祈東北復興!で東北を目指したつもりが、気がつけば北の大地も巻き込んでいつもの湯めぐりに(笑)。

− その25 南三陸町から志津川、そして石巻の各被災地へ −

* このページ内画像および内容は全て2011年8月下旬現在のものです

そんなこんなで石巻方面へと下っていくわけなのですが‥その道中はまだまだいろんな悲しみに満ちておりました。



土のうだか何だかを3段に積み上げた上を作業員さんが歩いてますが(左上画像)、その脆さを一番ご存じなのもあの方でしょう。



気仙沼線の橋梁もご覧の通り。このあたりのR45は復旧工事の関係で未舗装の迂回路を片側交互通行でした。

いくつかの山越えをしていくと歌津集落に出てきました。実は伊里前湾の最奥部を高架橋のバイパスが通っていたのですが、鉄道橋のみならず国道橋もまた徹底的に破壊されていたのです。しかしコンクリート製の橋梁を押し流す津波っていったい‥(唖然)。

左上画像の部分をまさに国道のバイパスが通っていたわけです。おそらく建設計画の立案時には「津波があっても橋の下を通り抜けるくらいのものだろう」と想定していたことでしょう。いや、計画者の想定の甘さを糾弾するつもりは毛頭ありません。その計画にGOを出したお上も、そして完成後この道を利用していた(自分を含めた)誰しもがそう考えていたに違いありません。

人間は若い頃にはそこそこ無茶をするものです。それは「経験の少なさ」と比例しています。一般的に、年をとるに従い大きな判断ミスをしでかさなくなるのはその人が「過去の経験」を元にして行動するようになるからです(この場合、たとえば「デリバティブ取引」のようなマネーゲームは含みませんよ(笑))。もちろんそれと反比例する形で「創造的な仕事」はしにくくなっていきます。経験が創造の足を引っ張るからです。例を挙げれば現在47才のわたくしTakemaがNZのワーキングホリデーを今決意できるかといえば‥いや、でもするかな?(全く例になってませんって(大苦笑))。

それはともかく、その人間の「経験」は世代を越えてはなかなか共有できないものなんです。今回の地震を「こんなに強い地震は初めてだった」と感じた人も多いと思いますが(わたしとしては1987の「千葉東方沖地震」のほうがはるかに強かったという感覚です。あの時は木更津で働いてたからなー)、その感覚を「未経験の人たち」に伝えることははなはだ難しいことです。

そしてやがてはその「未経験の人たち」が社会を引っ張る原動力の世代になり、その人なりの「人生経験」に基づいて社会がマネージメントされていくわけです。「歴史から学ぶ」というのは言葉でいうのは簡単でも、実際のところ「真の意味で学べるのかどうか」は各人の自覚にかかっています。人間以外のほとんどの動物たちは「自らの経験こそ全て」であり、世代を越えた知恵の共有は行われていません(せいぜい「お湯に浸かるサル」のレベルですよね)。そしてそのDNAはわれわれ人類もしっかり受け継いでいるのですから‥。

話がすっかり難しくなりましたが、地震しかり、大津波しかり、戦争しかりなのです。これら全てにおいて「知識の共有」ではなく「経験および感覚の共有」が必要なのだと思います。地震についていえば、大規模自治体の消防局が所有している「地震体験車」、あれはもっと大規模に経験させるべき!自分も一度だけ経験しましたが、できれば車ではなく固定施設で、しかも「いつでも経験できる」ようにしてほしいのです。特に小中学生には全員必修で!

さらに話がそれてしまいましたのでここで撤収(笑)。で、歌津まで来たんでしたっけ。

海辺のみならず歌津の集落は壊滅状態でした。コンクリートの土台が並ぶ景色に「かつてここに集落があった」ことをしのぶしかありません。ふと足元に目をやると、色鉛筆の箱が開いた状態で置かれていました。おそらくは震災後に誰かが開いて置いたものなのでしょう。すぐ脇には広口瓶のプラスチック蓋だけが転がっていました。こちらの家の方が梅酒でも造っておられたのでしょうか。いずれにせよ、これがドラマの最終章であるとすれば何とも切ないエピローグです。

しかし、この光景をプロローグとすればどうなのか?そんな「逆転の発想」、すなわち過去を起点に今を見るのではなく現在を起点に未来を見るという思考法こそが今まさに求められているのではないでしょうか?

拙サイトの自己紹介にも書いてありますが、Takemaの座右の銘?は「やってしまった(&起きてしまった)ことはどうあがいてもしょうがない」なのです(これは震災のはるか前から記載していたことです)。大切なのは時計を戻すことなのではなく(そもそも戻せませんが)、時計とともに「いかに進むか」なのだと思います。

今回の地震では物理的にも感覚的にも直接的な被害のなかったTakema&おしんこどんではありますが、いつ何が起きるかはわかりません。

歌津の地名から名をもらったのであろう「ウタちゃんばし」が、津波に耐えてしっかり残っていました(おそらくは沈下橋のように「横方向の面積が少なかった」ことがよかったのでしょう)。この橋について検索していたら、こんなページがヒットしました。その一部を引用させていただきます。
しろうおは、「しらうお」とはまるで違う魚だと知っていますか?海で獲れる鮨ネタの高級魚とは違い、格安で買えます。「躍り食い」は地元ではあまりしま せんが、全国的にはこの部分がクローズアップされています。現在のお祭りでは酢醤油での「躍り食い体験」も開催しているようです。やはり「吸い物」「天ぷ ら」が主流かと思います。地元現地で購入すると驚くほど、生きた「しろうお」を溢れんばかりに販売してくれます。お祭り前後がねらい目と思います。市街地 の「大沼商店」さんか、ウタちゃん橋の下で漁をしている時に、声を掛けて購入する事ができます。
この文章をどう捉えるか。震災前の平和な歌津の1コマを綴った文章といえばそこで終わりですが、ウタちゃんばし恒例の光景はわたしにとってみれば大切な観光資源にも映ります。現在三陸地域の観光は一部を除きほとんど壊滅状態にあると思えますが(あ、そういえば山田町の「牡蠣小屋」が復活しましたね!まだ行ったことはないですが嬉しかった♪)、これまで見過ごされてきた「小さなあたりまえ」が実は都会の人たちにとっては「大きな魅力」にもなるかと思うのです。そんな「魅力ある場」をどんどん発掘していけば、新たな観光産業も集落ごとに育成できていくのではないでしょうか?

さて国道の脇に仮設住宅があるなと思いつつ通過しながらよく見たら、そこは南三陸町の仮庁舎でした。南三陸町といえば「最後まで防災無線放送を続けた女性職員」「防災対策庁舎が屋上まで水に浸かり骨組みだけになった」等々の悲しいニュースで有名になってしまった町です。当日の情景については町のウェブサイト上に公開されています(こちら=PDFファイル)。

3階建ての庁舎の屋上に避難した人は約30人おられたそうですが、助かった方は10人ほど。屋上のフェンスを命の綱とするか、階段の手すりやアンテナを頼りにするかの選択が明暗を分けたようです。しかし、3階建ての屋上を2mも越える高さの津波とは‥



同じように骨組みだけになった建物には「よみがえれ故郷 ふんばれ」と書かれた看板が設置されていました。

海から約400m離れた公立志津川病院。災害時には地域の拠点病院としての働きが期待されていたと思われますが、現実の津波は4階半ばまで達したといいます。そのことを物語るように4階の窓がところどころ破れています。

ここで何が起きたかについてはこのページが詳しいです。あまりにも悲しい現実が詳細にわたって記されています。わたしからは何も申し上げますまい。病院の前に車を止めたときは言葉が出ませんでした。

さて志津川の南でR45は内陸へと進むこととなります。さらに海沿いを進みたいのは山々ですが(ん?言葉的には矛盾してる?)、この時点で15:30、まだ石巻までにも達していませんからショートカットはやむを得ないところなのです。このあたりにも「前半の北海道で時間を使いすぎた」ツケが大いに出ています(苦笑)。

車を走らせていると、追分温泉への看板が出てきました。この宿は未訪問ですが、震災以降2011/8に至るまで被災者の支援避難所として休業中。わたしもこちらで多少なりとものご支援をしています。

本当はこのあたりで宿泊地を決めたいところなのですがここには泊まれません。と、しかしこの先の石巻界隈も復興関係の作業員さんで宿は満室が予想されるわけで、どうしよう今夜の宿?車中泊はいやだなーと思いつつ、右上画像の「道の駅津山」でちょいと休憩&お宿の検索タイムということに。

こちらの道の駅は多くの木工品を販売しているのですが、復興支援も可能?そんなわけで右上画像にも見えているお盆を購入(\4000だったかな?マウスオンで拡大)。ここは内陸の登米市なのですが、周辺の市町村は今後長期にわたって地域全体の支援に回らねばならないはず。いろいろとよろしく御願いしますよ。

さて、R45(旧道)が石巻線と交差する場所で、本数もそれほど多くないと思われる石巻線のディーゼルカーと遭遇!いいタイミングだ!



ごくごく当たり前の風景のはずなのですが、ここまでの「痛々しい鉄路」を見てきただけに新鮮でした。

いよいよ石巻へと入りました。しかしすでに17:00を回っているタイミングでいったいどこへ?となればやはり市内を一望する「日和山」しかないでしょう!というかそこ以外には考えていませんでした(苦笑)。



市内中心部の信号は未だ復旧せずで警察官による誘導が行われていました。そして日和山へ。



日和山(標高56.4m)の頂上には鹿島御児神社が鎮座しており、海側が一望。確かNHKの特集番組もここを拠点に放映していました。

この場所に地元外の「観光客」が多く訪問することがわかっているからか、展望エリアには左上画像のような横断幕がありました。われわれは大したことをできていないのに、ここ三陸エリアで見るのは「報恩」「THANKS」「ありがとう」‥。

みなさーん、津波被災地の生活復興はまさにこれからなんです!是非ともよろしく御願いいたします!赤十字への募金はもういいから、前ページへも書いたように直接的な支援を!

おっと書き忘れました。右上画像に見えている大きな建物は石巻市立病院なのですが(右上画像マウスオンで拡大)、このページを作っている時に各画像を細かくチェックしている時に初めて気付きました!苦難の業務を続けているはずの病院、しかも低層部は津波に被害を受けていることが今でも明白なのに‥。


(左上画像マウスオンで窓に貼られたメッセージ拡大画像に変わります)

山を下ってくると、なぜだか道路はご覧の通りの大渋滞(右上画像マウスオン)。今はどうなっているのかわかりませんがこの交通状況はあまりにも異常でした(見ればわかりますよね)。

ふと思い出したのがあの震災当日、Takemaが千葉県内の浦安や船橋や習志野界隈で深夜にもかかわらず「20mを進むのに20分」。この時の進み具合は同じような感じ‥しかしあの時も裏道GOで何とかなった?となれば、またも裏道で行くしかないか(カーナビの細道表示は役立ちますね)。それにしても先ほど予約した某宿の方が、

とおっしゃっていたのが身にしみます。さすがー。「チェックインは何時でも大丈夫です!」という係員のお姉さんがおられる宿ですから何だか気に入ったというか云々。
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