(2014/7/28 その2)
お昼ごはんはまたもさんさん商店街へ。食事についてはある意味「そこに行けば何とかなる」という安心感という点で復興商店街はありがたくもあるのです。ただ最近別の場所に新たにお店を構えるところも増えてきているようで、そうなると事前の下調べが多少面倒になるわけです。でもそれこそ復興の新たなステップというわけで喜ばしいことではあるのですが。
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さてモアイ像はともかくとして(「なぜ南三陸町にモアイ像が?」と思った小中学生および不精者系大人のキミは今すぐ自分で調べましょう)、隣接する土地には「南三陸ポータルセンター」なる施設が(ちなみにその周辺にはBRTの志津川駅があります=左上画像マウスオン)。駐車場側に案内掲示がないので「ありゃ何だ?」という感じですが、入口まで行ってみたら右上画像マウスオンで現れる看板があったので安心して中へ入ります(もうちょっとアピールしてもいいと思う)。
内部は(なぜか)撮影禁止だったので画像はありませんが、やはり震災関係の記録館でした。でもやっぱりアピールが弱いなと。画像のみならずもっとさまざまな「あの日あの時」を示すものがあったはずだと思うのですが‥前ページで震災遺構の保存について書きましたが、当然このような資料館にあたる施設はあってしかるべきですし、その内容の充実が図られるべきだと思うのです。それこそ震災後しばらくはどこでも見かけた「ねじ曲げられたガードレール」とかだって津波の立派な生き証人だったはずです。でも、もう‥片付けられちゃったのかな、「津波がれき」として。
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さてお昼ごはんにお蕎麦を食べ、お茶屋さんで抹茶アイス(右上画像マウスオン)を食べたあとは再び北上です(今考えてみればツイッターのフォロワーさんのお店が近隣にあったのになぁ‥失敗)。今日のお宿は陸前高田市の山の中なのでここからなら時間的に余裕ありすぎです(実はある意味苦笑)。
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続いてやって来たのは同じ南三陸町でも歌津地区(旧歌津町)。ここにはもう1つの商店街「伊里前(いさとまえ)復幸商店街」があるんです。さんさん商店街に比べて規模は小さく地元の方向けの商店がほとんどですが、この旗はスゴイ。場所柄大漁旗がたなびいているのなら「なるほどね」というところですが、実はJリーグ(J1)各チームの旗なのです。
ここから先はネットで聞きかじった話なのですが、商店街開業後、少しでも華やかさを出すために(&目立たせるために?=商店街は国道からちょっと奥まったところにあるので)、地元の方所有のコイノボリや大漁旗等を飾っていたそうなのです。しかしそれをいつまでも借りていられない(返却する)ということで関係者がツイッターに旗の寄贈を呼びかけたところJリーグサポーターから旗が続々と‥ということのようです(あくまで「サポーターが」というところがいいですね)。
こちらでスタンプラリーのハンコ(3つ中2つ目)をいただきましたが、今回は何も買わずにごめんなさい。せめて飲み物くらい買えばよかった‥。まぁ、また来ますんで!
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国道向こう側の水門施設はそのまま。津波に耐えたウタちゃんばしの欄干も補修せずそのままなのはなぜ?
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なぜだろうというか、今後のウタちゃんばしの運命や如何に?と思って検索してみたところ、今後については分からないままでしたが何だか別の発見が。実はこの橋、かつては汐見橋というまぁごく普通の名前の橋だったそうなのです。
橋の架かる伊里前川(春から初夏にかけてシロウオ漁が行われる川として地元ではある程度有名)、その川の河岸に2002年、一頭のアザラシが紛れ込んできたそうなのです。
この時の町(旧歌津町)の対応はすばやく、全国ニュースで報道されるやいなやかの個体を町名になぞらえて「ウタちゃん」と命名。「ウタちゃんプロジェクトチーム」を発足させすぐさま「歌津のウタちゃん」を商標登録(早)。そしてそのプロジェクトの一環としてこの橋も「ウタちゃんばし」に改名されたということのようです。ただ‥
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それにしても当時の町の記録によると「それによる年間観光客入り込み数は1万人の増加、一定の経済効果を上げた」ということなのだとか(ホントかいな)。なるほどまぁそんな歴史というか経緯を経ていた橋だったわけですね。
それにしても、震災による大津波により隣接していた新道バイパス路の「歌津大橋」(コンクリート造、しかも道路面はより高いところを通っていた=右上画像でウタちゃんばしの奥に見えている整地面が旧バイパス路)があっけなく倒壊したのに(2011/8当時の画像はこちらのページにあります)、圧倒的に低い場所にあったこの橋が欄干以外ほぼ無傷に見えるのはある意味奇跡なのかも知れません。もしかしてウタちゃんが守ってくれた?(笑)。
ちなみに伊里前商店街には食堂がありませんが、そこから高台に上がった先に食堂「たいしゅう」さんがあるそうです。ラーメンメイン&定食、昭和24年創業の老舗だそうです。今度行ってみようかな。
さてしかし、われわれをめぐる事態はここから「風雲急を告げる」ことになったのでありました。この日の宿は陸前高田市(とはいえ山の中の)玉の湯泊まりなので伊里前地区からは50kmくらい。時間的にも余裕ですから気仙沼市内の商店街ほかにも立ち寄っちゃう気持ち満々でした。
そしてこのあと「道の駅大谷海岸」に立ち寄るべく右折しようとしたところで状況は急展開を遂げざるを得なかったのであります!それはTakemaのガラケーが嬉しそうに昔の黒電話系着信音を発したところから始まりました。
もちろんTakemaはまだ運転中なのでおしんこどんが代わりに電話を受け、その間にTakemaは急いで道の駅駐車場に車を駐めます(もともと休憩の予定だったのでこの時点では全然焦ってません)。そして、おしんこどんの「どこかの観光協会の人ってことだよ」という言葉に、何といじましくも「もしかして何か当たったか?」と無意味に期待を小さな胸にちょっとだけふくらませた(表現技法違和感ありあり)Takemaだったのであります。
しかしこの時点で賞品がもらえるようなイベントには何一つ正式エントリーしていなかったにもかかわらず、すぐさまそのような妄想を抱いてしまうところにTakema自身の「人となり(人柄、生来の性質)」がうかがい知れるところではあるのですが、まぁ本題から外れるのでこの話はここまで。
ガラケーの向こうから聞こえてくるお言葉に、Takemaはそれこそビックリして驚いて桃の木だって山椒の木になるとはこういうことか系のカメハメハ大王と一緒にフラダンス、いや違った例のアニメのカメハメ波直撃を受けて大脳がでんぐりがえってバイバイバイに近い衝撃を受けたのです(意味なし芳一長すぎ)。それは‥
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や、や、ヤバイというかやってもうたよTakema!「お前ね、何がともかくとしても『人との約束』を違えたらそれは『お前自身が人でなくなる』と同列なのだよ」とかねてから母に言われて‥はいませんでしたが(何だよ)、とにかくこちらからお願いした個人ツアーの予約予定を勘違いしていたことはもうそれだけで万死に値しま‥え、何とおっしゃる?
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うわーん天使さまぁ!(ただしやりとりはガイドさんじゃなくて観光協会の方とでしたが)。まずはこの電話でとことんお詫びを申し上げたわけであります。
さてそうなればここからはバビューンと加速して陸前高田目指し一目散!‥というわけにはいきません。気仙沼訪問は即断念しましたが(それはそれでかなり残念でしたがやむを得ません)、この区間は震災後とてつもない勢いで工事が進んでいる三陸道とてまだ未開通(気仙沼バイパスはありますが)。となれば30分なんてデンデンムシムシかたつむり、いや違った全然無理なのです!
ただ無念というか幸いというか、Takemaは予約時に「2時間(14:00-16:00)」をお願いしておりました。すでに14:00は回っておりますが、うまくすれば15:00ちょい過ぎくらいには到着できるかも。であればミニツアーはやっていただけるわけですから。生きます活きますすぐ行きます!
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そんなわけで急いで行こう!‥としても、この区間には法定70km/hで巡行できる三陸自動車道の整備区間はごく一部(気仙沼バイパスはありますがこれはあくまでも一般道のバイパス)。そしてそこに一般道制限速度遵守のダンプや軽トラが走行しているわけで(ちなみにほとんどのダンプが速度遵守していました。軽トラの場合は40km/hね)、そうなると‥
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さてお若い皆さまのキョトンとした反応は見なかったことにして先を続けます。いま改めて検索してみたところ同区間(道の駅−現陸前高田市役所仮庁舎)は32.6km、約40分強で到着できる距離だと出ましたが、それは順調にいっての話、この日この時の国道上にはもっとゆったりとした時間が流れていたわけですから。
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ちなみに三陸道は、まさに「完成したところからすぐに開通供用させている」感じですね(あえて横向きで表示)。
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結局待ち合わせ場所の仮庁舎に到着したのは15:07。語り部の方とお会いできたのはそれから数分たった15:15頃だったのではないかと。
すでに予約時間終了まで45分しかありません(添乗可能時間は18:00または日没までですが、時間予約制なので次の予約の方がいれば延長は不可能です。詳しくは陸前高田市観光物産協会 0192-54-5011まで)。とにかく急げや急げで出発(語り部ガイドさんがTakema車に乗り込んでのガイドです)。
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左上画像は旧市街地を北側から駅方面に向かって眺めたものです。現在旧市街地は全面的に立ち入り禁止区域に指定されています(その理由については後述します)。右上画像は在りし日の陸前高田駅から北側の中心部を撮影した画像で、われわれはこの時奥手前に見える赤信号のあたりにいたのだと思われます(違ったらスミマセン)。この「広場」にぎっしりと並んでいた住民の皆さんの家々、日々の営み、そして大切な思い出‥それら全てが消滅してしまったというわけです。そして市全体で約1,800人もの死者・行方不明者が発生し、もちろんまだ発見されていない方も数多く‥。
しかしそれが終わりではありません。ガイドさんが次のようにおっしゃいました。
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かさ上げ対象地域の高田地区・今泉地区をかさ上げし、旧市街地の山側を再び生活区域として再整備。海側(かさ上げは最小限?)は農地や公園(震災遺構を含む)として整備するというのが市の計画のようです(詳しくはこちら=陸前高田市公式サイトPDFファイル。ただし最新の計画ではない可能性を排除できませんので念のため)。
ここからは、現在なお鉄路不通のJR大船渡線が再開通することを前提とした(!)復興青写真がわかります。線路や駅をやや内陸に移設した上で、地盤そのものをかさ上げしたところにさらに盛り土路盤でJR大船渡線を走らせるという計画のようです。これは明らかに、かの震災津波において仙台東部道路がある意味防潮堤としての役割を果たしたことを念頭に置いた計画なのでしょう。
想定とか利便とか将来性とか、全てにおいて現実的というか未来志向的な復興計画そのものに異を唱えるつもりはありません。でも、この場所に住んでおられた方々にとって‥
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これこそ直接的に質問するのをはばかってしまう疑問でしたが、ガイドさんはもうそんな現実を受け入れたようなお言葉を返してくださいました(少なくともこの時はそう思っていました)。
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さて進んでいくうちに「震災遺構保存建築物」の1つが見えてきました(ちなみに左上画像では熱く説明中のガイドさんの手が見えてますね)。
三陸沿岸の各自治体では、震災遺構を保存するのか解体するのかという問題があるという話は前のページで書きました。しかしここ陸前高田市ではすでに「何を残すか」がすでに決まっており、それを前提にしてかさ上げ工事が始まっています。そのうちの1つが右上画像の旧雇用促進住宅というわけです。
右上画像にマウスオンしてもらうと2011/8に撮影した画像に変わります。奥にもう1棟あるのがわかりますが、そちらはすでに解体済み。4Fまで津波が通り抜けたこの建物は、今後半永久的に保存されることになります(左上画像マウスオン)。
ここ陸前高田市は「どの震災遺構を残すか、そしてこの市街地をどのように復興すべきか」についての検討及び決定、そして行動(工事着手)という点で被災地復興の先頭を走っていると思います。中でも早々と「奇跡の一本松」の保存を決めて粛々と着手したわけですし(「枯れた木に金をかけてどうする」という意見もあったようですが、わたしとしては担当者各氏の「震災の風化後」を見据えた先見の明に敬意を表します)。
そしてその他の遺構として「陸前高田市立気仙中学校」「陸前高田ユースホステル」「道の駅タピック45」、そして「雇用促進住宅」の保存を決めました。「これは残す、これは残さない」。そしてその上で浸水地域のかさ上げについても‥
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そろそろ長くなってきたのでこの続きは次ページにて。
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