−パプアニューギニア− 来たぞラバウルへ

− その7 旧日本海軍ラバウル司令部壕 −



何気ない入口を下った地下には‥

最後の見学場所は、ラバウルの海軍司令部が置かれていた地下壕。何とあの山本五十六大将が「最後の夜」を過ごした壕だというのですから驚きです。このことから、この壕は地元の人から「Yamamoto Bunker(山本バンカー)」と呼ばれています)。

この壕は旧市街地の中にあり、94年大噴火の際には当然どっぷりと火山灰に埋もれたようですが、さすが地下壕、入口さえ掘り出してしまえば内部は全くもとのままということだったようです。ただし戦争後、壕内部の大部分は新たに作られた壁で封鎖されてしまったため、現在行かれるのはごく一部分だけになっています。しかしここまでタイプしてきてふと思ったんですが、封鎖した部分に土を入れて「全て埋め戻した」とは考えにくいよなぁ。ということは、現在入れるセクションの「壁一枚向こう」は、もしかして当時のまま?どうなんだろう?

さて、温泉を出発した我々はいざここ山本バンカーに直行する予定でした。しかし、宿に戻った後に楽しむべき酒類がなかった我々(いや、Takemaだけです)は、何とかラバウルで「部屋酒」の買い出しをしたかったのです。思えば今回のPNG旅行では酒類持ち込み禁止のハイランド地方を最初の目的地にしたばっかりに?、没収を怖れてたった900mlしか焼酎を持ち込まなかったTakemaだったのですね。というわけで今や手持ちのお酒はとうの昔に切れ、それなのに「宿のビールは高いけれど、宿の近くには買い出しのできるところもないしなぁ、さらに、ビールだったら買えるけれど、ビールばかりというのも飽きたし、かといって洋酒は飲まないしなぁ」というような「怪獣ダダ(駄々)」のようなジレンマに陥っていたわけですね。

蛇足ですが、思い出してみるとこれまでの最長不倒というか最大量のお酒持ち込みといえばネパール。あの時はペットボトル詰め替えで、確か1.8リットル×2の日本酒を「こっそり」持ち込んだんだっけ(しかも単独行)。しかも10日間くらいの日程、そのほとんどはトレッキングだったのに、最後の方は全て消費してしまったような記憶があります。うーん今考えるに、やっぱりただの馬鹿ですな(笑)。

というわけで話を戻しましょう。「自分が飲みたいビール以外のお酒といえば『ワイン』しかないっ!」という結論に達したTakemaは、旧空港を通り抜けたあたりで何気なく「次に見学する山本バンカーのあとでワインを買いたいんだけれど、ボトルショップか何かに寄ってもらえますか?」とガイド&ドライバーさんに尋ねました。そうしたら、彼らからは思いもよらない発言が!
「ワインを買える店はあと7-8分(17:00)で閉まってしまう!しかもその店は現在の市街の西外れにあるんだ。山本バンカーはここからすぐの旧市街(東側)にあるんだが、よしそれじゃ、まずはワインを買ってからまたこっちに戻ってくることにしよう、それでいいかい?」
「いやいや、そこまでワインにこだわっているわけでもないし、申し訳ないし‥」という日本人的な思いはともかく、ここはPNG。そう言ってくれるのであればその通りに従った方が絶対にいいと判断したTakemaが「もし可能ならお願いします」と言うやいなや、車は旧市街地から人々の多い現市街地へと、往路とは全然違うスピードで走り抜けたのでありました。ありがたい!

しかしうちら夫婦は知らなかったのです。この国ではワイン(ちなみにその多くがオーストラリアからの輸入)がかなり高いということを(悲)。考えてみればそうですね、国内でほとんど生産していない原料を使ったお酒、しかも現地の人からの需要もないお酒なのですから、安く売っているはずがないわけです。スーパーの中の「特設ワイン売り場用鍵付き個室(盗難防止?)」にてお値段を見てちょっくらたまげました、ハイ。でもまぁとりあえず日本人として手が届かないような値段ではなかったので(+ここまで来たので引っ込みがつかず)、しっかり白ワインを購入しました。ふぅ。でもまぁ、これで今夜はゆったりくつろげるゾ。

さて、そんなわけで「さっき通った道」を再び旧市街方面に戻り(本日二往復目)、いよいよ山本バンカーへ。ちなみに入口には鉄網のゲートが付けられていて、鍵はここ旧市街で根性の営業を続けている「ハママス・ホテル」が管理しています。貸し出し用の鍵が複数あるのかどうかはわかりませんが、そのうち一つはうちらのガイド&ドライバーさんがずっと持っていたよなぁ。ということは他に観光客は滅多に来ないということなんでしょうね(そもそも日本人以外は来ないでしょうし)。ではでは、中に入りましょう!。

地下壕の中にはかなり広い通路が延びています。壕の入口そのものは狭いのですが、下に降りてみるとかなり広い場所もあります。でも頭がつかえそうになる通路も多いです。そもそも数十年前の日本人は、平均身長からして現在より低かったわけですし、それよりも何よりも、居住空間でもない、移動することだけを目的とした通路は「腰さえかがめりゃ使用にたえる」わけですからね。

さて、このメイン通路からはいくつかの細い分岐がありました。そのいくつかをのぞいてみると‥

壁や天井に今でも残る作戦地図。壁そのものはリペイントされているようですが、壁や天井に張り付けられた地図は往時のままです。ここで要人が作戦会議を開いたということなのでしょうか。あの山本五十六さんもこの小さな(本当に小さな)部屋に‥?

この地下壕から出てきた頃には、ご覧の通りカメラのフラッシュが必要なほど暗くなり始めていました。ガイド&ドライバーさん、舗装路とはいえ夜道を送ってもらい申し訳ないねえ。しかもあえて往路とは違う尾根上のルートを通ってもらったわけだし。夕暮れの中にうっすらと見えていたブランチ湾、忘れませんよ。

さてさて宿に帰ってきました。遅くまで案内してくれた彼らには感謝するばかりです。しかも我々が宿に着くやいなやオーナー(白人)が「どうしてこんなに遅くなったんだ!」と彼らを叱っていました。あのぉ、遅くなったのは我々の妙なリクエストのせいなんですけれど。彼らには感謝の気持ちを込めて「ありがとう!」と共にチップを渡しました。だって道中も含めこの日帰りツアーは楽しかったし、彼らはよくやってくれたもの!(ちなみにTakemaは本来「アンチチップ」派です)。

宿に戻った後、前述の「無尽蔵お湯シャワー」をタンノーし、夕食も無事に終えました。おしんこどんはちょっと疲れたようでベッドに入っています。しかし、はるか遠くから何やら聞こえてくる歌声は何だろう?詳しくは次のページにて。

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