−その9 「奇跡の一本松」に思う震災遺構の今後の生かし方 −



奇跡の一本松には復興コンベアの下をくぐっていくことになります。しかし撮影者のおしんこどん、大地が斜めになってるぞ(笑)。

(2014/7/29 その1)

さて駐車場から一本松までは徒歩で500mほどあります。往復のことを考えると時間的には結構やばいような気がしてきました(汗)。

国道脇の歩道は舗装されていますがすぐ脇をダンプがひっきりなしに通るためちょっと落ち着きません。ついでに「上空から」ベルトコンベアで移送中の土や石がガラガラと音を立てているためこれも落ち着けないところではあるのですが、それは同時に「ただ今高田が懸命に復興に向けて前に進んでいる」ことの証でもあり、そう考えながら聞いていると何だか心地よくさえ聞こえてくるような?

で、R45の内陸側に目をやるとダンプが‥ん?

(右上画像マウスオンで人との大きさ比較ができます。タイヤの直径だけで十分大人1人のサイズかと)。
つまりはそれだけ大がかりな工事がここ陸前高田で現在進行中というわけです(ちなみにこのサイズのダンプはほかの三陸沿岸被災地では一切目にしませんでした)。

さてさらに歩いていくと突如として分岐が。直進すると一本松へ、でも左折するとどうやら最近構築された展望台へも行かれるようなのです。しかし残り時間が少なくて不安だしというわけで、おしんこどんは一本松へ、Takemaは展望台へと分かれて行動することに。で、まずはTakemaレポートです。

左上画像の看板を左折すると、右上画像のような一気の階段が眼前に。何だかこんな階段どこかにもあったよなぁと思い起こしてみたら、北海道は万字炭山のズリ山でした(右上画像マウスオン)。あの775段はきつかった(笑)。あれに比べればゴールは目の前なんですが、すでに12年もの時が流れているわけでこれでも乳酸が分泌されちゃったTakemaなのでありました(2002当時のページはこちら)。

さて展望台に上がって周囲を見渡してみると‥。

気仙川に架かる土砂搬送用の「希望のかけはし」(左上画像)や、その終点たるかさ上げ地域の様子がよく見えています。しかしその一方で‥



そんなわけであとは別働隊のおしんこどんに期待するしかありません(笑)。宿の朝ごはんがあと30分早ければ何の問題もなかったんですが‥(まぁしょうがないよね)。

ここからはおしんこどん部隊撮影画像。なるほどコンベア路の下を通過する部分には一応防護施設が組まれているわけです。でも、その支柱部を見る限り「大物には対応しきれないかな」と。でもこの光景自体が何だかシュールです。今この時期しか見られないわけですし。



今回の津波災害に関する震災遺構。自分としては残してほしかったと考える場所もいくつかあるのですが、そのほとんどである被災建物と違いこの木はわれわれと同じく「生き延びた」存在です。もちろん一本松自体は震災後に塩害で枯れてしまい、今ここにあるのはそのオブジェに過ぎません。しかし枯れる前に手を下した結果、この木のDNAは今も別の場所で生きています。そして前にも書いたように高田松原の多くのDNAが今も受け継がれ、いつか再びこの地に根を下ろすタイミングを待っているのです。

陸前高田の復興ガイドさんは「再び松原を再建する」ことを強く望んでいました。そしてその準備は少しずつではありますが進んでいます。今回いろいろな方々からお話を聞くにつけ、「皆さんの心の復興はほとんど進んでいない」ことを実感しましたが、陸前高田の方々にとっての象徴でもあり誇りでもあった松原の再生、それは不幸にして亡くなられた方々へのお弔い、そして遺族として残された多くの方々への精神的支援として必要なことなのではないかと強く感じます。それにしても陸前高田市現市長さんの復興判断はすごいなぁと思います(自分と同学年の方のようですが自分じゃ全然駄目っしょ)。

やがてここはさらに整備され、立派な吊り橋もいずれは撤去されることになるのでしょう。そのあとにこの地を訪れる人たちにとっては津波の痕跡を探すことすら難しくなるはずです。でもはっきりしていることがあります。それは‥

震災以降いろいろとお世話になっている、三陸牡蠣復興を目指しておられる齋藤浩昭さんはサイト内でこんな目標を語っておられました。

斎藤さんは牡蠣を復興の柱の1つに据えていきたいというお考えであり、そのことには何の異論もありません。しかし食だけではなかなか芯柱にはなりにくいのも事実。それを補って余りある集客の目玉こそ、かの3.11大津波というように考えるのです(しつこいようですが世界中の人たちがこの未曾有の津波災害のことを知っているわけですから)。その上で国内外から現地を訪れた方々が「おいおい、三陸の牡蠣はタダモノじゃないぞ!」と話を広めてくれれば最高でしょう。

ただしその第一歩として、まずはフロンティアになる人たちに現地を訪問してもらうことが必要です。でも今のところ「チーム三陸」としての情報発信はほとんどできていないと感じます。宮城・岩手・青森、そして福島をも含め一体となった観光情報発信が必要でしょう、特に外国人向けに。

あ、これまた旅行記サイトの範疇を越えたお話になっちゃいましたが(笑)、要は「震災、津波災害を利用して次なるステップに進むこと」こそが大切なのだと思うのです。津波による被災については今や非被災地ではすっかり風化してしまいましたが(予想されたことです)、でもあの災害が人々の記憶から消えてしまったわけではありません。「東北に旅行に行こうか」と考えたときに「あの三陸だと当時の○○がこんなふうらしいよ、で、こういう現地ツアーもあるみたいだしもちろん牡蠣をはじめとして海の幸がたっぷり楽しめるみたい!」とか。

ただ、現段階では大手旅行会社こそそのようなツアーを組んでいるようですが個人旅行者の対応はまだまだです。何とかしてくださいよ、たとえば三陸鉄道の旅行部門などにはもっともっと頑張って欲しい!英語対応や個人旅行を前提に企画をすれば、かなりの集客を見込めると思うのです。そしてその海外でのアナウンス効果はとてつもなく大きいわけで。

ちなみに東浩紀氏は福島第一原発周辺地域に関しても「除染して元に戻すだけじゃだめ、観光地としてとらえるべきだ」という意見を発しています。全て自分と同じ意見ではありませんがスタンスは似ていますのでここに引用します。元ページはこちら(集英社サイト内ページ、一部略)。
【思想家・東浩紀が重大提言「僕は福島第一原発観光地化計画を提案します」】

[2012年09月04日]

「観光地化計画を世に問うた後に、今後の福島をどうすればいいか語り合う土壌が生まれればいい」と語る東浩紀氏

現代思想からオタクカルチャーまで縦横に語り、若者から絶大な支持を受けている思想家・東浩紀。先日も、自らが中心となって「新日本国憲法」を起草し、話題になったばかりだ。そんな“行動する思想家”が、またしても刺激的な計画を温めているという。週プレが、メディア一番乗りでインタビューを敢行した。

***

■若者が「ヤバいよ!」と言ってくるくらいの刺激的な観光地に

―去る7月29日、現代美術グループ・Chim↑Pomとのトークイベントに招かれた東浩紀は、その席で「福島第一原発観光地化計画」を語った。読んで字のごとく、爆発事故を起こした福島第一原発=フクイチを観光地にしようという提案だ。今なお事態収拾のメドが立たず、日本の“はれもの”扱いされている土地をめぐって、なぜ思想家である東はそんなとんでもない計画をブチ上げたのか? 東が代表を務める出版社「株式会社ゲンロン」のオフィスで話を聞いた。

今、福島の問題について語るのは非常に困難です。僕みたいに東京に住んでいる人間が軽率なことを言おうものなら、“良識派”の人々から「被災者の心を傷つけるつもりか」と叩かれる。しかし、福島の人々の心を勝手に慮ることこそ、最悪ではないでしょうか。福島について口を閉ざすことは震災の記憶を風化させることにつながると思うし、現実にそうなりつつあります。

だから、僕は人々の関心をここにつなぎとめるために、「福島第一原発観光地化計画」を提案したい。なぜなら、観光地にするということは、その土地を記憶に留めるということですから。

今はまだ汚染がひどくてそれどころじゃないけど、20年後、30年後には、この土地をどうするかっていう議論が必ず出てくると思います。そのときのために、今からシミュレーションをしようという意味もあります。

―トークイベント以来、公でこの計画を話すのはこれが初めてだが、具体的な提案にすることを目指して、東はすでに何人かの協力者に声をかけているという。

たぶん、こういう計画を政府が進めたら、Jヴィレッジ(注1)あたりに震災記念公園を造って、はい、終わりという感じになっちゃうんでしょう。「過ちは繰り返しません」みたいな、誰が加害者なのか被害者なのかよくわかんない標語を掲げた記念館を置いて(苦笑)。

(注1)Jヴィレッジ:1997年にできたスポーツ施設。原発からは19qほど離れていて、現在は原発作業員の前線基地となっている

でも、それはごまかしです。そんなつまんないところ誰も行きたがりませんよ。僕は、若者が「フクイチ、ヤバいよ!」くらいの勢いで来るような、刺激的な観光地にしてもいいと思う。忘れられるよりましですから。そのためにも、フクイチのような象徴的な場所を生かさないとダメ。場所自体の抱える傷の深さを未来の世代に体験してほしいんです。

というのも、僕は昨年4月20日に浪江小学校(注2)に行ってるんですね。当時、誰もいない教室にランドセルがいくつも放り出されていて、卒業式シーズンだったからなのか黒板には「6年生の先輩ありがとう」みたいな文字が残されていた。校内ではブザーがずうっと鳴り響き、置き去りにされた水槽の中でまだ生きた魚が泳いでいる。そんな異様な光景を目の当たりにして、鳥肌が立ちました。

(注2)浪江小学校:原発から5kmほどの場所にある。浪江町は、全域が避難区域に指定されている

僕はそうしたトラウマの残る土地をほかにもいくつか見たことがある。なかでも、アウシュビッツは強く印象に残っています。特に「第2収容所」のあったビルケナウという場所には、終戦直後の放火によって崩れ落ちた建物や、収容者を運んだ列車がそのまま放置されていて、すごく怖い(90年代当時)。まるで、死者の霊がすぐそばにいるような感じがするんです。

そういった生々しい土地の力を実際に体験すると、最初は軽薄な気持ちで来た観光客も「これは“ヤバイ”って喜んでいる場合じゃないな」と感じざるを得ないと思うんです。

だから、フクイチに関しても、あの付近の状態を可能な限り保存して、爆発の衝撃を追体験できるようにすればいいと思いますね。

■すでに僕らは、荒唐無稽な「SF的世界」に生きている

―今回の原発事故で放出された放射性物質・セシウム137は、30年後の「半減期」には放射線量が半分になるというものの、微量ながら数百年、数千年後も放射線を発するというものだ。こうした長期にわたる被害を受けたこの国を、東は「SF的世界」だという。

数百年、数千年後って、日本そのものがなくなっててもおかしくない未来。そのときにも放射能は残り続ける。すでに僕らは、そんな荒唐無稽なことを考えなきゃいけないような、SF的世界に生きているんです。この現実に立ち向かうためには、同じようにSF的想像力を駆使しなければならない。だから、この観光地化計画も、今までにない「荒唐無稽」なものにしないといけない。

例えば……、フクイチの近くからiPhoneをかざすと、AR(注3)で爆発の様子が再現されて、モクモクと煙が上がるとか。あるいは、体験施設の地面が揺れて、ガイガーカウンターの数値がぐんぐん上がっていくとか。さらに、東電の緊急対策本部を再現して、中に入ったら当時の首相がすっごい怒ってて「こりゃヤバい!」みたいな(笑)。そこでベントを開くか開かないか、というゲームがあってもいい。

(注3)AR:拡張現実(Augmented Reality)。iPhoneなどの画面に映した現実世界に、文字や映像情報などを重ねて表示させる技術

不謹慎ですか? でも、それが後世の記憶につながるならいいと思うんです。いい意味での“ヤバさ”のあるアトラクションを集めた、ある意味で「刺激的」な場所にしなければ、フクシマはすぐ風化してしまう。僕は、そうした“ヤバいものを見たい”という人々の軽薄な好奇心だって利用するべきだと思うんです。

今の世の中では、そうした軽薄な好奇心をあおる消費社会=悪と考えられています。どんどん電気を使ってきた消費社会を見直して、今すぐ原発を止めようという世論が強い。しかし、僕はそんな主張こそ荒唐無稽だと思います。すでにわれわれはとことんまで消費社会につかっているし、一度豊かな生活をしたら二度と後戻りできないのが人間。

だから、そういう消費社会を敵視せず、むしろその人間の欲望を逆手に取ることを考えるべきでしょう。そして、軽薄な好奇心によって集まった人々の間に、新しい「公共空間」を立ち上げる―。

つまり、被災地を観光地にして、そこをみんなで震災について考える場にする。それが、この計画の根本的な目的ですね。

■原発をなくせば済むという話ではない

まずは、社会学者や政治家、福島の人々に参加していただき、研究会のようなものを立ち上げようと思っています。その結果報告として、『思想地図β』にいくつかのテキストを載せることになるでしょう。その一方で、僕はその観光地計画を手で触れるような形にした“ジオラマ”を作りたいとも思ってるんですよ。

アキバなんかに行くと、よくゲームと一緒にフィギュアのついたデカい箱の美少女ゲームなんかが売ってるんです。実はあれがやりたい(笑)。要するに、アキバ的なもので今回の計画をパッケージするということを。

アキバとフクシマ、無関係だと思われるかもしれませんが、そうではありません。戦後日本にとって、原子力はただのエネルギーではなく“憧れ”の対象だった。自然に対する科学力の勝利であり、輝かしい未来の象徴だった。だからこそ、人々は原子力から生まれた『鉄腕アトム』に夢中になったんです。そして、そんな科学やコンピューターが大好きなオタク少年がつくったのがアキバ文化。他方で、その科学信仰・文明信仰の帰結として起こったのが今回の原発事故。アキバとフクシマは、両方とも高度経済成長の落とし子なんです。

アトム、アキバ、フクシマは実は一直線でつながっているということです。だから、僕にとって今回の観光地化計画は、3・11以前と以後の日本の文化をつなぐプロジェクトでもあるんです。

―取材が始まったのは夜の10時過ぎ。このとき、すでに時計は午前0時近くを指していたが、東の口ぶりには熱がこもるばかりである。そして、批判は戦後の日本社会全体にまで及んだ。

津波っていうのは天災ですけれど、原発が事故を起こし、われわれがそれに対処できなかったというのは、戦後日本の文化がたどりついた“必然”。だから、ことは原子力をなくせば済む話ではないんです。なぜわれわれはこのような文化を持ち、過ちを犯したのかということをちゃんと認識し、記憶しなければならないんです。

しかし、日本で議論すると、どうしても“お金の話”が突出しちゃう。最終的にはみんな経済の復興のほうへ目が向いちゃうんですね。このままだと、第2次世界大戦後の失敗をまた繰り返すことになりますよ。

われわれはあのとき、文化的な清算を行なえなかった。戦争という悲劇をちゃんと受け止めて議論するべきだったのに、“一億総懺悔”ということで済ませて、高度経済成長に邁進してしまった。だから、われわれはいまだに自分たちが被害者か加害者かもよくわからないし、靖国問題も解決できていないんです。

今回の原発事故に関して、また同じ大失敗を繰り返すのか、それとも、起こったことをちゃんと引き受けて議論し、記憶できるのかということは、この国の未来を占う上で非常に重要な課題だと思います。

■今後の福島を語り合うための土壌をつくりたい

英語で「Fukushima」という単語をインターネット検索すると、セットで「放射能」に関する言葉が出てくるのを知っていますか? これを「風評被害」と切り捨てて、「福島は安全です。復興もしています」といっても、世界へ広がった「Fukushima」という語のイメージは変えられない。じゃあ、それを積極的に受け入れて、次代に過ちの記憶を残す方法は何かっていったら、ひとつには文化遺産にすることだと思います。

世界には、“負の世界遺産”と呼ばれる場所がある。実際に世界遺産に登録された物件のうち、“人類の起こした悲劇を伝える”という使命を背負ったもののことだ。具体的には、アウシュビッツや広島の原爆ドームが挙げられる。「フクイチも世界遺産にするべきか?」という問いに、東は、「個人的にはするべきだと思う」と答えた上で、こう語る。

僕は自分の考えを押しつける気はありません。最終的に、福島の県民が「もうなかったことにしたい」というのであれば、すべて更地にしてしまうのも仕方のないことだと思います。

ただ、大事なのはちゃんと議論をすること。そのためには観光地化のような挑発的な提案があってもいい。僕は、この観光地化計画を世に問うた後に、今後の福島をどうすればいいか語り合う土壌が生まれればいいなと思うんですよ。

僕らは、『思想地図β』の中で新しい憲法草案を作った(2012年7月発売の第3号に掲載)。その動機は、憲法学者や政治家ではなくても憲法について語り、提案することはできるということをみんなに知ってほしかったからなんですね。

―東らの作った「新日本国憲法ゲンロン草案」は、『朝まで生テレビ!』でもメインテーマとして取り上げられるなど、発表直後から大きな話題を呼んだ。

今までは、「憲法を変える」とか「国を変える」なんて言っても荒唐無稽な話だと思われていたのに、3・11以降、「この国は本気で変えないとヤバイんじゃないか」ってみんなが気づきはじめた。それは、震災を経て世の中が変わったということであり、唯一、希望を見いだせる部分ですよね。

正直、こうして週プレさんまで取材に来てくれるとは思ってなかったですよ(笑)。ようやく、広い世間に自分がリーチできるようになってきた気がします。

だから今後、僕は本来の意味での“リベラル(革新勢力)”として、どんどん提言していきますよ。

(取材・文/西中賢治 写真/井上太郎)

東氏の意見は極端かつ唐突なものであるかもしれません。そしてこの日本国および福島第一原発周辺の自治体が今後どのような舵取りをしていくかについて、たぶん東氏と自分とでは明らかに意見の相違があります。

でも「震災前に戻すのではなく新たな一歩を踏み出す」方法論として東氏のこの提案は多くの示唆を含んでいます。難しい問題を抱えながら前に進まざるを得ない福島とは違い、三陸の場合は基本的に「未来に向けて」の方策を考えればいいのですから‥。生かさなければ、負の遺産を。そして少しでも残さなければ。

さて引用を含めてすでに話が長くなったのでそろそろ大船渡へと向かいましょう。

国道沿いの旧雇用促進住宅を横目に見ながら北上します。この建物については前ページでもちらりと書きましたが、震災前にはこの裏側にもう1棟同じ規模の建物があったんですよね。かつて「わが家」だった場所が地下10m以上に埋もれるか、または最後の姿のまま永久にさらしものになるか。陸前高田の激甚被災地ではその2択しかなかったわけです。

しかし、R45を北上するにつれて(標高が上がり)、かさ上げ計画地域外になりました。そこには‥


まだ営業時間前ゆえSS駐車場には車の数もまばらでしたが、結構押すな押すな系のお客さんで盛況だと聞きました。イオンさん、数年後とかに「採算が取れないので撤退します」というのだけはやめてよね。ただでさえ地場の個人商店が失われたところで、イオンさんの出店により店を閉じるところもあったはず。しかしそんな状況で万が一撤退閉店ということが起きれば、間違いなく地域の流通及び生活が崩壊してしまうわけですから。

さてここからは峠道を上がっていった先で三陸道の開通部分に合流できるはずですが‥くわーいつものまたかよ系のTakemaのお腹がなぜか急降下!(苦笑)。


[戻る] [次へ]