【陸前高田】
松坂ヤス(泰の旧字)盛さん(67)が家を出るのは夜が明けたばかりの静かな時間。病院の焼け跡や山をなす折れた木材と割れたコンクリートの脇を通って向かう先は、陸前高田の海岸に残る一本松だ。
3月11日まで、この海岸にはおよそ7万本の松林があった。200年以上前に松坂さんの先祖が、その育成に努力した松林だ。だが、死者・行方不明者が2 万人を超え、東北沿岸部の地域社会が破壊される大地震と津波を生き延びたのは、その中のたった一本、高さ30.5メートルのこの松の木だけだった。この一 本松は今や、日本の粘り強さの象徴となっている。
松坂さんは、一本松を見たとき陸前高田は復興できると思ったと話す。元教師でこの松林を保存するために結成された団体のメンバーでもある松坂さんは1週間に何度か、高台にある仮設住宅からこの場所を訪れている。
しかし、当初は青々とした葉を茂らせていた一本松だが、地震から3カ月以上が経過、海水が木の根の周辺に浸入して、赤茶色に変化しつつある。
一本松が枯れるかもしれない。
ボランティアでやってきた専門家グループが松の幹を布で巻いたり、海水の浸入を防ぐために木の周囲を箱状のもので取り囲むなどの保護作業を行った。
一本松を救うことができれば、私たちにも復活する力があることを示すことになる、と松坂さんは語る。
しかし、この松を救うことができなければ、地震前から既に疲弊していた東北地方に厳しい将来が待ち受けていることを住民は思い出すことになるだろう。陸 前高田は大震災で最大の被害を受けた地域の一つだ。人口2万3000人のうち、10分の1近くが大津波にさらわれ、市の中心部はほぼ壊滅状態となった。生 き残った被災者は新しい家や仕事を探したり、事業を再開したり、地震で破壊された生活を立て直すのに必死だ。
多くの人が目の前にある不安への対応に追われるなか、津波で流された地元の文化財の修復に汗をかいている人たちがいる。松坂さんもその一人だ。不安と喪失を目の前にしたとき、過去とのつながりを守りたい衝動に駆られるのが人間なのである。
町のアイデンティティー
陸前高田のアイデンティティーが危機にさらされている、と博物館の学芸員、熊谷賢さんは言う。熊谷さんは市の歴史資料の修復の監督を務めている。資料の 中には、刀や先史時代の骨で作られた道具、1960年代のマンガ本など博物館の所蔵品も含まれている。こうしたものが、自分たちが誰であるかを思い出させ てくれるという。
地元の宝はかつて、日常生活のあちらこちらにあった。地元のしょうゆは何百年もの間、川のそばの工場で作られてきた。深緑色のビンで全国的に知られる清酒は地元の人たちの誇りだった。何代にもわたって作り方を受け継いできた和菓子店もいくつかあった。
かつて町が金山や林業、漁業で潤い、最盛期を迎えた時代の記憶を伝える宝もある。吉田家文書がそれだ。吉田家文書は1750年代から100年以上にわ たって地元の役人が記した公式文書で、塩の生産から飢饉、1850年の隕石落下に至るまであらゆることが記録されている。この文書も津波の被害を受けた。
一本松は今や、陸前高田市の非公式の紋章だ。一本松の図案は、タオルやTシャツ、さらには救援活動を行う自衛隊隊員らが被るヘルメットにまで使われている。市内では、いたるところに、一本松の写真に復興を願うメッセージを添えたポスターが貼られている。
一本松が助かったのは、松が植えられていた場所がよかったからだと市の職員は考えている。海側にはユースホステル、陸側には高架道路があって、津波の威力が弱められたのではないかという。
一本松に運命を重ね合わせる市民
一本松が残ったのはまるで奇跡という戸羽市長は、津波に耐えた木は見る人に、陸前高田はいつか元通りになるという期待を与える、と語った。
子供のころ、祖父母と夏、よくこの海岸を訪れていたという戸羽市長は、一本松を残すためにできるだけのことをすると話す。
高田松原と呼ばれるこの松林は、全国から観光客が集まる名所で、地元経済にとって重要な収入源だった。しかし、市民にとってはそれ以上に重要なものでもあった。
近年は市民の憩いの場となっていたが、松林はもともと、砂と塩から水田を守るために植えられた。第2次世界大戦後の食糧不足の時代には、松坂さんは海岸 の浅瀬に入っては、イワシなどの魚を網で捕まえたそうだ。松林の木を伐採して、中学校の校舎の建設に使ったこともあった。
当時は日本全体が貧しく、陸前高田の人々が生きるには海岸と松林が必要だった、と松坂さんは語る。
松林が津波に襲われたのは今回が初めてではない。1960年にチリの大地震で津波が発生、松林のほとんどが倒された。その後、住民が再び松の木を植えた。
だが、植林は、当時よりはるかに難しい。地震と津波で陸前高田の地形が大きく変化してしまったからだ。海岸沿いの土地では、ところどころで90センチほ ど地盤沈下が起きており、海岸の大部分は水に浸かっている。こういった地域を元の通りに戻すことができるかどうかは分からない。
住民の中には、これほどはかない過去の記憶をつなぎ止めるため、ここまで思いを込めることに疑問を持つ人もいる。松林を保存するための団体に所属する佐々木松男さんは、一本松にはこれからも生き続けてほしいが、それがどうなったとしても冷静でいたいと語る。
佐々木さんは、一本松と自分の苦しい状況を重ね合わせる人が、松が枯れたときに落胆してしまうのではないかと恐れている。松の木は木、自分たちとは違う、自分たちは復興できると佐々木さんは語った。
そうは言っても、市民の多くは一本松の運命に注目している。
津波が町を襲った5日後、松坂さんは寒さの中を繁華街のあったところに出掛けた。家も車もなくなってしまったが、家族は全員無事だった。救援活動を手伝おうと思ったのだ。そのとき、この松の木を見て目を疑ったという。
高田松原の希望
松坂さんをはじめ多くの人が松の木を保護したいと強く感じた。自衛隊が到着して同市の復興作戦を何と命名するか尋ねられたとき、戸羽市長は「高田松原の希望」を選んだ。
一本松は震災直後は元気そうだった。しかし津波から1カ月たっても根を取り巻く土壌の塩分は高いままだった。市は専門家の助けを求めた。
樹木の専門家は海水から木を守るため、木の周辺に砂袋と材木で囲いを作った。津波のとき樹皮についた傷には抗生物質の入ったペーストが塗られた。幹はわらと緑色のプラスチックで保護され、根元には根を保護するためわらが敷かれた。
5月初めも土壌の塩分濃度は、松が生存できるレベルの3倍だった。専門家が全国から訪れ、もっと効果的な対処が必要だと助言した。市は根元を真水に浸すことができるような囲いを作ることにした。
6月半ばに木の回りに杭打ち機で鋼板を約5メートルの深さに打ち込んだ。そしてトラックで運んだ真水をその中に注入する一方、塩水をポンプで吸い上げ始めた。
日本造園建設業協会岩手県支部の米内吉栄支部長は、もしこの木が来年2月か3月まで生き抜いたら、他のところへ移植する必要があるという。それまでは移 植に耐えられるようにするため、いわば「冬眠」状態を維持する。しかし、この松は非常に重く、根が広がっており、移植は難しい作業になりそうだ。
だが、松が生き延びられるかもしれない兆しも見えてきた。5月にこの木に登った専門家は樹液の流れや新芽を確認した。
それでも同市は最悪の事態への備えをしている。一本松のDNAを守るため、枝を切って同種の木の幹に接ぎ木した。100本のうち4本が定着した。数年で、この枝は定植できるようになるという。
たとえ10年、20年掛かるとしても、高田松原を再生し将来の世代に残したいと松坂氏。あそこに行けばその気持ちが分かる、と同氏は言った。