祈東北復興!で東北を目指したつもりが、気がつけば北の大地も巻き込んでいつもの湯めぐりに(笑)。

− その23 釜石大観音で祈りを捧げた後、高田松原の「一本松」に三陸の未来を見る −

* このページ内画像および内容は全て2011年8月下旬現在のものです

さて、この日はせめて石巻まで行かないと明日(旅行最終日)が厳しいんじゃないかということで、残念ながら釜石の市街はパスしました。しかし少しでも住民の方に迷惑にならないところでお金を使えるところはないかと探していたら‥あった、釜石大観音(笑)。

宗教法人施設に訪問してもそのお金が地域にどれだけ還元されるかはわからないのですが(個人的には「宗教は尊重してもその運営者は尊重できない場合が多い」と捉えているTakemaです)、登記拠点が釜石なのですし、少なくとも地元の従業員さん(いやこの場合は「門徒」というような呼び名なのか?)の収入には寄与するはずと思ったわけです。でもたとえば京都の要拝観料系寺社には行く気全くナシですが(ご拝察下さい)。

そんなわけで500円/人の拝観料を支払っていざ行きましょう。‥と、いきなり目の前には長大エスカレーターが。うーん、こんな設備を作っちゃえるところに宗教法人の胡散臭さを感じちゃうんだよなと思いつつもしっかりと利用させていただきました(言行不一致)。でもセンサー式にはなっていましたっけ。しかし定期的なメンテは大変でしょうに‥。

楽をして登ってきた先には「ありゃまアジア様式の寺院が」(左上画像マウスオン)。公式サイトを見るとどうやらスリランカ様式のようです。内部は自由に見学でき、日本の仏教各派を格差なく紹介していることには好感が持てましたが、でもそれって宗教法人ではなく博物館的な位置づけなのでは?

そんなわけでいよいよ釜石大観音ご本尊へと向かいます。

わたしとしては「モノが大きくなればなるほどありがたみが失せる」感覚があったのですが、今回の震災を乗り越えたこの観音様にはさすがに宗教的な願いをかけずにはいられませんでした。しかしこちらの寺院はもともと禅宗一派の曹洞宗ゆえ、ただ願い祈り念仏を唱えるだけで御利益があるかどうかはわかりません。

そんなことはともかくとして、この高台からは釜石湾が一望できました。ここからは「釜石の命綱」の明暗が一望できたのです。

穏やかな釜石湾にはぽっかりと中型船が浮かんでいました。そしてその奥には何やら小島が並んでいるようにも見えます。しかしそれは‥

釜石の大堤防(釜石湾口防波堤)。最大水深63mからケーソン工法で積み上げられた巨大防波設備は釜石湾を2方向からふさぐ形で建設されていました。しかし大津波の後はご覧の通り。「それでも深いところから水面までがまだところどころ残っているんだから大したものだ」とお考えの向きもありましょうが、湾の南北にあったこの堤防が、かえってその隙間からの津波の流速を増したということも考えられます。

何が正しく何が間違っていたかという検証については今後各専門家によりそれぞれ検証が行われるはずでしょう(ただし各検証結果は「一定のフィルター」を通したものであり、それぞれ鵜呑みにすることはある意味危なっかしいですが)。でもその結果をもとにわれわれは今後の復興に向けて役立てていくべきなのです。たとえば震災の瓦礫処理についてはこちらのサイトが一つの参考になります(ただし全面的にこのウェブマスターに同意するわけではありませんので念のため)。

ところでこの「釜石大観音」は本来上部(胸のあたり)まで登ることができ、そこに展望台もあるのですが、やはり一定の被害を受けたのか展望台への通路は閉鎖されていました。今調べてみたら落慶(完成)は1970年(昭和45年)ということですから耐震基準も古い時代の建築物ですし、多少なりとも老朽化は進んでいたはずですが、大きな被害に至らなかったのはやはり観音様ご自身の御利益なのでしょうか?



そうなると、左上画像くらいのことしかやることがないゾ(笑)。ちなみに丘の下にはたくさんの車。しかしそれらはみな‥(右上画像マウスオン)。

そんなわけで釜石訪問はちょっと消化不良気味でもありましたが先を急ぎましょう。このあたりの道は半島の根元の高い部分をトンネルで突っ切るか、峠越えでえっちらおっちら上り下りして次の海岸沿いの街へという繰り返しが続くのですが、やはりあちこちが復旧工事中でした。



震災直後の仮復旧から、本格復旧に向けた道路インフラの整備が行われているようでした。道路が万全じゃなきゃ復興もおぼつきません。

さて、釜石から大船渡エリアに入ってきました。とはいえそれは土地の境界という意味であり、辺りが里山であることに何の変わりもありません。が、「さすがにここの道の駅は無事だったろう」と予想していた「道の駅さんりく」、予想通り通常営業でありました。

外観は2010秋訪問時と何の変わりもありません。そりゃそうだここの道の駅の標高は約160mなんですから、地震による影響さえなければ大丈夫なんですよね。地元産品を買える数少ない場所なのです。ちなみに「がんばっぺし気仙」「がんばっぺ大船渡」のロゴ、「し」があるとないのとではどう違うのか調べてみたら、
東北地方の方言で「がんばろう」の意「ぺし」は「一緒にやろう」という意味合いが強い方言。標準語の「がんばろう」のニュアンスよりも「一緒にがんばろう」の意味が強い。(大槌町復興支援サイト「がんばっぺし大槌」より)
なるほど。でもそうなると「がんばろう岩手」はともかくとして、気仙はおそらく大船渡市・陸前高田市・住田町というより狭いエリアを指しているのでしょうから「より一緒に頑張ろう」という意味合いが強くなるのはわかります。しかしさらに地域内コミュニティが強く結びついているはずの大船渡に「し」が付いていないのはなぜなのでしょ?どうでもいいことなのかも知れませんが妙に気になった次第です。

さて、この道の駅ではまさに「ここでしか、しかも今しか買えないと思われる」限定アイテムを販売していました。それは‥(左下画像)、



しかししかし、なんということでしょう。この時のわたしはなぜか「予約しても3週間待ち」という説明書きに心が引いてしまったのです。この時の心理はある種「ウマイ店にわざわざ行列するよりは普通レベルでも行列のない店を選ぶ」という「待つのがキライ」なTakema的行動心理学の範疇そのものだったのですが(笑)、今になってみて思いきり後悔しています。

このあと(2011/10月)関係各所にメールを入れたのですが返信なしなのは、もう機能していないアドレスなのかな?

さていよいよ大船渡中心部に近づいてきたのですが、実は昨年の訪問時は釜石同様大船渡も三陸自動車道経由でパスしていたのです。震災前の情景を知らない自分が市内中心部にのこのこ見物気分で入域するのもどうなのか?それとやはり「気仙沼でじっくり時間を取りたい」という思いが強かったことから、今回も山の中腹を突っ切る三陸道経由を選び、大船渡市内は結局見ることがありませんでした。。

とはいえ「いきなり気仙沼」というわけにはいきません。その手前には上記ブレス念珠を生みだす産地となってしまった陸前高田市も、そして旧志津川町もあるのですから‥。



そんなわけで陸前高田方面へ。しかし残念ながら市街地は予想通りの光景という有様でした。



団地のベランダ目隠しを見るにこのエリアには4Fまで津波が押し寄せた模様。スポーツセンターは今も壊滅状況です。



陸前高田随一だったと思われるキャピタルホテル。よく見ると柱の鉄筋までもむき出しになってます。これが津波の威力か!(くそー)。

地域の方々のうち、このホテルに避難なさった方々は間違いなく助かったのだろうと思います。しかし、この平地に残されていた建物といえば上出の団地とこちらのホテルのみ。つまりは他の全ての建物は津波に飲まれてしまったということであり、たとえば3階建ての建物であったとしても完全冠水を余儀なくされたわけです。そしてその屋上(4F)に「ここなら大丈夫だろう」と避難なさった方々も‥。

このことを考えるに、現地の復興に関しては「津波避難ビル」の建設はある種有効だと思えます。しかし人口の建造物はいずれ老朽化してしまうことを考えると‥

「たとえば、陸前高田の市街地に『津波瓦礫を利用した高い丘』を 構築するというアイデアはどうでしょう?」

上方のリンク先で「瓦礫を利用した堤防」のアイデアが一理あるということは紹介したとおりです。でも今回の大津波災害でもわかるとおり、堤防や防潮堤は「それを越えられてしまえば何の役にも立たない」のです。だったら、それとダブルで市街地整備をすればどうなのかというアイデアなのです。

今回の津波で被災した陸地、特に海岸近くの土地の価格はかなり急落していると思いますし、建築制限等もあり「もうそこには住めないし住みたくない」と思われている地主の方も多いはずでしょう。一方で地域漁業の再生その他を目指す企業や組合の方々は「山の上に漁業拠点を置くわけにはいかない」という現実があります。そのジレンマを解消できないだろうかと考えたTakemaの発想は‥

というものなのです。皆さまいかがなものでしょうか?失礼ながら材料は沢山ありますし(ただし木材はやがて腐敗して地盤沈降につながるので土台部には使えませんがコンクリ等の廃材はたくさんあるはず)、しかも防潮堤のように一直線に続けるわけでもありませんから均一性の問題もありません。土台ごと流されてしまった旧中心部にいくつかの「山」を作るのです。その周辺部に住宅や作業場を作ることの可否は自由意志、でも‥

「仮に『30mの丘』がすぐ近くにあれば、そこに逃げれば命は間違いなく助かります。」

普段は植栽を整備し公園として整備しておけば地域の環境維持にも役立ちます。そしていざというときは「遠くの山より近くの丘」。今回の最大級の地震&津波記録によりある程度の最大値は得られたわけなのですから、この整備においてはこれまでの計測値をもとにして「それ以上の」山を築けばいいだけのことです。それこそまさに「今回の災害を物理的にも将来的にも生かす材料として」。

津波で被災した地方公共団体が国の補助を受けつつ震災直前の路線価で土地権利を取得すればすぐにでもできるような施策だと思います。わざわざ瓦礫を別の場所に持っていく必要もなく、現地の雇用にも役立つ話だと思うのですがどうなのでしょう?莫大な復興費用の抑制や被災地の活性化のために必要なのはアイデアの提供なのだと思うので、一応こうして提案する次第です。

さて震災後の陸前高田といえば、誰もが知っている「高田松原7万ものうちたった1本だけ残った松」でありますが‥







しかしこの松もかなり弱っているというのは遠目にもわかりました。というか、松葉の部分が茶色なのです。新たな新芽が出ていれば大きな問題はないのですがそれもどんなものなのか?このことについて詳しい記載がありましたので以下に引用します。
(直引用サイトはこちら

【陸前高田】

松坂ヤス(泰の旧字)盛さん(67)が家を出るのは夜が明けたばかりの静かな時間。病院の焼け跡や山をなす折れた木材と割れたコンクリートの脇を通って向かう先は、陸前高田の海岸に残る一本松だ。

3月11日まで、この海岸にはおよそ7万本の松林があった。200年以上前に松坂さんの先祖が、その育成に努力した松林だ。だが、死者・行方不明者が2 万人を超え、東北沿岸部の地域社会が破壊される大地震と津波を生き延びたのは、その中のたった一本、高さ30.5メートルのこの松の木だけだった。この一 本松は今や、日本の粘り強さの象徴となっている。

松坂さんは、一本松を見たとき陸前高田は復興できると思ったと話す。元教師でこの松林を保存するために結成された団体のメンバーでもある松坂さんは1週間に何度か、高台にある仮設住宅からこの場所を訪れている。

しかし、当初は青々とした葉を茂らせていた一本松だが、地震から3カ月以上が経過、海水が木の根の周辺に浸入して、赤茶色に変化しつつある。

一本松が枯れるかもしれない。

ボランティアでやってきた専門家グループが松の幹を布で巻いたり、海水の浸入を防ぐために木の周囲を箱状のもので取り囲むなどの保護作業を行った。

一本松を救うことができれば、私たちにも復活する力があることを示すことになる、と松坂さんは語る。

しかし、この松を救うことができなければ、地震前から既に疲弊していた東北地方に厳しい将来が待ち受けていることを住民は思い出すことになるだろう。陸 前高田は大震災で最大の被害を受けた地域の一つだ。人口2万3000人のうち、10分の1近くが大津波にさらわれ、市の中心部はほぼ壊滅状態となった。生 き残った被災者は新しい家や仕事を探したり、事業を再開したり、地震で破壊された生活を立て直すのに必死だ。

多くの人が目の前にある不安への対応に追われるなか、津波で流された地元の文化財の修復に汗をかいている人たちがいる。松坂さんもその一人だ。不安と喪失を目の前にしたとき、過去とのつながりを守りたい衝動に駆られるのが人間なのである。

町のアイデンティティー

陸前高田のアイデンティティーが危機にさらされている、と博物館の学芸員、熊谷賢さんは言う。熊谷さんは市の歴史資料の修復の監督を務めている。資料の 中には、刀や先史時代の骨で作られた道具、1960年代のマンガ本など博物館の所蔵品も含まれている。こうしたものが、自分たちが誰であるかを思い出させ てくれるという。

地元の宝はかつて、日常生活のあちらこちらにあった。地元のしょうゆは何百年もの間、川のそばの工場で作られてきた。深緑色のビンで全国的に知られる清酒は地元の人たちの誇りだった。何代にもわたって作り方を受け継いできた和菓子店もいくつかあった。

かつて町が金山や林業、漁業で潤い、最盛期を迎えた時代の記憶を伝える宝もある。吉田家文書がそれだ。吉田家文書は1750年代から100年以上にわ たって地元の役人が記した公式文書で、塩の生産から飢饉、1850年の隕石落下に至るまであらゆることが記録されている。この文書も津波の被害を受けた。

一本松は今や、陸前高田市の非公式の紋章だ。一本松の図案は、タオルやTシャツ、さらには救援活動を行う自衛隊隊員らが被るヘルメットにまで使われている。市内では、いたるところに、一本松の写真に復興を願うメッセージを添えたポスターが貼られている。

戸羽太市長は、菅直人首相が震災後、陸前高田の視察に訪れた際に、わざわざ一本松のそばまで案内した。その近くには、被害を受けたユースホステルがあり、周りには津波に耐えられなかった木々の根っこがさらされていた。

一本松が助かったのは、松が植えられていた場所がよかったからだと市の職員は考えている。海側にはユースホステル、陸側には高架道路があって、津波の威力が弱められたのではないかという。

一本松に運命を重ね合わせる市民

一本松が残ったのはまるで奇跡という戸羽市長は、津波に耐えた木は見る人に、陸前高田はいつか元通りになるという期待を与える、と語った。

子供のころ、祖父母と夏、よくこの海岸を訪れていたという戸羽市長は、一本松を残すためにできるだけのことをすると話す。

高田松原と呼ばれるこの松林は、全国から観光客が集まる名所で、地元経済にとって重要な収入源だった。しかし、市民にとってはそれ以上に重要なものでもあった。

近年は市民の憩いの場となっていたが、松林はもともと、砂と塩から水田を守るために植えられた。第2次世界大戦後の食糧不足の時代には、松坂さんは海岸 の浅瀬に入っては、イワシなどの魚を網で捕まえたそうだ。松林の木を伐採して、中学校の校舎の建設に使ったこともあった。

当時は日本全体が貧しく、陸前高田の人々が生きるには海岸と松林が必要だった、と松坂さんは語る。

松林が津波に襲われたのは今回が初めてではない。1960年にチリの大地震で津波が発生、松林のほとんどが倒された。その後、住民が再び松の木を植えた。

だが、植林は、当時よりはるかに難しい。地震と津波で陸前高田の地形が大きく変化してしまったからだ。海岸沿いの土地では、ところどころで90センチほ ど地盤沈下が起きており、海岸の大部分は水に浸かっている。こういった地域を元の通りに戻すことができるかどうかは分からない。

住民の中には、これほどはかない過去の記憶をつなぎ止めるため、ここまで思いを込めることに疑問を持つ人もいる。松林を保存するための団体に所属する佐々木松男さんは、一本松にはこれからも生き続けてほしいが、それがどうなったとしても冷静でいたいと語る。

佐々木さんは、一本松と自分の苦しい状況を重ね合わせる人が、松が枯れたときに落胆してしまうのではないかと恐れている。松の木は木、自分たちとは違う、自分たちは復興できると佐々木さんは語った。

そうは言っても、市民の多くは一本松の運命に注目している。

津波が町を襲った5日後、松坂さんは寒さの中を繁華街のあったところに出掛けた。家も車もなくなってしまったが、家族は全員無事だった。救援活動を手伝おうと思ったのだ。そのとき、この松の木を見て目を疑ったという。

高田松原の希望

松坂さんをはじめ多くの人が松の木を保護したいと強く感じた。自衛隊が到着して同市の復興作戦を何と命名するか尋ねられたとき、戸羽市長は「高田松原の希望」を選んだ。

一本松は震災直後は元気そうだった。しかし津波から1カ月たっても根を取り巻く土壌の塩分は高いままだった。市は専門家の助けを求めた。

樹木の専門家は海水から木を守るため、木の周辺に砂袋と材木で囲いを作った。津波のとき樹皮についた傷には抗生物質の入ったペーストが塗られた。幹はわらと緑色のプラスチックで保護され、根元には根を保護するためわらが敷かれた。

5月初めも土壌の塩分濃度は、松が生存できるレベルの3倍だった。専門家が全国から訪れ、もっと効果的な対処が必要だと助言した。市は根元を真水に浸すことができるような囲いを作ることにした。

6月半ばに木の回りに杭打ち機で鋼板を約5メートルの深さに打ち込んだ。そしてトラックで運んだ真水をその中に注入する一方、塩水をポンプで吸い上げ始めた。

日本造園建設業協会岩手県支部の米内吉栄支部長は、もしこの木が来年2月か3月まで生き抜いたら、他のところへ移植する必要があるという。それまでは移 植に耐えられるようにするため、いわば「冬眠」状態を維持する。しかし、この松は非常に重く、根が広がっており、移植は難しい作業になりそうだ。

だが、松が生き延びられるかもしれない兆しも見えてきた。5月にこの木に登った専門家は樹液の流れや新芽を確認した。

それでも同市は最悪の事態への備えをしている。一本松のDNAを守るため、枝を切って同種の木の幹に接ぎ木した。100本のうち4本が定着した。数年で、この枝は定植できるようになるという。

たとえ10年、20年掛かるとしても、高田松原を再生し将来の世代に残したいと松坂氏。あそこに行けばその気持ちが分かる、と同氏は言った。

さて、ここ陸前高田の市街地中心部にに商店といえるものは何一つないわけなのですが、気仙川を渡った先の交差点に、被災しながらも営業を続けるGSが。よし、こちらで給油しましょう!



建物の奥には日の丸が半旗で掲げられておりました。

給油中店員さんからお話を伺うと、「(道路の反対側の山を指さして)あそこの山の中腹にお社が見えていますが、あの日の津波ではあのお社の辺りまで水が上がったんですよ」とのことでした。

これがそのお社です。あそこって‥たぶん道路よりたぶん10-15mくらい高いところにありますよね?あそこまで水が上がるっていったい‥。当然この平屋建てGSの建物も完全に水に浸かったわけで、震災当日の陸前高田の悲惨さを思うに酸鼻に堪えない気持ちになります。

なお、実はこのGS直前の交差点ではこの旅行中2頭目のカモシカを見つけました。こんな海沿いにまでカモシカとは驚きです。今回は撮影する時間的余裕がなかったわけですが、このあたりに人気がなくなったから里にまでカモシカが降りてくるようになったのか、それとも案外以前から普通に見かけられるものだったのか?



なお、このGSからも「高田の一本松」が見えています。とはいえ相当遠いのでズームアップすると‥うーん、確かに葉が赤いぞ‥。

さて、このあとはいよいよ気仙沼の町に進んでいきます。わずか10ヶ月前、海の幸に舌鼓を打ったあの市街も壊滅的被害を受けたわけなのですが‥
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