− 2013/3 八丈島&青ヶ島編 その12 八丈島を拾遺的にぐるぐると(2)−



何とも立派な玉石垣の道が続く場所も。

さて翌朝となりましたが、夜半には風雨(特に風)が強まり、しっかり閉めたサッシの隙間から風切り音がピープーパーと甲高く響くほどの荒れ模様となりました。明け方にはおさまってきたので特段問題はなかったのですが、あれが日中じゃなくてよかったぁ。ちなみに地元の人同士の会話でも「昨晩はすごかったねぇ、台風みたいだったもんね」という感じだったので‥


そんなわけで一夜明けた八丈島大賀郷の朝、まだ風は多少強いですが雨はやみましたんで、母屋の食堂へ(こちら「ペンション大吉丸」さんは朝食付き宿泊がデフォルトです)。

さてこんなお天気ですからこの日の竹芝行きフェリーは欠航。何でも昨晩のフェリーは大島まで来たところで(着岸したかどうかは不明)竹芝に戻ったそうなのです。となればこの日のうちにその帰り便で次なる目的地三宅島まで北上することは不可能、いやヘリに空席があれば可能なのかも知れませんが予約はしていないし、それに八丈島観光の「大物」をまだクリアしていませんから「まだ北上しちゃダメ」なのでありますよ。

そうなるであろうことは前日のうちに察知していましたのですでにモービルの格安レンタカー(軽が1日3000円)を予約しており、そのお迎え便が8:30にやってくるはずです。で、そうなると泊まりはどうするどこにする?

昨日までの島内巡りでいくつもの宿の外観&雰囲気をいろいろ眺めてきたわれわれ(というかTakema)‥で、出した結論をもとにこちらの宿の方にお願いした次第です。それは‥


ということでありました。ハイ察しのいい方々ならおわかりですね。こちらの宿は「ペンション大吉丸」ですから親戚関係にあるお宿なのでありますよ。さらに記憶力のある方であれば昨日の夕食を食べたのが「居酒屋大吉丸」であったことも覚えていらっしゃるでしょう。つまりは‥


(「観光客が‥」と書いたのは、そのほかに仕出し弁当屋さん等があるからなのです。でも仕出しは無理だって(笑))。

電話をしていただき宿泊は無事OKとのこと、よーしそれでは今日もうろうろとしましょうかぁ!そんなわけでまず最初は「正しき観光スポット」である八丈島歴史民俗資料館へと向かいます。


こちらの民俗資料館は木造平屋建てで結構年季の入った建物です。聞けば「皆さんが『元々は学校か何かだったのですか?』とおっしゃいますが、実は旧八丈支庁の建物だったのですよ」とのこと。でもちなみに「支庁」といわれても全然ピンとこないのが千葉県民たるTakemaでありまして、調べてみると東京都の出先機関としてたとえばパスポートの発行とかビジターセンターの管理、さらには鳥島等無人島に関する維持管理業務を行っているのだとか。

展示資料はかなり細かくて面白いです。おしんこどんは仕事柄?土器とかをしげしげと眺めていましたが、Takemaの興味はやはり時代劇で‥


というのが定番だった「八丈島=流人の島」という固定的イメージの検証にほかなりません(笑)。だって、その昔時代劇がTV番組の重鎮サンダーライガーであった頃、何かといえば島送りにされていた流人の島八丈島はいったいどんな感じだったのか気になります。犯罪者が多く住むすさんだ島だったのか?で、資料の説明を読んでいくうちにまずは興味深い内容に行き当たりました。

まず最初の流人は関ヶ原の戦いにて西軍の武将として敗北した宇喜多秀家およびその周縁であり、秀家はこの島で生涯を全うしましたがその家族らはその後現在の東京都板橋界隈に戻り、一介の農民として生活を始めたということです。

そのあと、江戸期に入ってからの流人記録も掲示されています。1606年−1869年の記録ということですが、それによると‥


流人総計でも263年間で1755人。1年あたり6.67人というのは予想外に少ない数字でした(時代劇だともっと頻繁な島送りなので=特に捕物帖系)。あと、実は御家人や僧、さらには技術を持った職人がどういう理由かわかりませんが流されてきており、その関係で八丈島には職人の技が伝わり受け継がれたそうなのです。たとえば島酒たる芋焼酎もその製法は流人丹州庄右衛門が伝えたということですし。そして流人と島の人々との関係も悪くはなかったようです。というのも‥


なるほどねー、重罪人は送られてこなかったのか。なお中にはご赦免船が来ても帰らない流人もいたのだとか(島で結婚していたりもあり)。

その一方で、八丈に渡ってからの生活態度および行動に問題があった流人は八丈小島さらには青ヶ島まで「流罪の流罪」になったともいいます。そもそもなぜ遠流の島が八丈島に定まったのかといえば、そこには江戸からの距離のみにあらずある地理学的理由が存在しました。それは「八丈島と三宅島の間には黒潮が流れているため、『島抜け(脱走)』しようとしても北上は出来ず東に流されるばかりで事実上本土に戻ることはほぼ不可能」ということ。いわば天然の柵に囲われているのがここ八丈島だったというわけです。

なお八丈小島と八丈島は距離的には近いのですが、この間を強い海流が流れていることから少なくとも手漕ぎの船などで渡りきることはこれまたほぼ困難に近いという事情があったようです。なるほどそれで「流罪の流罪」になった人が小島行きになったわけですね。


でも、当時にあってのエリート層であった武士階級出身の流人が多かったことが、実際の八丈の生活(知的な部分を含めての)レベルを上げたであろうことは想像に難くありません。読み書きができ学問を学ぶということは決して机上論のものではなく、ここでは学問を通して培った「知恵」として実生活に生かされていたのだろうと思うのです。上画像にある島酒だってそうですし、


上画像の穀物倉(再現施設ですが)に見られるネズミ返しだって今のわれわれが見ればあたりまえですが、実際のところこのアイデアがゼロの状態からこの造作を作り出すまでには相当の年月と試行錯誤が必要なはずです。でも、一定の学問を身につけた人はそれほど時間もかけずにこれが造れてしまうというわけです。というか、学問ってのはたぶん「そういう対応力を身につける」ためにあると思うんですよ昔も今も(笑)。


というわけで結構時間をかけて館内を見学してきました。で、専用出口から外に出てみてびっくり!だって‥


(Takema世代以上じゃないとわからないですねFUって(苦笑))。

もっともまだ風は強めでしたし時折大きな雲が結構な勢いで上空をすっ飛んでいく状況ではありましたが、うん、天候は明らかに回復傾向にありますぞというわけで次の訪問地はすぐ近くにある玉石垣エリアです。


しかし最初は道を間違えて資料館の裏側をぐるりと回る苔むしたエリア(左上画像)へと入り込んでしまいました(苦笑)。で、いったん都道まで戻り少し先を進むと玉石垣が続く脇道があったのでそこを左折し写真撮影‥おっと、何やら取材陣とおぼしき方々(三脚付き大判カメラを構えてる)がやって来たのでそこそこ写真を撮った上でそこから移動してさらに進むと‥

おお、さっきの所よりさらに風情のあるエリアにやってきました。右上画像だけでもいい感じの風情ですが、マウスオンすると「芸術的なカーブを描く」画像に変わります。うっはーこりゃスゴイと思いつつパシャパシャしていたら‥あれま、先ほどの取材陣が「お、そこいいね」とか何とか言いながら近づいて来られたのでハイハイハイどうぞと退散(笑)。いや別に追い出された感は全くありませんでしたけれどね。

それにしてもこれだけの玉石垣があるということは、このエリアが島の中でもある種特殊な場所であることを意味します。青ヶ島編で東台所神社ほかの神域にしか玉石階段がないということを書きましたが、それと同じ理屈で考えればわかることです。そしてその真実はといえば‥。

先ほどの資料館が旧八丈支庁舎であるということは上に書きました。でも、その支庁舎時代を含めこのあたりは380年ものあいだ島の政治や行政(たぶん司法も)の中心地だったのです。いわば三権分立の三権が全てここに集まっていたのですから、「八丈島の霞ヶ関」たるこの場所が他地域との差異化を図るべく玉石垣でデコレートされたというのはあまりにもわかりやすい設置理由であると思われます。

なお、この玉石垣の積み技術も流人によってもたらされたものなのだそうで、もうそうなると「流人」というよりは「技術指導者」という感じですね(左上画像マウスオン)。その昔の時代劇では「遠島を申しつける!」でオシマイでしたが、その続編を「八丈島からの視点」でリメークして作ってくれたら面白いだろうになぁ(ま、視聴率は取りにくいでしょうが)。

あ、ここを出発する前に観光協会の方が翌日から始まる「フリージアまつりスタンプラリー」のエントリーシートを搬入なさいました。正式には明日からスタートなのですが、とりあえずシートをいただけたのでまずはこちらでペタリ。これ以降新たなタスクとしての「スタンプバトル」が始まりました(笑)。

さてこのあとは大坂トンネルを越えてTakemaの内面的欲求を満足すべく外面を湯に浸しに向かいます。そう、樫立地区にある「ふれあいの湯」への訪問です(右上画像マウスオン)。八丈島内にはそれぞれひらがなで「ふれあい」「やすらぎ」「みはらし」の3つの公衆浴場があるのでややこしいのではありますが、ここ「ふれあい」は島内中心部から一番近いので一番混むという情報でしたので、ぜひとも午前中のうちにということで11:00過ぎに訪問したわけです(オープンは10:00なので1番湯の方々は上がったあとだろうと推察)。

で、まずはこちらのスタンプをぺたりとした上でいざ脱衣場へ。ほほー先客さんはお2人の様子、しかも話し声が聞こえるということはお2人とも内風呂滞在中‥ということで、内風呂でかけ湯&肝心系部位を洗い流した上で‥





正式名称「樫立向里温泉」の笹濁りの湯はこちらもしっかり食塩泉、苦みもそこそこありますが末吉の「みはらしの湯」ほどではありません(というかあそこの湯はかなり苦ーい)。露天風呂の湯縁に玉石が並べられているのには好感が持てます。それだけこの湯を大切に思っている島の人(および設計士さん)の思いがよーく伝わってきますよね(ただし上がり口が御影石系なのは安全施工でこれまたヨロシイ)。


撮影するとどうしても濃い目に写ってしまいますが、実際の濁り方は右上画像のような感じです。何とか浴槽底の足先がぼんやりと確認できる程度の濁り方といえるでしょう。なお露天湯の方がぬるめでしたが、時々ある「露天湯=内風呂のオーバーフローを利用」というわけではなくちゃんと新鮮湯をかけ流していましたので安全安心です(右上画像マウスオン)。

続いては内風呂へと移動しました。先客さんはカラン側におられたので撮影許可を得て浴槽側のみの撮影です。いやぁ人が少ない時間でヨカッタ(結局自分が出るまで次のお客さんは来ませんでしたので)。


こちらの画像のほうが自然な色合いかなという感じで、右上画像マウスオンで湯口画像に変わります。なお源泉温度の関係で加水はあるようですがまぁしょうがないかなと思います。(これは3つの公衆浴場共通かと)。いつか行われるであろう改修時には熱交換による源泉かけ流しに‥いや贅沢は申し上げません、この湯をずっと維持してもらえれば何よりです。

このあとはスタンプほしさに服部屋敷へ。ここでは八丈太鼓の実演も見学できるようなのですが時間が合わず断念。ただ御年90近いおじいちゃんがアシタバ茶の納入にやってきたので1袋購入し、ついでにスタンプ(ここではまだスタンプ自体がしまわれていた)をゲットした次第です。

ところでこちらの女性の方に、途中気になっていた「黒砂(砂丘)」の場所について聞いてみました。実は昨日のレンタカーであったアイミーブで「ここか?この道か?」と進んでいったのですが、途中から道が荒れてきて腹を擦りそうな感じになってきたので「長い坂を延々とバックで戻った」のでありました。黒砂へはあの道が正しかったのか否か?

そんなわけで聞いてみると、ちょうど出かける用事があるということで「入口まで案内してくださる」こととなりました。で、進んでいく舗装路は昨日と同じでありまして、「ここですよ」と教えられた分岐は昨日と同じところでありました。やっぱり間違ってはいなかったんだ‥。



左上画像は服部屋敷跡の入口(中は観光施設)。で右上画像が急な登り坂ダート&上部は荒れ荒れ。

なおあえて言うならば「軽自動車でも上がって上がれない」ほどの荒れ具合ではありませんでしたが、降雨時の流水によりどんどんえぐれが深くなってきているようでした。腹を擦るぐらいならまだしも(いや「借りている身」であればそれも自粛すべきです&しました)、亀さんモード(腹がつかえてしまい駆動輪が浮いてしまう)になったりしたら笑えませんしね。ちなみにわたしは自分の車では多少無茶な場所にも入りますがレンタカーでは無理をしません。ただしデフォルトで川渡りがあったりするアイスランドとかとはそもそも基準が違うので念のため。

さて右上画像の直線坂道の手前、ちょっとした広場(とはいえ軽自動車を3台止めれば満員御礼)に車を止めて今回は歩き出します。実際のところ上部の広い駐車場までは大した距離でもないのですが、八丈町関係各位さま、これからどんどんこの坂道路がえぐられていく前に砂利を入れて固め直したほうがいいと思いますよぉ。下の駐車スペースは狭いし農作業路の入口にもなっているので‥


でも歩いて上がってきてしまいえばこっちのもの、眼下にはずどどんドドンパの太平洋が目に入ります。さてここからはさらに坂道を登っていきましょう。なお左上画像あたりまでは歩道も安定していますが、ここから先はまさに「黒砂(スコリア)」のエリアなので登りはもちろん下りは大変かも?

そんなわけで「砂丘」までやって来ましたが、ん?何だか「砂丘」のイメージと違う?




(右上画像マウスオンで「より断崖系イメージが強い」画像に変わります)。


さて「黒砂(六日ヶ原砂丘)」の標識まで来たところで、先客のカップルと入れ替わりになりました。と、その男性いわく‥「(左上画像の)一番上まで行かれますよ」とのこと。ええっと、彼らも行ったみたいだし島内の「濃いツアー」ではここにも来るみたいだし(ただし左上画像の小山には行ってないはずです)‥というわけで!




(あ、よい子の皆さんは行っちゃダメよ危険ですこの裏側はマジに断崖絶壁なので)。

なお風の強い日は危険きわまりない場所でもあります。われわれの訪問時には風もだいぶおさまっていたのですが、風が強いとこの黒砂=スコリア=要はやや粒の大きい火山灰が風に吹き上げられ、いわば「アチョーいたたた、でも逃げ場なしっ!」ということになるようですのでご承知おきを。

ということで黒砂エリアをタンノーしたあとは町内中心部へ戻ってお昼ご飯‥でも下調べをしていなかったのであてもなく‥あ、道を間違えたこの先には何もなさそうだと思ったすぐのところにのれんが掛かったお店をハケーン!


そんな成り行き上等行き当たりバッチリの野性の勘を頼りにしてこちらの「回らないお寿司屋さん」にピットイン。いやたぶん八丈島内に「回る寿司処」はないだろうとほぼ断言できるわけですが(苦笑)。

で、ぶったまげたのが先客さんでありまして、つい先ほど「景色はいいけれど何もない(でも気持ちいいんですが)黒砂(砂丘)」でわれわれと入れ替わりに去っていったカップルさんがすでにここで食事をなさっていたのです(大驚)。中心部にいくつもいくつもある飲食店の中で、それぞれがこの店を選択し入店する確率は相当低いと思うのですが(笑)。

さてメニューを見てみると、当然島寿司もあるのですが‥ん?おお、これがいい「江戸前+島寿司セット」っ!てなわけで注文して待つことしばし、やってきたのがこちら!





ちなみに奥側の島寿司軍団は左から順に「オナガダイ」「シマアジ」「メダイ」「トビウオ」「岩のり」なのだそうで、特にオナガダイは島ではかなりの高級魚なのだとか。あと岩のりも近年は不漁により高級食材になっているそうです。いずれにせようっはぁ美味しかったぁ!(なお江戸前系の寿司ネタは築地で仕入れているのだとか=「おにいちゃん」談)。

なお、こちらのお店ではシャリ(酢飯)についても江戸前用と島寿司用の2種類を用意しているのだとか。さすがお寿司の専門店ですね、うん、偶然曲がり角を間違えた故にたどりつけたこのお店で大正解でした!


さてこのあとなのですが、左上画像の通り「富士山道入口」の交差点を直進し、今回の旅行中3度目になる鉢巻道路に登っていきます。しかーししかし、今回の野望は過去2回とは全然別なのです。それはつまり‥残された「大物」に挑むということであります。だって、


ということなのです。だって上画像を見てもほぼ完璧に青空満開おぼんこぼんオール巨人阪神なのですから!ただその前に登山の無事を牛観音に祈るべく、またも八丈牧場に立ち寄りました。だって天気がいいんだもーん。



ほぉーら、われわれ夫婦もそれぞれに「本日これからのやる気」を体現してますね(何のこっちゃ)。

でも子牛はそんなわれわれの熱い思いを知ってか知らずか母牛のお乳をチューチューしていたみたいです(左上画像マウスオン=完全同系色なので一見するとわかりませんが、足の数を数えれば子牛の存在が!)。

なおすでに右上画像にも偶然的必然によりご覧になっているマウスオン画像があると思います。この絵もいい感じですよねー(自画自賛)。実はこの直前に左側の男性が左方向を指さした瞬間があったのですが、その瞬間を撮影できていたとしたら必ずや観光協会に「よろしければお使い下さい」とメール添付したことでしょう(笑)。



牧場からは八丈富士の頂上が見えていますが、実際のところ牧場の敷地自体が八丈富士の中腹にある傾斜地なので実際の傾斜はもう少しあります。標高は伊豆諸島で1番高い854.3mもありますが、鉢巻道路からの登山口地点がすでに550mくらいありますので、実質の標高差は約300m。これなら午後のアクティビティとしてもかなりヨロシイかと思うわけであります。いちおう飲み物ほかを持参することにしてもリュックは1つでOK、うーん何ともお気楽!ただしまだ風は強いのでちょっと注意が必要かも。

では登山編は次ページから始めましょ。

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