−パプアニューギニア− 来たぞラバウルへ

− その5 ラバウル市内東部&旧空港近く編 −



全ては君たちの「噴火」が一気に「やっちゃった」のね。

さて、いよいよラバウル市街が近づいて来るにつれて道路状況はどんどん悪くなります。昔から周辺で一番栄えていたはずのラバウルなのになぜ?と思われる方のために、ここでご説明いたしましょう(北海道大学教授島村英紀氏ウェブサイトより許可を得て引用)。
ラバウルはパプアニューギニア国の東ニューブリテン州の首府で人口は約10万人。1994年9月19日の早朝、ラバウル市の南端にあるタブルブル火山が噴火し、1時間もしないうちに、こんどはシンプソン港をはさんだ市の南西端にあるブルカン火山も噴火をはじめた。ブルカン火山の噴火は開始後急激に活発化し、流下距離は2kmと小規模ながら火砕流も発生した。やがてプリニー式噴火(大量の火山灰や軽石を吹き上げ、大規模なきのこ型の噴煙柱を形成する噴火)に移行した。噴煙柱の高さは約20kmにも達した。ブルカン火山が海際にあったせいで最大波高5mの津波が襲って船や沿岸部に被害を与えた。先に噴火したタブルブル火山もその後活発化し、噴煙柱は6kmの高さに達した。
この二つの火山の噴火によって、ラバウルの市街地一帯には最大6mもの厚い火山灰が積もった。火山灰は市の中心部を狙ったように降り、州政府や市役所や警察や消防がある官庁街と商店街を直撃して建物を押しつぶした。空港も廃虚になった。また噴火直後に熱帯特有のスコールが降ったために泥流と洪水が発生し、降灰の被害はさらに大きくなった。
しかし、これだけ大量の火山灰が市街地の広い範囲に降りながら死者の数が少なかったのは幸運であった。火砕流の規模が小さいうえに、たまたま火砕流は町を襲わなかったことと、火山岩塊や火山れきが降らず、毒性のガスもほとんど出ないで、細かい火山灰だけが雪のように降り積もったことが幸いした。
噴火がようやく収まったのは3ヶ月後であった。州の政治や商業の中心であるばかりではなく近隣の農業や漁業の中心でもあったラバウルが壊滅的な被害を受けたために、家や職を失った避難民は5万人に達した。


「1994年のラバウルの大噴火」http://shimpc.sci.hokudai.ac.jp/shima/94hunkareki.html
上記サイトのトップページ「島村英紀のホームページ」:http://shimpc.sci.hokudai.ac.jp/shima/
というわけでラバウルにはとんでもないことが起きていたのです。ラバウル手前では火山灰が舗装道路を埋めたままの砂道路、あれまぁこりゃどうなるのかなと思いきやラバウル市街に入っていくと、あれれ不思議なことに見た感じの町は案外に平穏。このあたりの建物も、94年以降に建て替えられたものとも思えませんでした。

ただこのあたりは町の西端にあたるエリアです。というわけでトラベロッジなどのホテルがあるはずの「中心部」へとさらに車を進めでいくにつれて‥とたんに家も人の姿もなくなっていきます。そして、本来のメインストリートである「マンゴー・アベニュー」に向けて右折すると‥そこには「廃墟と化した町」があったのでした。

上の写真を見て「何だ、大したことはないじゃないか」と思わないで下さい。5-6mもの火山灰が降ったのはこのあたりから南側の部分にかけてで、現在はこの道路周辺が火山灰土から掘り出されているだけなのです。もちろん両側の建物は現在使われていません。壁面に描かれたコカコーラの広告が哀愁を漂わせておりました。

そして同じ場所から撮ったのが右上の写真。道路から10段あまりの階段の上におしんこどんが立っていますが、噴火前のこの場所には映画館があったそうです。さぞかし多くの人々で賑わっていたはずのこのエリアですが、今となっては気まぐれに我々のような観光客が来るだけの場所となってしまっておりました。ほとんどの建物は屋根が抜け落ちていましたから、火山灰の積もった質量は我々の想像をはるかに絶するものであったということなのでしょう。

ちなみにいくつかのホテルは強固な造りをしていたからか屋根の抜け落ちなどもなく、また別の場所に新たに建てかえる資金もなかったからか?現在もこの廃墟の中でしっかりと営業を続けているようです。ラバウルトラベロッジやハママスホテルなどがその代表ですが、人気のない中で「ひっそりと?」営業を続けている様子は何だか不思議な感じでした。でもがんばれ!

なお、94年に噴火した火山の一つであるタブルブル火山は今でも10-20分に一度くらいの割合で噴煙を上げており、その様子は対岸であるココポの宿からも見えていたのですが(直線距離で約15kmくらい)、ここラバウル旧市街から火山はすぐそこです。というわけでこのあたりを見学中、我々もその噴煙の洗礼を受けることとなりました(笑)。右上の写真で上空にねずみ色の雲が見えますが、実はこれは雲ではなく、空を舞い降りてくる火山灰。この写真を撮ってすぐ、自分たちのまわりにも「ザザザーッ」という音と共に火山灰というか砂が一気に降り始めました。かなり激しい降りのように感じました。もっとも鹿児島市在住の方なら「これくらいたまにあるよ」と軽くいなすくらいのものだったかもしれませんけれどね(苦笑)。

さてここからは、旧ラバウル飛行場方面へと向かいます。空港と中心部を結んでいたはずの道路にはさらに火山灰が深く降り積もるようになり、鉄骨造りの電信柱も道のすぐ横でアメのごとくグニャグニャにねじれて使い物にならなくなっているのがあちこちに見えます(旧空港方面には現在誰も住んでいないため、かつての送電設備は全く使われていない@補修せずということのようです)。道幅(とりあえず通れるように火山灰を除去した跡)も完全に一車線となり、夕方近くなってきたこともあって何だかスリルがでてきました(笑)。ちなみに道に積もる火山灰の様子は、場所や道幅こそは全く違え、ナミブ砂漠最奥部のソーサスフレイ付近に何となく似ていましたっけ。

突然道の両側が一気に開け、大きな大きな広場に出ました。宿のガイドさんに聞くと、「ここが旧ラバウル空港なんだ」とのこと。とはいっても空港らしい何らの施設も見受けられません。それもそのはず、旧空港の施設は自分たちの数m下にそのままの形で埋まっているのです。「旧ラバウル空港」は戦前「東飛行場」と呼ばれ、ここニューブリテン島における制空の統括基地であったところ。かの山本五十六大将がブーゲンビル島方面に向けて最後に飛び立った場所でもあったのですが(山本機はその飛行中アメリカ軍により撃墜)、今はその面影すらも見ることはできなくなってしまったというわけです。

しかし我々はその旧空港滑走路を横断してもう少し南に向かいます。そこには日本軍の飛行機がそのままの状態で残されて火山灰に埋もれているというのです。椰子の林の中の小道(完全にフカフカ砂の林道状態です)をしばらくまっすぐ行ったところで右折、こりゃガイドなしで来たら絶対にわからないなという感じの細道をくねくねと入っていった、その先にあったのは‥。

このようなお姿の旧日本軍機でした。それにしてもこの飛行機、双発(翼の両側にプロペラエンジンがついている)なのは明らか、零戦は翼ではなく機首にプロペラが付いていますから、これは戦闘機ではなくもっと大きなやつのようですね。まぁ、私も知覧などで復元された零戦などは見ていますし、コックピットの大きさだけ見ても戦闘機サイズでないのは明らかだったんですが(左上写真、コックピットの前にうちらのドライバーさんが立っています。右写真の右側にも人が写っていますから、この飛行機の大きさを想像してもらう上で参考にして下さい)。

帰国後この飛行機の機種同定には多少迷いましたが、ラバウル関係の写真集を発行されている板倉昌之氏によるとこの飛行機は「九七式重爆撃機U型」だということで、何でも昭和18年に入ってからニューギニア戦線に使用されたということのようです。ふ〜む。

しかしこの機体は明らかに原形を留めているところからして爆撃で破壊されたのではなく、何らかの事情で出撃できなかったのでしょう。コックピットに近づいて内部を見ても、内部の損傷は思ったより(60年近く放置されていることを思えば)ひどくはないようでしたし。

しかし何よりたまげたのは、自分がここに来る前にイメージしていた風景とのあまりにも大きな懸隔でした。かねてから参考にさせてもらっていた、センリン社発行「ニューツアーガイド」(2000年第一版、現在絶版)の写真とは大きく違っていたものですから(↓)。



「ゼンリン ニューツアーガイドPNG編」から撮影者久保田修氏の許可を得て転載↑

上の写真を見るに、確かに主翼より後方の部分は欠け落ちています。でも現在との比較で目を引いたのは地面の高さです。この写真ではいわゆるコックピットが少なくとも我々の目線くらいの高さにあるように思えます。ということは、以前は少なくとも地上1.5m、いや、機体の大きさからするともう少し高い2mくらいの高さにあったのではないでしょうか。しかし、最上部およびすぐ下の写真を見てみると‥

コックピットの座席付近は人の足元(左上に人がいる)より下に埋もれています。エンジン部分だって、掘り出されなければほとんど地中に埋まっていたことでしょう。つまりこれが1994年の大噴火による大ダメージということなのです。

当然この爆撃機は噴火活動がほぼおさまった後に「掘り出され」たものです。これらの画像を改めて見てみると、この九七式重爆撃機残骸が「放置されているようできちんと管理されている」現実がわかることでしょう。地表面よりも下にある機体がしっかり見えているのですから。でもこの機体の周辺には、日の丸も鮮やかな戦闘機があと2機すっぽりと埋まっているそうで、さらにはしっかりしていたという防空壕も、たぶん地中にそのままの形で、噴火時最後の空気を内包したまま埋もれているのだとか。今となっては、それがこのあたりのどこにあるのかすら想像できません。そしてこの九七重爆の場所すら、地元の人から忘れられつつあるということなのです。

ガイドブックから転載させていただいた風景にもまして、植物たちの勢いはさらに力強くなってきています。椰子の木しかり、コックピット内の植物しかり。これからこの機体はどうなっていくのでしょうか。現状のように掘ったのはおそらく日本の援助によるものでしょうが、今後この状態を維持するのか(日々火山灰は多かれ少なかれ積もるはずですが。植物の繁茂も。)、それともさらに掘るのか(戦闘機や防空壕まで発掘する?)、そして全く別の選択肢として「このまま地に葬る」?

どうなっていくのか、どうしようとするのか、今のところ私には全くわかりません、ハイ。



さてこのあとは、PNG旅行決断時から常に思い描いていた目的達成に向けての「危険行動」です(笑)。今なおすごい噴煙を上げているタブルブル火山、その火口から直線距離でたった2000mしか離れていない場所でやりたがる「Takemaならではの行動」とは?

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