− 北大東島・南大東島旅行記(2013/2) その5 北大東島1周、まずは西港と燐鉱石貯蔵庫跡、そして今再びの空港寄り道 −



ええっと、ここ、一応港です(西港旧埠頭)。しかし、新旧問わず防波堤などという小洒落た設備は一切なく波がどどどんと‥。

まずはハマユウ荘へと向かいます。最初におぉーと思ったのが宿の方による運転のゆったりさ加減。直進路でもほぼ時速40km/hをキープしながら安全運転を心がける女性ドライバーさんに「これがこの島のデフォルトなのだな」と心しました。というのはこのあと宿のレンタカーを借りる予定でしたので‥
なおネット上には「個人所有の車を借りて云々」という北大東島情報も散見されましたが、少なくともハマユウ荘に関する限り現在はそういうことはありません。ちゃんと「わ」ナンバーのレンタカー登録車両を正規の手続きで借りることになります。料金はお高めですがここは離島、割り切りましょう。ちなみに満タン返しが原則ですが、日曜日に借りるとGSが開いていないので「1km=25円」の計算で走行距離に応じて支払うことになります(2013/2現在)。

さて、部屋は‥うわーこれはすごいというか、総人口650人ちょいの村の施設とは思えない豪華さです。ちなみにWiFiはレセプション付近でOKですが、各部屋では有線LANにより安定したネット接続が可能です(全室OKなのかは未確認)。LANケーブル、やっぱり持ってきてよかったぁ。

TVも安定して「沖縄の」番組が見られます。なんで「」を付けたかというと、しばらく前までは本島と島を結ぶ海底ケーブルがなく、やむなく衛星利用による小笠原向けの電波を利用していたため「沖縄県にいながらも番組は関東(東京)のものをそのまま放映」していたのだとか。そのため沖縄ベースの放送に切り替えてからしばらくは「これまで見られていた番組が見られない」「再放送ばっかり」との苦情があったとか何だとか。そりゃそうだよなー。

なお宿の全景画像等は翌朝に回すとしますが、こちらは実は27室もある大規模な宿で、(株)黄金山さんの経営ということになっていますが、たぶんいろいろなルートで村からのバックアップもあるのかなぁと。もちろん村の数少ない観光関連施設なのですからそれはそれで云々でヨロシイかと思いますが。

ちなみに正直いって「村の規模にすると似つかわしくない」ほど立派なこのハマユウ荘ですが、聞きかじった話によると国内農業保護のための補助金が原資だったとか?(ミスソースだったらごめんなさい、ちなみに沖縄県内での「別の島での建設計画がポシャったので北大東村が手を挙げた」結果作られた施設との話もありました)。いずれにせよ、村および村内の個人や法人が自主財源により一から作りあげたとは思えないのは確かです。村の公式サイトでも(民宿)二六荘さん同様いわば「村の施設」の1つとして紹介されていますしね。

そして宿泊施設のみならず、併設の「レストランはまゆう」は島の社交場として22:00まで営業していますし(実際地元の方々が昼も夜も利用なさっているようでした=特に夜は団体で)、「大浴場」は銭湯代わりに利用されているようでもありました。そう、南北大東島の一般的な水道水は全て「海水の淡水化」なので、水道料金も高いです。2月の寒いこの時期に「湯に浸かってあったまる」コストは結構高くつくのでしょうから、この冬の時期だけこちらの大浴場を利用する地元の方がおられるのかも。

なおレストラン閉店後はレセプション脇のソフトドリンク自販機が唯一の「お飲み物販売」の手段となります(右上画像マウスオン)。え、何が言いたいかって?「ソフトですよソフトドリンク!」。そう、営業時間外にビールその他のアルコール飲料は手に入れられませーん!健全なる北大東島のナイトタイム環境維持にご協力下さいませ!それがいやなら(喧嘩売るのか?)どこぞのルートから仕入れて下さい!(ま、レストランでボトルを買っておけば問題なしです。なお重要情報として‥

これさえあれば泡盛や焼酎その他飲料をロックで楽しめます!あ、飲んべさん限定の情報ですね(笑)。ちなみにこの日の夜現在製氷機内の氷は角がしっかりある「新しい氷」でしたんで、おそらくは工事関係で宿泊されている方々が普通に利用されておられるのかと。なおこの界隈には有料ながら洗濯機も乾燥機もあり自由に利用可能です。

このあとはレンタカー(オートマ軽自動車TANTO)を借り出して、暗くなる前に一通り島を走ってみましょ。明日また似たようなルートを走ると思いますが(なんたって島は周囲13.52kmしかないのですから)。では行ってみましょ。

郵便局からずんずん降りていくと西港に到着です。ここはフェリーだいとうの発着地点でもあるのですが、旧港はものすごく岸壁が高いです。どれくらい高いかというと‥



フェリーだいとうはすぐ隣の新港で荷物の上げ下ろしをしていますのでここは使っていませんが、なによこのとてつもなさ(苦笑)。実はこちら、かつて戦前に燐鉱石を産出していた時の積み出し施設なのです。かつてこの岸壁の上には積み出し用のクレーンやコンベアその他があったはず。またそもそも鉱石は沖合に停泊する本船まで艀(はしけ)で搬入されていたようで、この岸壁に本船が着岸していたわけではありません。

さてこの西港ですが、実はもともとは燐鉱石の積み出し港として整備されたものらしく、周辺にはその遺構が数多く残っています。いわゆる産業遺産ですね。特に立ち入り禁止等の措置もとられていなかったので、危険がアブナイ系の自己責任で奥に進んでみました。

まずは貯蔵庫跡と思われるトンネルへと下りてみます。何だか風雲たけし城だかドリフターズのセットみたいに足場が悪い場所ですので慎重に‥もっとも、廃炭鉱の坑道跡みたいにやや無気味な場所じゃないし、ここで何十人が命を落としたとかの暗い歴史を持つわけでもないですから(たぶん)ある種気は楽です。



なぜにこのような規則性をもって崩落したのでしょう?もっとも、奥の方の通路を見るとがれきの量が妙に少ないのが気になります。案外人工的に壊したのかもしれませんが、だとしたら「なぜこんな中途半端に壊すか?」という新たな疑問が生じてきます。要は「わけわかんね」という結論にしか行き着かないというわけです(意味なし芳一)。

さてそれでは、そそり立つ壁をトンネルでくぐり抜けて反対側に行ってみましょう。

というわけで反対側に出てきました。上部はかなり崩落が進んでいて、右上画像のTakemaの立ち位置あたりは一番危険がちょっと一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハシゴ酒状態の場所ですので気をつけましょう(やんわりスルーしてね)。

トンネル出口の先には広場がありましたので、今度は広場側からそそり立つ壁を見上げてみましょう。



上画像の一番左側がいま通ってきたトンネルです。奥の方には同じ形状のトンネルが見えてます。あっちはどんな感じになっているのかと思って入り口から中をのぞいてみると‥


こちらはトンネルの崩落もなく向こう側までちゃんと続いています。でも足下は悪いようだし暗いので足を踏み入れるのは断念しました(廃墟ファンの人なら「あり得ん!」と激怒なさることでしょうがトーシロなのでなにとぞお許しを)。で、広場の端っこには「暇な観光客がここまで来ることを見越した」説明板がありました。これにはちょっとびっくり。だって、港側には何一つ看板もないし、トンネルを通らずに来る場合も歩道は整備されておらず凸凹の岩盤の上を歩いてくるしかないんですよ。というわけで‥



ちなみに「観光担当諸氏」と記載したのは、北大東村の役場組織には「観光課」とか「観光商工課」とか、観光という冠の付く分掌がないらしいからです。観光関係を担当するのは経済課長傘下の「農事係」なのだそうで‥。観光に対する力の入れ具合がわかるなー。

そうそう、考えてみればこの燐鉱石貯蔵庫跡についての歴史的経緯について全然説明していませんでしたっけ。こういうのは本来最初の方で説明しておくべきだったんですがすっかり忘れていてびっくりドンキー!というわけで、この説明板に書かれていた内容&当時の画像等を以下に紹介&掲示します。

【北大東島、燐鉱石採掘事業の歴史】(要約というかアレンジ)

南北大東島の開拓事業に携わった玉置商会(From 八丈島)は南で甘藷(サツマイモ)、北では燐鉱石の採掘を手がけたが、鉱石採掘は失敗に終わる。その後、沖大東島でラサ工業が燐鉱石採掘を軌道に乗せたことから(第一次世界大戦の影響で燐鉱石の価格が暴騰していた)、玉置商会から事業を引き継いだ東洋精糖が沖大東島の運営方法を学び、再び北大東での燐鉱石採掘を開始した。

採掘事業は軌道に乗り、最盛期に島の総人口は約2,700人にまで増加した。北大東の燐鉱石は含有成分が有用だったので重用されたが、終戦後島を接収したアメリカ軍が大規模な機械を用いた採掘に切り替えると、それまでの手掘りでは入らなかった石や土の混入が多くなり品質が低下。昭和25年(1950年)にこの島の燐鉱石採掘は幕を閉じた。

なるほどそういうことですか。ということはこの遺構は60年以上前からそのまま放置されているというわけですね(それにしても現在の村の人口が600人に満たないのに、2,700人って‥水の問題はどうだったんだろう?海水の淡水化装置なんて当然なかっただろうし)。で、当時の画像を見てみると‥



ページ上部に載せていた画像と見比べてみれば、同じ形状のトンネル入り口がわかると思います。あのトンネル内にはトロッコ線路が走っていたのです。鉄道なしの沖縄県と長らく言われていましたが、今はモノ「レール」のゆいレールがあります。でも1970年代まではお隣の南大東島にサトウキビ積み出し用のトロッコ路線があった(わずかに遺構もあり)ということは一部の鉄ちゃんには有名な話。でも第二次大戦以前、すでにここ北大東島にはレールがあったというわけです。ただしここから港まではほんの200mあるかないかの距離で、これを「鉄道」と言えるのかどうかも微妙ですし、今やレールの残骸も見つけられませんでしたが。

ちなみに燐鉱石は採掘後いろいろな過程の中で乾燥が必須だったようです。それでわかりました、何でトンネル内が鉱石の保管所になっていたのか。要は「濡らしちゃダメなのよ」ということだったんですね。



海(港)まではごらんの通りの距離。それにしても立ち入りに一切規制がないのはある種今の日本離れしていて好感。
ちなみにこのページ上部で「旧港の岸壁はむやみに高い」と書きましたが、これもどうやら当時の搬出事情が絡んでいたようです。次の画像をご覧下さい。



上画像の右側写真では端っこに人が立っています。ここがおそらくこのページ上方でTakema&おしんこどんが立っていたりジャンプしていた場所でしょう。で、あの場所には当時跳ね上げ式のせり出しステージが設置されており、ここまで運ばれてきた燐鉱石はこのステージから出荷され、艀により沖合に停泊する本船まで運ばれていたというのです。

でも、あんな高さから大量の石を投入されて、艀の船底は大丈夫だったのか?と今さら全く無意味な心配をしちゃうんですが、まぁ「じょうごホース」とやらが落下スピードを抑制していたのだと思うことにしておきましょう。

そんなこんなで車に戻り、ここから駆け足で島を一周します。そもそも北大東島に到着したのが15:10、そこから宿にチェックインして車を借りて出発したのは16:00くらいでしたが、ほぼ宮崎と同じ経度=東日本に比べて日没が遅いのと、島の大きさが周囲13.52kmしかないので十分何とかなるというわけです。

ハマユウ荘にはレンタサイクルもありますが、島内は坂が多く自転車には不向きかも。なお天気がよければ原付のレンタルもあります。少なくともハマユウ荘では3台確保しているようです。

ちなみになぜ今回原付とはいえバイクではなく車を借りたかといえば、お天気が心配だったのと(予報では曇り時々雨)、おしんこどんは単独で原付を運転したことがほぼなく、不慣れな運転による事故を懸念したからです。2人乗りOKのピンクナンバーバイクがレンタルできればまず間違いなくそれを借りたはずですが、なかったからしょうがない(予約前にもバイクの排気量については確認しました)。

以上北大東島でのレンタル事情を紹介しましたが、そろそろ周回路に戻りましょう。右上画像では右側に小高い丘が続いていますが、実はこれ、巨大な「人工の丘」なのです(大きなショベルカーが見えていることからもそれと知れます)。ではこの土というか岩や土砂はどこから?その答えはこのページの下の方で出てきます。


北港への接続道路は閉鎖されていましたのでやむなくパスし内陸へ。そのままあえて農道を進んでいきます。この島のすごいところは、明らかに営農車両しか通らないだろうと思われるような道も基本的にはほぼ全て舗装されているというところ。そもそも離島ゆえのインフラ整備は「いざという時」に備えればならず多額の公共投資によりまかなわれねばならない宿命なのですが、この舗装はちょっと羨ましすぎるかも知れません。ま、同じことは北海道にも言えたりします。

上の方で村民所得のことを書きましたが、公共事業による建設業の盛業がサトウキビ生産以上に村を支えているようです(たぶん南大東村も同様)。裏返せば公共事業なしには村は成り立たないということでしょう。でも、公共事業の誘致に力を入れるあまり、そして「離島振興」の旗印のもとではC/P比はあまり考えられていないような気もします(これも、南北大東島に限ったことではありませんが)。ちなみにこのあと、道や空港の整備に続いての某大規模公共事業を目の当たりにすることになりました(次ページで詳述)。

北大東島は南大東島よりも小さな島ですが、サトウキビ栽培の大規模経営化が進み、沖縄県全体のサトウキビ農家の営農面積が0.7haなのに対し北大東島のそれは驚くなかれ5.23ha!日本全体の稲作農家の平均営農面積が1haで、これを大規模集約しようと政府や行政が躍起になっている中、周囲がたった18kmちょいしかない島で5.23ha/戸というのはすごいです。

これはそもそもこの島全体が「会社所有」であったことにより、その後の土地の所有権がとてもシンプルであったことと無縁ではないでしょう。というか、戦前の南北大東島では日本円(旧円)の代わりに玉置商会が発行する通称大東島紙幣(正式には「南北大東島通用引換券」)が流通していたというのですから、ある種日本であって日本じゃない世界だったわけです。

そんなわけでこの島のサトウキビ畑は広い!広いけれど人がいない!(笑)。ただしわれわれの訪問した時期(2-3月)はラッキーなことにちょうど刈り取り&搾乳、いや違った搾汁の時期だったので、この翌日には巨大なマシンによる刈り取り風景を眺めることができました。それ以外の時期だったら本当に畑に人がいないんじゃないかと思われます(笑)。

島を半周時計回りに回ってきたところで空港に戻ってきました(到着時から送迎は内陸を直行したので同じルートではありません)。ただ北大東空港は1日1便しかないのでもう閉鎖されているかと思っていたら、まだ開放されていました。どうやらこちらのターミナル、離発着時以外には飛行機の予約オフィスおよび「公衆トイレとしての重要な使命」を担っているようです(本当のところはどうなのかな?)。

空港のエプロンっていうんだっけとにかく駐機場はまぁ見事に開放的というか何もありません(笑)。ここまで何もないと何だか潔いなー。で、入り口付近のガラスには「さもありなん」系の掲示が。本当はこんな掲示が不要であるべきなんですけれどね。でもこの翌日ちらちらと駐車車両を見てみたら‥

残り半周はまだいろいろとあるのですが、さらに長くなるのでこのあたりでいったんページの区切りといたしましょう。

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