には「受け入れ反対」のメールや電話が大量に入り、結局今のところ(2011/11初現在)東京都以外に受け入れが確定したところはないようです。しかし、このことは声を大にして言いたい!

「じゃ、あんたのエリアがいつか原発事故の汚染地域になったとしても
あ、ごめんなさいちょっと言いすぎのような気がしてきた‥。

京都の大文字で高田松原の松を使うことに端を発した「総論賛成各論反対」は、今でこそメジャーなニュースに上がることはありませんが、そういう意識を持ってネット検索してみるといくらでも出てきます。しかもそれは宗教的鎮魂レベルではなくもっと根本、被災地域復興に向けた大規模な瓦礫移設の現場で起きているのです。

被災地の復興を口では言いながら「でもうち(のエリア)では勘弁」という二枚舌はやめてほしい。しかも(こういう言い方はしたくないのですが)原発からはるかに遠い三陸の瓦礫なのです。

震災後の福島に何度も訪問したTakemaですが、東京エリア、そして西日本エリア在住で東日本大震災の後始末引き受け云々を「迷惑」と意識しておられる方々、もっともっと自分のこととして被災地のこれからを考えてほしいのです。被災地は非被災地の有形的援助(引き受け)なしには復興できないのです。経済規模1つを考えてもそれはすぐにわかることなのですから。



漁師さんにとって船は何より大切な存在。しかしその命綱をこのような形で切り捨てられた方々の思いをくみ取ってほしい。

だいぶ熱く語ってしまいましたが、ここ山田町船越地区においても「標高の差」は色濃く出ておりました。旧旅行村エリアはそれこそ瓦礫置き場として悲惨なことになっていたわけなのですが、そこからぐるっと回ってR45に上がる道を進んでいくと‥



しかし、国道手前で横切った山田線は震災後7ヶ月半以上たったこの時でも不通であり(左上画像は岩手船越駅)、その先R45の展望台的な駐車帯から見た船越湾の景色(右上画像)はあまりにも平穏でありながらも、それゆえに震災当日の激しさを想像して悲しくなります。訪問は夏の終わりでしたが、心の中には冷たい風が吹いていました。

でもそんなわれわれに「春は来ている」と思わせてくれるちょっとした自然のいたずら(笑)。たぶん刈り払いが最近行われたからなのでしょうね、季節外れのワラビの芽が出ていました(右上画像マウスオン)。そう、ワラビに負けずにわたしたちも頑張らなければいけない。わたしの場合も何かお手伝いしなければいけない。

山田町を通り抜けて大槌町に入ります。大槌町といえば前町長までもが津波で殉職した町として広く知れ渡ることになってしまった町ですが、その庁舎のある場所はまだ先で、その手前にはかつて故井上ひさし氏著の「吉里吉里人」で一躍脚光を浴びた「吉里吉里(きりきり)」の集落があります。

しかしこちらも海岸沿いの家々はコンクリート造りの残骸を除いてはもはや跡形もありません。橋の欄干も無惨に折れ曲がっているところにここを襲った津波の威力を感じます(左上画像)。ここから国道は山に向かって徐々に標高を上げていくのですが、その途中にはプレハブで営業を再開したコンビニがありました(右上画像マウスオン)。もちろん立ち寄っていくつかの買い物をしたことは言うまでもありません。現地の経済活動に少しでも貢献したいところなのですが、いかんせん「買い物が出来るところ」は少なくとも2011/8段階では本当に限られていましたから。

買い物を終えて店を出ると、何とか難を逃れた住宅には大きな幕が張られていました。

「報恩」。読んで字のごとく「恩に報いる」という意味であり、この言葉に込められた意味を勝手に解釈するならば「皆さまの様々なご援助に感謝いたします。いつかこのご恩に報いることが出来るようわたしたちも頑張ります。」というようなことになるのではないでしょうか。

この建物とてもちろん被害は受けたはずですし(2Fの窓枠はベニヤ状のもので塞がれているのがわかります。その奥の家の窓枠にはガラスが入っていないようにも見受けられます)、復旧復興にはまだまだ遠い道のりであるはずなのに‥。逆にわたしたちのほうが勇気づけられる一こま、そして同様のメッセージをこの後いくつも拝見することになるとは‥。東北の皆さんは強い!強すぎます!でも、だからこそ逆に「無理はしても無茶はしないでほしい」と思うのです。張りつめすぎた弦はいつか切れてしまいます。しかし人生の弦を切ってしまうわけにはいかないのですから‥。

大槌川に架かっていた山田線の崩落した橋を横目に川を渡ると(左上画像、国道橋の欄干が思いきり手前側に傾いているのがわかります)いよいよ大槌町の中心部に入るわけですが、右上画像の通りそこにはもう「街」はありませんでした。そこにあるのは夏なのにあまりにも寒々とした、何もかもが失われたあとの無機的な世界であり、奥に見えている里山のあまりにも有機的な緑とはあまりにも「明瞭な悲しきコントラスト」を感じてしまいます。

堤防(の外側?)に、まさにかさ上げ防潮堤のごとくに積み上げられた瓦礫(左上画像)、そして鉄骨造りの建物の壁に「解体○」と書かれた建物。「お願いします」とスプレーでペイントなさった方の思いたるやいかばかりのものであったろうと思いを馳せずにはいられません。ふぅ‥。

しかし、ここ大槌の中心部にも「感謝の意」が示された幕がありました。たぶんブルーシートにペンキで?



自分は震災後半年以上経った現在も支援を行っているつもりですが、それとて感謝されるにはほど遠いレベルの内容です。

ところで以前読んだ本に「援助のジレンマ」というような記述がありました。アフリカの子どもたちにワクチンを!という話があったとして、たとえばそれで募金500円をしたとする、しかしそれで「自分は為すべきことをした!」と胸を張って言えるかどうか。かといってどっさりと貯金を取り崩して募金をするわけにはさすがにいかないわけで、援助者はその「自分なりの線引き」をどこに置くべきかというジレンマに追い込まれるというような話だったと思います。

ただこれについては「絶対的な基準」があるわけでもないですから、要は「自分なり」という個人的基準を自ら設定するしかないわけです。自分がいかに納得できるかどうかが最大の基準になるわけです。

このあたりから「自分ができるところまではやる」という自己基準が生じてきます。無理をする必要もないですが、一方で「震災直後の募金だけで終わっているな」という方には「改めてのお手伝い」をお願いしたい次第です。たとえば下記両リンクサイトに‥(他サイトでも全く構いませんが)。



大槌町の中心部に据えられていたのは、まさに日本人の心の象徴ともいえるモニュメントでありました。

一方で大槌町中心部には復興に向けた新たな動きを見ることが出来ました。少しずつかもしれませんが、「普通の生活」に向かっての動きが出ているわけです。



郵便局は移動車が通常の業務を代行、そして町長&町議会選挙も。復興にむけここで選ばれた方々が「これからの復興勝負」をかけるわけです。



5階建ての団地も3F近くまでは水が上がったようです。しかし1Fの立ち上がりの高さを考えると?とてつもない水塊が(唖然)。


で、ここからは新道を通ったこともあり、実は昨秋同様釜石市内はスルーしてしまいました。震災直後に放映されていた映像ではここ釜石もひどい有様だったのですが‥。今回の場合北海道滞在がちょっと長すぎでしたんでごめんなさい(後悔しても遅すぎですが)。


あー、ここの出光でガソリン入れたんだよなーと思いつつ曲がってみると、その左側には破れた窓ガラスを無惨にさらす公共系の建物と、その駐車場には津波で破壊された車が(右上画像マウスオン)。グーグルマップで調べてみたら、左上画像の手前建物は免許センター、そして奥の建物は何と釜石警察署のようです。

そんなわけで釜石市内は通過してしまったわけですが、そのかわり「観音様に祈りを捧げてまいりました」。というわけで次ページはそこから始まります。
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