− その24 復興進まぬ気仙沼、思い出の宿も今はなく‥でも「Restart」の動きも!−
国道を外れて気仙沼市街地北部の鹿折に入ると、そこに「人々の営み」はありませんでした。
* このページ内画像および内容は全て2011年8月下旬現在のものです
市内中心部へと南下する道路は軒並み通行止めで、迂回を示す矢印にしたがって山裾側へと進みます。すると大船渡線の踏切を渡りやや高台に上がることとなりました。そしてそこから見えた景色は‥
この時点で震災後5ヶ月半が経とうとしていましたが、かつて家々が立ち並んでいたはずの平地のど真ん中に大型船がまだ鎮座しているところに、復興までの道のりがまだあまりにも遠いことを感じます。
そして大船渡線。実は内陸部を走る一ノ関 − 気仙沼間は地震による大きな被害もなく2011年4月1日から運行を再開しています(気仙沼駅は市街地の外れの内陸側にあったことが幸いしたようです)。しかし気仙沼 − 大船渡間、また気仙沼線の気仙沼 − 柳津間はそれぞれ運行の見通しはおろか、復旧作業も行われていません(このことについては、今後の復興計画に基づき市街地そのものが移転する可能性もあるため、復興計画が策定される前に現路線の復旧作業には入れないという事情もあるようです)。
右上画像は鹿折唐桑駅手前の鉄路ですが(奥に駅名板およびホームが見えています)、線路の「ある1箇所」に何かとてつもない力が加わった痕跡が残されています。地盤が削られてはいないのに線路だけがねじ曲がるとは、あの津波の際ここには何が流れてきたのでしょう?
ちなみに、この大船渡線の盛り土がというわけでもないのでしょうが、線路を挟んで山側に建つ住宅はみな無事でした(左上画像)。もちろん大規模な浸水等はあったと思いますが、その修復もほぼ終わったようで、それぞれの家には人の出入りが見受けられました。しかし家は残っても、商店も全てなくなったこの場所での生活の利便性は大きく下がったはずですし、また、毎日「目の前の被災地」を見ながら生活しなければならないというのも大変なことですよね。
さて、この迂回路をさらに進んでいくと、再び旧市街地側に向かう道路があったので「行けるところまで」というつもりで進んでいきました。すると‥。
今度は、先ほどの船を海側から見る場所に出ました。この道路もこれより先は一般車通行止めです(上画像マウスオンで拡大)
地図で確認してみたところ、ここは県道34号の「新浜1丁目」交差点から100mほど西側のようでした。気仙沼港の最奥部からは直線で400m弱といったところでしょうか。この辺りは気仙沼市の中心部にほど近く、いま改めて地図で確認してみると住宅や商店、それに工場や旅館なども数多くあったエリアのようでした。が‥。
GSや商店などはまだ片付けられぬままその姿を悲しげにさらしておりました。
なお、ここ気仙沼に限らず海沿いの被災地では夏にかけて蝿が大発生し(冷凍倉庫等から流出した海産物等の腐敗もその原因だったようです)住民の方々もその扱いに難渋したそうですが、われわれが訪問した8月下旬の気仙沼では、蝿の姿を見ることは全くありませんでした。防疫作業ももちろんですが、もはや蝿が繁殖するに足る食べ物が全て腐敗しきってなくなったことも一因でしょう。有機的な臭いもほぼ感じず、辺りには多少埃を帯びたような風が緩やかに吹き抜けるばかりでした。
と、ふと足元に目をやると‥
牛の置物、缶詰、そしてなぜか若葉マークのステッカー。缶詰をよく見てみたら、どちらも「気仙沼港水揚げ」と書かれたさんまの缶詰でした。近くの倉庫から流れてきた物なのでしょう。その意図の真相は不明ですが、そっと頭を下げました。
さてこのあとはさらに市内中心部(魚市場方面)へと進みます。
港ふれあい公園に来てみると、そこには大島行きの立派なフェリーが。気仙大島といえば、フェリーが全て失われ桟橋も沈降したため援助の手がなかなか入らず、確か米軍が上陸用舟艇を使って緊急支援&復興作業を行った島だと記憶していますが、桟橋の応急修理はともかくとしてこのフェリーはどこから?まさか新造船ということはないと思うけれど?
と、船体をよく見ると(この画像では読めませんが)、船の前方には「ドリームのうみ」と記載され、後方には「広島県江田島市」と書かれておりました。どうやら復興支援の一環としてはるばる瀬戸内の海からここまでやって来てくれた船のようです。で、ちょっと調べてみたら‥江田島市、決断が早い!詳しくはこちら(PDFファイル)をご覧いただきたいと思いますが、「4/6に照会があって翌7日に無償貸与決定、ドック入りを経て4/16には気仙沼へ向けて出発」とは!フットワーク軽すぎですよ江田島市!(笑)。いずれにせよ市の迅速なるご英断にわたしからも感謝の意を表したいと思います(いや、関係者各位までには伝わらないと思いますが)。
さらに、当初は「2011/10下旬に貸与期間終了」との契約でしたが‥
無償貸与期間を延長
東日本大震災の被害を受けた宮城県気仙沼市からの要請を受け,江田島市所有のフェリー「ドリームのうみ」を大島汽船株式会社(気仙沼市)へ無償で貸し出しています。
この「ドリームのうみ」の貸出期間は平成23年10月15日まででしたが,同社と協議した結果,平成24年3月15日まで延長することとし,平成23年10月5日(水)に江田島市役所で無償貸与期間延長の契約を締結しました。
ドリームのうみは,気仙沼市の沖合い7.5kmにある大島(東北地方最大の有人島・人口約3300人)と気仙沼市を結ぶ定期航路便として1日8往復し,離島復興のための手助けをしています。(以上、江田島市公式サイトから引用=こちら)
この船はカーフェリーということもあり、物資の輸送なども効率的に行えます。2011/11/1からは大島汽船所属の「フェリー亀山」が再就航したようですが、それまでカーフェリーはこの1隻だけだったことを考えると、大島の復興に大いに寄与した復興支援だったといえるでしょう。ありがとうございます江田島市!
ちなみに本来の大島航路の埠頭はここではなくもっと南側なのですが、どうやらそちらは壊滅的な被害を受けた様子で、それゆえ湾奥のここから発着しているようです。
さて続いて目指すは魚市場。その目の前にある「気仙沼リアスシャークミュージアム」1Fにある観光客向けのお土産スポットにも行ったよなぁ、まさか再開してるなんてことは‥という淡い思いは、ミュージアム前の光景を目撃した瞬間夢と消え失せました。
そう、現在の気仙沼は「本業である漁業およびその付帯産業」の復興に全力を傾倒しており、観光関連までには全く手が回らない状況なのです。これはもちろん三陸の被災地ほとんどにあてはまると思います。
その一方で漁港設備全体の沈降や冷凍冷蔵設備の被災はあっても、漁業復興への動きは急ピッチで進み始めているように思いました。市場からは長距離系の大型トラックが何台も出ていきます。このトラックの多くはおそらく「遠くへ向かう」のでありましょうが、いつか「大中小型トラックが近くの加工工場へと向かう」姿が見られるようになってほしいものです。漁業なしにここ気仙沼は成り立たないのですし、当地ならではの「フカヒレ」が再び消費地に出回る日を待ち望みたいと思います。
あ、ただしその場合もわたしゃ気仙沼まで食べに来ます。なぜなら現地の経済に少しでも貢献したいですし、それに‥
(昨秋訪問時にそう聞きましたので‥)
さてしかし、このあとはちょっと重苦しい訪問となります。いや、どの被災地の光景も重苦しいものではあるんですが、昨秋三陸を訪問した際に宿泊したのは2軒。そのうち今回も宿泊した嶋田鉱泉はやや内陸ということもあり震災の影響を受けていないということを事前に把握していたわけですが、それと同時に‥
誓って申し上げますが、今回の三陸訪問は決して火事場見物のようないいかげんな気持ちで決めたわけではありません。しかし、だからといって「何か具体的な直接支援をしに(ボランティア等)」訪問したわけでもありません。
わたしは震災後、「出来るだけ被災地、特に福島を訪問しよう、拙サイトを訪問して下さる方々に少しでも現地の状況を見てもらおう」と考え、その上で「少しでも現地でお金を使えばそれがその地域の方々の生活資金に回るのではないか、間接的ではあるけれどそれも1つの支援ではないのか」と思って行動してきたつもりです。
その思いはここ三陸でも変わるものではありません。だからこそ、かつて(といってもほんの10ヶ月ちょい前)自分が「楽しい時を過ごした」場所がとてつもない苦難にあえがざるを得なくなったことをきっちり伝えたいのです。その上で、今後徐々に復興の道を歩まねばならない三陸各地に1人でも多くの方々に訪問していただきたいと思っています。そういう意識のもとで各ページを綴っているということをどうぞご理解下さい。このことを書くのが遅きに失した感もありますがご容赦を‥。なお、ここから先を読み進める前に、昨秋の気仙沼訪問ページを是非ともご一読下さい。こちらです。
魚市場前の道路は昨秋よりも整然としていました。だってあの時は大潮でこの辺りの道路が軒並み水浸し‥あ、このシェルのGSもあの時は水浸しだったんですよね。ただし事態は全く違うんですが‥(両上画像マウスオンで昨秋の画像に変わります。以下しばらく同じ)。
さて、このGSのほぼ向かいの路地を入ったところにあったのが気仙沼ホテルだったのですが‥嗚呼(覚悟していたとはいえ唖然)。
ホテル棟は完全に撤去されてしまっていました(左上画像の右側建物の壁手前側に宿がありました=両画像ともマウスオン)。
ゑびす振舞の建物はかろうじて残っていましたが、地盤沈下もありこの状況での再開は不可能であるように思えます(両画像マウスオン)。
(もちろんですがこれは昨秋の画像です)
道路はかさ上げされているとはいえ、その分これまでの住宅や各施設が低くなってしまい、水が引くことは困難になっているこの地域、しかもいまだに自販機やコンテナが放置されている状態を考えるに、市街地の復興はあまりにも遠いものと考えざるを得ません。
このあとはR45に戻るべく大川に架かる橋を越えて内陸方面へと進みます。実はすでに午後1時をとうに回っており、昼食をという思いもあったのですが‥驚きました。
全国展開している量販店やファストフード店、そして行き交う人々や車の波。「バックミラーでふり返らない限り」、そこにはまさに震災前と同じ気仙沼の活気がありました。このギャップは‥ううむ。
さて昼食‥でも全国展開系のお店ではなく地元経営のお店で‥と思っていたとき、ふと目に入ったのがこちらのお店でありました。
一見して「われわれには敷居が高いかな?」とも思いましたが、でもランチタイムの営業ですしこの時期に「変な営業」をしているわけがあるまいということで入店(笑)。
メニューを見ると、にぎりは並で1050円とかなりリーズナブル。でもわれわれがここでお金を使わなくてどうする!というわけで勇気を出してもっと上のほうを注文しましたとさ(笑)。
お寿司が出てくる前に乾杯!なおTakemaはご覧の通りノンアルコール(くっそー)。お通しのカニ味噌だけでもじっくり飲めるのに(苦笑)。
そして待つことしばし、本日のお昼ご飯が堂々登場です!
ちなみにご店主さんとは最初は全く会話がなかったのですが、お寿司が出てからはいろいろとお話を伺うことが出来ました。もともとはもっと港の近くで営業していたそうなのですが、かの3.11によりお店も全壊。しばらくはどうしていいかわからない日々が続いたが「店を開かなければ収入もない、やるしかない」ということで、津波被害のなかったこのエリアで「居抜き物件にちょっと手を入れただけで」お店を再開なさったそうです。そして心機一転というわけで屋号もかつての「一八」から現在の「鮨智」に変えられたのだとか。
美味しいお寿司といろいろなお話を伺い(実は「ゑびす振舞」の従業員さんともお知り合いだったそうです)、このお店を選んで大正解でした。まだ気仙沼で本格的なお寿司を食べられる店は少ないと思いますので、ご訪問の際は是非!お勧めです。
【すし処 鮨智】(旧「一八」
宮城県気仙沼市田中前4丁目3−4 TEL:0226-24-9220
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そんなわけでお腹満腹後はさらに南へと向かいます。目指すは石巻なのですが、この日の宿はどうしよう?海沿いの宿は復旧復興の作業員の皆さんで軒並み満員という話なのですが‥。ま、石巻まで行ってから考えましょ(あくまで車中泊は選択肢にないんです。テントならいいんですが)。
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