ウェワク周辺をうろうろっと。=ウエワク

さて、何といってもとてつもなく早い時間に着いてしまったわけで、少しはビーチリゾート気分を味わおうかと、ビーチサイドのテーブルでゆったりくつろぎます(おしんこどんはその間寝ていましたが)。部屋の真正面、宿泊者用歩道の向こうはもう砂浜です。う〜ん、プライベートビーチじゃないのさ!「冷えた」ビール(Wao!などを飲んでゆったりと過ごすTakemaだったのでありました。

11:00、ウェワク周辺の見物に出発です。本来ならばアンゴラムホテルの車で回るはずだったのでしょうが(うちらを連れ回したあとその日の宿泊客を乗せてアンゴラムに戻るという感じで)、前述したように宿の車は使えなくなったようなので、この日も現地で車をチャーター(もちろん手配してくれたのはジョセフィンさん)。どんな車かというと‥



うわぁ、ピックアップトラックですがな。NZなら荷台に牧羊犬が乗っているはず?

まぁ一応リアシートもありますから乗るには問題ありませんし、こういう車で「観光」するのもなかなかPNGらしくていいものです。どこでも入って行けそうですしね。

まずは市内を通り抜けどんどんと西へ向かいますが、さすがにウェワクは小さな地方都市、町並みはすぐに途切れてしまいます。メイン国道を離れ細い道を海辺のほうに向かうと、道沿いの湿地にマングローブ林が見えてきました。さらに進むときれいな川@汽水域に架かる橋が出てきましたので、ちょっと停めてもらって写真タイム。



河口から100mくらいのところに架かる橋の上から。
両岸にはずぅっとマングローブの林が続いています。

さらに進んでいくと、何やら整備された公園のような場所に出ました。さてここは‥

旧日本軍の高射砲などが保存されています。左写真にマウスオンすると「昭和十四年五月 奉天造兵所」の銘板が。

実は、ここウェワクはニューギニア戦線における最後の拠点でした。「最後の拠点」ということは、この地域では最後まで戦闘が続けられていたということを意味します。ということはすぐ上の写真のようにきれいな川べりでさえ、数十年前には川を挟んでの戦いが繰り広げられていたのかもしれません。戦争終結後60年近くがたち、その痕跡は表面上跡形もありませんが、私の個人的な知り合い@旅行会社勤務の方は、私がこの文章をタイプしているたった今も、PNG慰霊団一行の添乗員としてこの地に滞在しているはずです。つまり、まだ「戦争の記憶」を風化させないでお持ちの方がそれだけいらっしゃるというわけです。

Magendo1村のおじいさんだけではありません。日本にも、あの戦争を過去のものとして簡単に処理できない人達はまだまだ大勢いるのです。そしてこの時の経緯をを「学習」しなかった我々は、またも近視眼によって同じような「戦い」に進むのかもしれません。

ちなみにこの場所(ウォーム岬公園)は、ニューギニア戦終結にあたり当時の日本軍ニューギニア総司令官が降伏文書に調印、武装解除を指示した場所であるということでした。その時ここには様々な思いを持つ人々が様々に集まり、様々な思いのもとに調印の様子を見ていたはずです。しかし時は流れ、この日この場所にあったのは強い日射し、その日射しにあぶられてアツアツになった銅板による碑、そしてそよとも吹かない風(あ、これは「なかった」のか)、以上でございました。


続いてはウェワク中心部に戻りマーケットへ。前のサクサク特集ページにて、サクサク売りの少年の画像がありましたがこれはこのマーケットで撮ったものでした。しかしお昼過ぎということもあってあまり活気はなかったなぁ。

郵便局で切手を購入し(おしんこどんは手紙を書くのが好き)、そのあとすぐ近くのウェワク岬へ。岬の先端近くはこの地域でも高級住宅街のようで結構な邸宅が立ち並んでいますが、塀の上に有刺鉄線とか目立たぬようにガードマンがいたりとかで実はガードが堅そうです。何だかなぁと思いつつも、これがPNGにおける治安の現実なのでしょう。少々複雑な気持ちになりつつも岬の突端へ。

「うっはぁ、きれいな海だぁ!」これが岬から海を見た時の率直な感想でした。珊瑚礁の海の美しさとは違い、それでいて南国ど真ん中の青さをいやがおうにも実感せざるを得ない美しさ。まさに上の写真通りの色でした(注:画像には何らの補正もしていませんので念のため)。右写真のカヌー漁師さんは何度か網を海に入れていましたが(投網)、釣れている形跡はなかったなぁ。透明度が高すぎるんでしょうか?

しかしその一方で、左上写真に写っている小高い丘のある島(ムシュ島)は戦争終結後捕虜の収容所が設けられていた場所だということで、そうなるとただ「きれいだなぁ」と眺めていられるわけでもありません(どうやら温泉が湧いている島らしいのでその点では興味津々ですが)。


さて、続いては丘の上にある「ミッションヒル」へ。ウェワクを眼下に見下ろすこの地は守備の要衝として日本軍に早くから目を付けられ、ウェワク駐留日本軍の「天守閣」とでもいうような場所として、所有者であるキリスト系教会から接収したそうです。しかし敗戦後、この地この歴史を大切にしたいという教会聖職者の願いにより、この地はそのまま戦争記念公園として残されました。

確かにここからはウェワク中心部や海が一望できます。ちなみにこの丘のすぐ下(中央のバナナのあたり?)には高射砲が7門、当時のまま空にむけられているのだとか。しまった、あそこまで行きながら見逃しました!

しかし一番感銘を受けたのは現地慰霊堂に書かれていた次のようなことばでした。

「この英霊碑は1969年に神戸在住の西垣匡氏遺児によって、故ビショップ レオ氏の認可により建立されたものです。その後、故山田無文老師(妙心寺管長 花園大学学長)、笹川良一氏が参っておられます。特に山田無文老師は大勢の遺族と共に何回も来られました。又 英霊碑の文字は山田無文師が書かれたものです。この字は日本、アメリカ、オーストラリア、ニューギニアの将兵の碑となっております。

ここは私たちが草を刈っていつも美しくしております。西垣さんの住所は神戸市○○(以下省略)‥、なおこの碑はローマ法王も認知しておられます。この碑は西垣氏が2回目渡航した時に神戸の御影石で造って持ってきたものです。1968年に1回目の時は、ジャングルのなかは遺骨が散乱しており大きなショックを受けたそうです。それから8回にわたって渡航し、自費でこの碑を完成させました。1972年にこの姿になりました。それから多く、遺族の方がお詣りに来られるようになりました。」

ウェワク カトリック教会


(案内文の内容及び表現は一部わかりやすいように修正してあります)。

さて、同じ場所には慰霊碑(「英霊碑」)が建てられていました。石碑の上には当時の鉄カブトや機関銃などが載せられています。裏を見ると、「第18、20、41、51師団各参加部隊 遺児発起人代表 西垣 匡」とあります。ここではたと気付きました!

この慰霊碑を建立された西垣匡さんとは、あのMagendo1村で手ぬぐいに署名をされていた、あの方ではありませんか!(右上写真をクリックすると手ぬぐいの写真が出てきます)。Magendo1村での署名は69年の4月9日ですから、この碑を建ててからさらに内陸部へ向かったということなのでしょう。

1969年1月といえば私はまだ4才半、その頃に(まだ日本人の海外旅行については1回の外貨持ち出し枠がUS$700に制限されていた時代だと思います。持ち出し規制が撤廃されたのは昭和52年です)、かの戦争で命を落とされた縁者の方々、ひいては「日本のため」この地で命を落とした方々のことを決して忘れず、セピック川の奥深くまで足をのばされた氏の行動に深く敬意を表する他はありません。今とは比べものにならないほど道路インフラはひどかったでしょうし(というより、たぶん道路そのものが通じていなかったことでしょう)。

さて、その昔「戦争を知らない子供たち」という歌がヒットしました(私とて物心のつく前ですが、それこそよく「口ずさんで」いた歌です)。
戦争が終わって僕らは生まれた
戦争を知らずに僕らは育った
大人になって歩き始める
平和の歌を口ずさみながら

僕らの名前を覚えて欲しい
戦争を知らない子供たちさ
しかしよく考えてみると、戦争を知らずに平和を唱えるというのはある種の矛盾を内包しているのかもしれません。平和を唱えていれば平和でいられるというのは幻想にすぎないわけで、「見えない(見えなくなった)」守りに安住したまま「センソーハンタイ!」に固執する人ほど、いざとなるとコロリと言い方を変える人なのかもしれません。

そして何よりも大切なのは、我々個人とて他人をうらやみ、やっかみ、憎み、おとしめようという心があるということです。個々人にその心がある以上、つまりは個人対個人の戦争がある以上、利害の反目する集団対集団の争い、すなわち戦争がなくなることはあり得ないわけで(集団だけに話はややこしくなるばかりです)、そんな中でただ「平和が大切」と叫んでいてもそれは画餅にすぎないというわけです。

何かの一つ覚えのように「センソーハンタイ!」と叫ぶのもいいでしょう。でも、自分の中に戦争を呼び起こす何かがあるんだということを自覚すること、自分の中に邪悪な面があるということ、それを是認しない限り戦争はいつまでも形を変え品を変え起き続けることでしょう。そのような、我々自身が必ず内包しているどろどろした部分をあえて直視しない限り、いつまでたっても戦いは起き続けると思うのですが、いかがなものでしょうか?

さて、この日帰り観光から戻ってきた午後はまだまだたっぷり。よっしゃ泳ぐぞぉ!

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