- その10 フェリー旅をタンノーし、ポケふた経由で帰省完了 -



名古屋まで、21時間40分かけて一気にワープ!(笑)。

(2024年8月8日-8月18日 その10)

というわけで今夏の駒の湯お手伝いは「小仕事」程度に終わってしまいましたが、まぁこんなこともあるでしょう。なお駒の湯ガーデンですが、この秋にイノシシにほじくられてかなりひどいことになってしまったようです。来シーズンに見にいった際にはどんなことになっているのやら。さすがに深く根を張ったアジサイなどは大丈夫だったようですが。



栗駒ダム脇のトンネルはガスってました。



でも仙台まで下ってきたらご覧のとおりいいお天気に。




仙台港に到着しチェックインを終えたあと、ビールやおつまみその他を買い出しに。ごく普通の町並みですが、震災当時はあそこまで津波が上がったことを見るにつけ(右上画像)、やはり尋常ではない災害であったことを思い知らされます。



ガソリンも満タンにした上で再び乗船車両の列に。

以前は徒歩乗船者より先に車両が乗り込むこともそこそこあったように記憶していますが、最近は車のほうが遅いですね。まぁトラックやコンテナ優先なので、そちらが多ければ一般車の乗り込みが遅くなるのは当然です(そもそも収益のメインは貨物ですし)。



個室を確保し、出航は窓際席でビールとパンのお昼ごはんとともに眺めようという算段です。このパンは途中の鶴巣PAで購入したもので、仙台からフェリーに乗る際はだいたいこれです。



太平洋フェリーの船は仙台港入港時に向きを変えずそのまま着岸するので、出港時には複数のタグボートの力を借りて方向転換してから走り出します。これって当然東日本大震災時に停泊していた「きたかみ(先代)」もそうだったわけで、何とか無事出航し津波をやり過ごした時もタグボートが活躍したはず。タグボートもそのまま「沖出し」(沖に出て津波を乗り越えやり過ごすこと)したんだろうなぁ。



しかしわれわれはのんびりビールタイムね。




他の船もタグボートの力を借りて‥おお、押してる押してる!



仙台港の湾口部までやってきました(タグボートの基地もここにありました)。ビールを飲み終えたのでレモンサワーを頼んだら、いやぁ懐かしい「ハイリキレモン」がガラス瓶で登場しましたよ。出自をまるで隠そうとしない提供姿勢にもびっくりですが(面白いという意味で)、この「ハイリキ」って、もう20年ほど前に旅立ったTakema父が日々飲んでいたチューハイなのですよ。実に久々に目にしたので、思わず最初に注いだ分は亡父に献杯しちゃいました。ま、そのあと全部飲んじゃいましたけれどね(当然)。





この後手持ちの焼酎を飲んだりゴロゴロしたりしているうちに夕ごはんタイムとなりました。レストラン利用もいいのですが、そんなに量はいらないしなぁというわけで、軽食コーナーの「ヨットクラブ」を利用することに。



単品×2+ソーセージで十分。あ、ワインも飲んだか(笑)。

食事後デッキに出てみるとびしょびしょ。これは雨ではなく結露のなせるわざで、外気の気温と湿気が一気に増してきたことを意味します。暑くてじめじめのエリアに戻ってきたのね(無念)。確かに今回の東北、比較的涼しかったからなぁ。



明けて翌朝、目を覚ましてカーテンを開けてみると、いつもの通り「渥美半島沖」という感じでした。お天気は「快晴」。しかし、この運航自体が実に僥倖だったことはいうまでもありません。というのも‥




(仙台-名古屋便は隔日運航)



何やら漁船が集まっています。穏やかな夏の海です。



朝ごはんはまたも軽食コーナーでモーニングセット。あれ、以前は2種類から選べたのに今は1種類になってしまったようです。まあしょうがないか。食事後は穏やかな海を眺めつつしばし潮風に吹かれてね(暑いけれど)。



朝風呂の後は部屋に戻って天気予報をTVにて。あれまぁこれじゃ確かに次の仙台発名古屋便は欠航するよなぁ、関東沖を通過する際に台風と「あらこんにちは」とバッティングだもの(微笑=性格悪)。







というわけでさっき下をくぐってきた橋を渡り関西方面へ。四日市JCTを新名神方面に進んだのは当然東名阪道の渋滞を避けるためでして(お盆ですからね)、この後亀山西JCTでぐるりと回って東名阪の亀山ICに戻りいったん高速を下りました。だってさ、お昼ごはんを食べたいし。

さすがに一応調べていて、亀山駅近くのイタリア料理「アモーチェ」へ。すでにお昼を回っていたのでしばし待ちましたが、先客だった妙齢の女性2人組がまるで漫才師で話が面白い!(実際そういうお話系のボランティアもなさっているのだとか)。退屈はせずやがて店内へ。どうやら一番のピークタイムにやってきてしまったようなのはここだけのヒミツでした。



女性2人組が入店すると、待ち人はわれわれだけに。



セットメニューを注文し、おしんこどんは生ビール!



パスタメインのお店で、美味しくいただきました。

さてしかし、なぜ亀山でランチだったのかといえば、この後の行動が「ポケふた行脚」だったからにほかなりません。このあと亀山市内、そして伊賀にも立ち寄って画像をゲットしようという狙いです。よって今回はいつもの名阪国道をごく一部だけ利用し、あとは下道でおしんこどん実家まで向かいます。



亀山のポケふたは亀山公園の時計台エリアにありました。この日(から)はずっと35度以上の最高気温が続き(公式記録なので実際はもっと高め)実に暑いのですが、それでも身体も「昨今の猛暑」に慣れてきていたからか2人ともへばることはなかったです。それがいいのか悪いのかはともかくとして



この後は峠越え区間だけ名阪国道を利用して伊賀エリアへ。もちろんナビをセットしているので迷うことはないのですが、自分で経路を把握していないのでこれも何だかなぁと思います。昔話はジジイのたわごととも言いますがもう還暦も過ぎたし言わせてもらえば(ちなみにその昔は40歳を「初老」といったらしいぞ)、その昔のバイクツーリングでは全部地図を頭の中にたたき込んで走ったのでどの道を通ったのかはあとから地図で振り返っても一目瞭然だったし、さらに古い話をすれば、



なんていうのも普通でしたよね、ただの数字の羅列であるにもかかわらず。でも今考えるとびっくりです。文明は「人を『馬鹿』にしていく」のかも知れません(苦笑)。

「ネットで調べればすぐに出てくるから覚える必要なし」「これからは情報を単純に記憶するよりももっと創造的な活動を」等々、昨今は聞こえのいい言葉も散見されますが、「手持ちの情報なしに創造的な仕事ってできるのかな?」とも思います。「ネット上の膨大な情報をわれわれは整理して理解しきれるのか?」「そもそもネットを含む他者がもたらす情報の信憑性を手持ちの情報なしに解析できるのか?」など、抱く疑問は様々です。

またもナビを介してとてつもなく話がそれましたんでタイムラインに戻りましょう。





「忍者市駅」。すぐ下に小さく「上野市駅」と正式名称が付記されているとはいえ、大きさといいアルファベット表記付きといい完全に愛称のほうが勝っています。それだけではなく‥



駅入口屋根の両サイドには厳重警戒中の忍者二人が。



駅のホームにも、「隙あらばやっちゃるで」系の忍者たち。

伊賀流忍者の里である伊賀市の中心駅ということでこのような意匠が施されているのだと思いましたが、期間限定なのかなと思いきやずいぶん前から続けているようなのですね伊賀市さん。



そして駅前にはポケふたがあるだけでなく、何と銀河鉄道999のメーテルと哲郎のブロンズ像まで。どういうことかと思って調べてみたら、2009年に伊賀鉄道が忍者バージョンに塗装された電車を走らせることになって、その描画を担当したのがかの松本零士さんだったというわけでした。駅名の変更(愛称名)やモニュメントの設置などもその流れだったようです。

そういえば松本零士さん、ほかにもどこかで鉄道車両に‥と思いおこしてみたら、北海道の旧池北線、のちのふるさと銀河線、廃止されてりくべつ鉄道(旧陸別駅構内エリアで体験運転&乗車)にも999のラッピング塗装車両がありましたね。あちらはまさに「銀河線」だったし話にも乗りやすかったんじゃなかったかと思いますが、案外こういうのがお好きだったんじゃないでしょうか故松本先生。



なお上画像は2009年夏に撮影したものなので、現在もこの車両が存在するかも含めて不明です。なおこの時は別の車両ですが実際に「運転」しました(この時です。動画もあり)。



名張市内のポケふたと、それを撮影中のおしんこどん。

このあとは近隣のポケふた(名張市)を経由して、R165をひたすら西進しておしんこどん実家に帰りましたとさ。

そして帰省の本分を十分に果たし(要は大したこともせずのんびりしただけ)、数日間滞在のあとのんびりと千葉に向けて帰りました。お昼頃出発での移動だったので東名の上り最終区間では少々渋滞しましたが、まぁこんなものでしょう。



なお全然関係ないことですが、新東名の静岡SA、ウォシュレットが多言語対応になっておりました。日本語を入れて驚きの12言語対応とは恐れ入りました。

というわけで夏のお出かけ後編の走行距離は2136.5km、前編と合わせた「夏の総お出かけ走行距離」は、



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