− 北大東島・南大東島旅行記(2013/2) その6 北大東島1周(の続き)&夕ごはん−


続いては秋葉神社にやってきました。駐車場からの参道沿いにはハイビスカスが咲いていました。でも結構寒いんですよ。この日の気温は、南大東島の気象台発表によると「最低気温こそ14度あったものの、日中の最高気温は16度」と、2013年になってからの最低気温を記録したほどです。よりによって「南の島の一番寒い日」に当たっちゃったわけですね(笑)。


甘い香りのする木花も咲いていました。これ何て木なのかなと思って検索してみたんですが、たぶん「海桐花(とべら)」じゃないかなと。暖地に自生するそうですが、調べてみると東京界隈にも生えているというか街路樹として植えられてもいるらしいです。

 

さて大東諸島は開拓の歴史からしてあまり沖縄らしさを感じないということは前にも書いたような気がしますが、こちらの広場には土俵がありました(しかしなぜか俵が外されていましたが=左上画像マウスオン)。

沖縄には琉球王朝時代から続く「沖縄相撲」という競技がありますが、試合では柔道着のような競技服を着用し、立ち会いはなくお互いが組み合った状態から始める等々、内地の相撲とは大きな違いがあります。しかし「大東島 相撲」というキーワードで検索すると、出てくる画像の多くはまわしを締め込んだ内地スタイルです。このあたりにもご先祖さんから受け継いだ文化が息づいているのかな?

なお、たとえば南大東島では普通の相撲と沖縄相撲の両方で大会が行われているらしく、その場合普通の相撲は「江戸相撲」と名付けられているようです。「東京」ではなく「江戸」であるところが粋ですね。あ、でもそれなら沖縄相撲だって「琉球相撲」のほうがいいんじゃないかという気がするんですがどうだろう‥。

 

ここ秋葉神社は神主さんのいないお社ですし、拝殿も小さいです。しめ縄から吊された紙垂(しで)の長さはだいたい30-40cmくらいだったので、全面の扉の小ささが想像できると思います。面白かったのはその扉に付いている鍵で、いわゆる家庭の扉に付いているものと同じなんです。それだけ物騒ということなのか?それとも、扉が普通に開く構造のままだと台風の時などに大変だからなのかな?(後者と思うようにしました)。

お賽銭箱は正面ではなく脇に置かれているのも面白いところ(左上画像の手前右側にステンレス製の箱の一部が見えています)。というわけで二礼二拍手一礼で参拝完了、さて次へ行きましょう(ちなみに北大東島の一の宮という位置づけの「大東宮」には結局参拝しませんでした。思いつき行動だからなー)。

 

続いてやって来たのはその名も「沖縄海(おきなわうみ)」。ここ北大東島だって沖縄県なのになぜこんな名前が付いているのかというと‥


海に囲まれた離島なのに泳げる場所がここしかないというのは何とも皮肉な話ですがしょうがない。もちろんこの時期は泳げる水温ではありませんが、この日は海も荒れており、右上画像のプール部分にも容赦なく波が入り込んでおりました。

ちなみに第二次大戦時、米軍はもちろん大東諸島も攻撃対象にしていたわけですが、くだんの地形により米軍も舟艇による上陸行動は無理という結論に達し、艦砲射撃を行ったのだということです。なおこのことについては南大東島編の方でもう少し詳しく書くことにします。

 

沖縄海のすぐ上には、沖縄県最東端のモニュメントがありました(厳密にはここより少し北側らしいですが)。沖縄県で一番早く朝日が上がる場所‥でもイマイチインパクトに欠けるような気がします(笑)。なおこのモニュメントは日時計その他も兼ねているようですが、いずれにせよこの日の天気じゃ無意味ですね。雨がポツポツとぱらつきましたが傘を差すほどのことはなし。


続いては、フェリーだいとうの就航する江崎港へ。ここと西港とで条件のいい港に入るそうですが、北西の季節風が入ることが多い西港はこの冬の時期にはあまり使われていないようです。で、こちらは西港の旧港のようにとてつもなく高い岸壁ではなくまぁそこそこです(左上画像マウスオン)。でも、右上画像にはもやい綱で船を岸壁に固定(係船)するための係船柱がいくつも写っていますが、これが使われたことはあるんでしょうか?

これまた前にも書きましたが、江崎港にしろ西港にしろ、港=ダイレクトに外洋であるこの島の港では係船にかなりの困難というか危険を伴います(その方面については完全に素人なので「たぶんね」という言い訳付きですが)。よってフェリーは岸壁近くに一定の距離を置いて停泊し、荷物の上げ下ろしは港にあるクレーン車を使うというわけです。人間だって「積載物」ですから荷物です。このあたりについては「大東島 クレーン」等のキーワードで検索すれば、そのワイルドさにときめくはずです(笑)。

あ、この日はフェリーが来る日でもないのでクレーン車は一段上の広場でお休み中でした(右上画像マウスオン)。

それにしても、このクレーン車はどうやって陸揚げしたんでしょうね。分解して陸揚げし再度地上で組み上げた?いやまさかそんなはずはないな、それだけの大規模工場もないし‥。おそらくは大型のクレーンを装備した船が陸揚げしたんでしょう。何せ、港の深度だけはたっぷりありそうですから(笑)。ちなみに南北大東島の距離は最短で10kmもないにもかかわらず、その間の海底は水深1,200mもあるそうなのですから。

さて、この江崎港から西港に向かって進んでいくと、そこには「とてつもない規模」の工事現場がありました!


看板には「掘削工事中」とありますが、この工事、水道管やガス管を埋設するために道路を掘り返しますよ系の土木工事とはわけが違います。「とてつもない規模」って書いたでしょ、実はこの先で行われているのは‥




見てくださいこの規模!とてつもない広さで掘り起こされております。

とはいっても静止画だけじゃインパクトが伝わらないかもということで、もちろん動画も用意してありますよん!

「北大東島の漁港新設工事」

あまりの規模の大きさに唖然。

ええっとですね、動画を見る限りまずパワーショベルで地道に削岩作業を行い、そこで砕いた礫(れき)をショベルでダンプに積み込むという手順のようですね。しかしこれ、この深さまで掘り進めるのにいったいどれだけの手間と時間をかけたんでしょうか?(もっとも工事標識には工事開始期間がH24/7-と掲示されていたので、そんな長い期間ではない?ま、発破をメインに作業すれば結構早いのかも知れませんが)。

ちなみにこれと同様の工事がお隣の南大東島でも行われたのですが(あちらは完工済み)、港とは別の某所を案内してくださったガイドの東和明さんによると、これほど大規模な(しかも両大東島初の「天然の防波堤付き港」であるにもかかわらず)‥


そのヒントはすでに動画のタイトル部分にも示しているんですがお気づきになりました?この事業は「北大東漁港の新設」なんです(事業の正式名称は「南大東漁港(北大東地区)掘削工事(24-1)」ですが)。

あくまで漁港として整備しているのでフェリーのような大型船の入港は出来ない、よってフェリーは今まで通り‥ということのようです。上記ガイドの東さんはそのことをごく普通に受け止めておられたようですが、わたしはやっぱり心中天の網島、いや違ったやっぱり心中納得できない部分があります。これはおそらく農水省絡みの補助金による事業であり、もし港にフェリーも入れるとなると国交省とのせめぎ合いがあるんだろうとのくそったれ縦割り大弊害を含めての文句苦情オブジェクションだと思ってください。それは‥


ということなのです。現地の事情を何も知らないTakemaの勝手な遠吠えなんですが、これだけの事業規模(&予算)で中途半端な整備をするくらいなら、もっとお金がかかってもいいから多目的に使える公的施設をと思うのですが‥国県道と広域農道とか、日本はこのあたりの無駄を排除しなければダメ!もう無駄な二重予算配分をやっている余裕がない国なんですから!

以上、遠吠え終了です(苦笑)。そんなわけでいよいよ島内一周の最終章へと進みましょう(とはいってもまだ2ヶ所に寄り道しますが)。

 

いきなりお墓のような石塔が出てきましたが、こちらは八丈島から移住して南北大東島を開拓した玉置半右衛門氏の顕彰碑です。確かにこの人なしに現在の大東諸島の繁栄はなかったでしょう。ただしこの方の南方事業によりアホウドリが激減したそうで‥(でもそれを今の価値観で批判するつもりはありません。わたしゃエンドウマメでも海の犬でもどこかの国の政府でもなく、「今の(自分の)価値観」で他人の過去または現在の行為を評価してあーだこーだ言ったり行動したりする輩は「大嫌い」ですので。

ただ玉置氏の息子たちはドラ系だったらしく(ドラえもんじゃないよドラ○子のほうね)、それが半右衛門氏と行動をともにしてきた方々にとって残念な結果となったことは悲しいですね。あ、今でもあるかオーナー企業で(苦笑)。

そうこうしているうちさすがに暗くなってきました。この日最後の訪問地は「北大東島灯台」です。



ごらんのように灯台点灯。ほぼ直下で見ることってあまりないですよね。
 
灯台は無人で自動点灯しています(というか、2006年長崎県女島灯台の無人化により日本国内において有人灯台は皆無)。そしてそのすぐ足下には「灯台もと暗し」じゃないですがひっそりと戦争の遺構がありました。

 

第二次大戦時、ここ北大東島には1000名を超える日本軍の守備隊が駐屯したそうです。上で書いたように米軍は艦砲射撃や航空機による爆撃などの攻撃を仕掛けてきましたが上陸はせず、また飛行場のあった南大東島に比べて北大東島への攻撃頻度は低かったようです。

しかし守備隊や島に残った住民たちを苦しめたのは戦闘そのものよりも食料にあったといいます。外部からの物資補給が全く望めない中で、畑なども擬装のため雑草を生やしたりしていたため、食べ物の調達がかなり困難だったようです。

右上画像にマウスオンすると壕の内部に放置された当時の何かの機材?を見ることができますが、これ以外に戦争当時を彷彿とさせる遺構は見られませんでした。別の意味での「遺構」は、南大東島で見ることとなりましたが‥。

 
 
さて灯台に灯もともったことだしそろそろ日没タイムアウトということでハマユウ荘に戻ってきました。と、ここで部屋に戻りながら食堂の方に目をやると‥



右上画像の通り、食堂棟のすぐ裏手の山上に灯台の灯が見えています。もっと暗くなるとこんな感じです(右上画像マウスオン)。というわけでしばし部屋で休息の上で夕食をいただきに参りましょう。


チェックイン時に夕朝食券をもらっていますのでそれをお渡しすれば注文終了というわけですが、食堂内には他にも多くのメニュー表が掲示されています。というのも、こちらの「レストラン はまゆう」は宿泊客以外に地元(および工事等で島に滞在している)方々のお食事処兼居酒屋としても利用されているからです。

というか、ここ北大東島で自由に利用可能なお食事処はここ1軒しかありません。厳密にいえば空港施設の2Fに喫茶店がありますが、営業時間は飛行機が発着する前後の時間(公式には15:00-17:00)だけですから一般の利用はなかなか厳しかったりします。

食堂の隅にはボトルキープされている泡盛もありましたし、少し離れた席には地元の方々が10人近くで夕食兼飲み会をなさっておりましてそこそこ盛業中。

ところでわれわれの夕食ですが、「500円の追加料金で白いご飯を大東寿司に変更できますよ(もちろんお寿司+ご飯もOK)」とのことでしたので、1人分だけを大東寿司に変えてもらいました。待つことしばしで、やってきました大東寿司付き夕ごはんっ!



このお寿司のルーツはこれまた伊豆諸島にあります。八丈島からの移民の方々により、ここ大東諸島でもいわゆる「島寿司」の食文化がそのまま定着したというわけです。そういえば以前新島で島寿司を食べましたが、その時のページを見直してみると(こちら)、ちょっと違った感じです。やっぱり八丈島に行って食べ比べてみる必要がありそうです(笑)。

 

泡盛の水割りジョッキ片手にパクパクと。水割りのおかわりを注文したら従業員さんが間違って生ビールを注いでしまい、そのビールは結果的にお隣の席の男性のもとにラッキーサービスとしてサーブされたというのはここだけのヒミツです(笑)。

そんなわけでお腹がいっぱいになったあとはしばし休憩‥でも何だかうすら寒いなぁ(何たってこの日は今冬で1番寒い日でしたからね)。こんな時は‥うん、湯に浸かりに行きましょう!

 

このお湯の泉質は「元食塩泉」というべきなのか、要は海水を淡水濾過した水道水です(笑)。今の一時期を除けばぐっと温暖な島ですし、水道料金が高いこの島では湯に浸かるという習慣はあまりないようにも思われますが、この日はやっぱり湯ったりしたかったのでよかったぁ。

 

このあとは部屋飲み用に氷を仕入れてきてへやでのんびり。そんなわけで大東島での1日目は静かに更けていったのでありましたとさ。

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