60年前の現実、そしてたった今の現実。

− 第二次大戦と今とが同居するMagendo1村 −

ボートはその後エンストすることもな、く順調に次の村、Magendo1に向けて進んでいきます。さて次の村はどんなところなのかと聞いてみると、なんと次のような説明をされました。
「これから行くMagendo1村には、かつて日本軍に従軍して戦った経験を持つ老人が住んでいます。現在105才、日本語も少し話せるようです」
え、ええっ!戦争が終わって60年近く経つというのに、そのような方がまだご存命とはたまげるばかりです。ちなみに調べてみたところパプアニューギニア男性の平均寿命は日本と比べて20年も短い57.2才だといいますから、105才という年齢の真偽はともかくとしても随分長命でいらっしゃることは確か。そして、そんな方とイカレポンチ系の旅行者である我々(ん?)がいきなり面会できるとは、驚き桃の木以外の何ものでもありません。もちろんそんな方がいらっしゃるなどということも、事前には一切知らされていなかったのです。

というわけで、心を躍らせながらいざその村を目指すことになりました。



本流から離れ、細い水路を進んだ先にその村はありました。

さて、村に到着です。とはいっても事前のアポイントもなく(たぶん宿から事前の連絡はなかったと思います。そもそも電気も電話も来ていない村ですし、連絡不可能です)いきなり出向いてきた我々を、数人の子供たちと、この地域の名物ともいえるサクサク作りに精を出す女性が迎えてくれました(サクサク作りについてはあとのページで詳述します)。



最初はこれくらいの人数でした。それが‥

村の中をどんどん歩いていきます。と、見知らぬ訪問客に興味を持ったのか、あちこちから子供たちがどんどん集結してきました(大人達も何人か)。気がつけばいつの間にか「村の中を行く大行列」という感じになってきました。うわぁすごいすごい!

途中にあった一軒の家では川で捕った魚を焼いておりました。うちらのボートの船頭さんが買っていたようですが、あれって、あの家族の夕ご飯のおかずだったんじゃないのかなぁ?ま、なくなったらまたすぐ前の川で獲ればいいんだからあまり関係ないんでしょうかね?



坊や、ここまで焼けたお魚なのに食べられなかったねぇ。

さて、「日本語を話せるご老人」のお宅は村の奥の方にありました。建物の中から出てきたその方は、どう見ても105才には見えないほどにかくしゃくとしていました。本当はもっと若いのかもしれませんが、まぁ細かなことはどうでもいいでしょう。

さて日本からはるか離れたニューギニアの内陸、しかも数十年の懸隔をおいたこの状態で、はたして「日本語による会話」は成立するのでしょうか?
毎度おなじみ動画編

「最初の会話はこうでした」

会話といえるかどうかも怪しいやりとりですね(笑)。

Wmv形式、689KB、17秒


「いろいろと話しかけてくるご老人、しかし‥」

うーん、返事ができません。真剣に語りかけて
下さるだけに苦しいです。

Wmv形式、511KB、11秒
この対面のあとでオリバーくん(1 of 乗船員)が我々に対して質問してきました。「どうでしたか、あの人のことばはわかりましたか?」しかしその返事は「NO‥」というしかありません。すると彼は次のように言いました。「もう60年近くも使っていないことばだからピジン語(現地のことば)やローカルラングエージとごちゃごちゃになってしまっているみたいですね。年齢のこともあって、私としてもわからない部分がありましたよ。」と。

しかし、うちら二人だけはご老人の発言の中にしっかりとある日本語を理解していたのです。それはあの方が話し始めてすぐのこと、発言の中にはっきりと次のような語を聞き取ることができたのです。それは紛れもなくこれ‥

という一単語でした。聞き間違えるはずもないほどに綺麗な発音で、このことばはご老人による一連の発言の中に何度も発せられていたのです。おそらく約60年の時を越えて、このご老人の中には「日本=天皇陛下の国」という刷り込みがなされているのでしょう。そしてその背後に、当時の様々な出来事や経験、それらをもとにした日本に対する印象やイメージが「完成」した形で存在していることはおそらく間違いのないことです。

あの戦争を善とするか悪とするか。戦後しばらくは社会の「最先端知識人」がそれに対して一方的な判断(=悪)を下し、その次の段階としてはあの戦争そのものを口にすること自体をタブーとすることによって、少なくとも表面上の「平和国家」を維持してきたのがこの日本という国の一面だと思います(そして実はその過程において、民主主義を「声高に叫ぶ側」により「声の小さい組」の意見が無視されてきたことも一つの歴史的現実でしょう)。

しかしその一連の流れの中で、かつて戦前の国策に伴い様々な形で日本に関わった人達、特に戦争後も生き続けてきた人達のことはずっとおざなりにされてきてしまったのではないでしょうか。日本軍に積極消極の違いはあっても参加した現地の人、反発した現地の人、そして実際に戦闘に参加した連合軍の兵士達、そしてもちろん私たちの先祖にあたる方々。

戦後半世紀を優に過ぎ、戦争を知らない世代が圧倒的多数に達している今、今さら戦後処理云々、さらには物理的事情を伴わない補償問題などはもはや言っても仕方がないでしょう。現在においてあの戦争のことを改めて持ち出そうとする人々には、ある種の政治的な臭いを感じざるを得ません。今後大切なのは、かつてどのような残虐な事件があったかの検証について「過去の重箱の隅をつつくように探し、さらに懺悔する」ことではなく、「これからのお互いのあるべき関係を模索する」ことに力を費やすことであるのは火を見るより明らかです。

過去のことはゼロとはなりませんが、過去に対する後世代の憎しみやわだかまりの度合いはどんどん下がっていくはずです。タイの「戦場に架ける橋」と舞台となったカンチャナブリ戦争博物館前に書かれた「Forgive, but not forget」の言葉や、前マレーシア首相マハティール氏の「日本はいつまで過去にこだわり続けるのか、大切なのはこれからのことではないのか」発言などはそのことを如実に物語っていると思うのですが、いかがなものでしょうか。

話が随分個人的意見の方面にそれてしまいました。この村での出来事に戻しましょう。

このあと事態は急展開を見せました。話をしていたご老人は、突如として家のほうにとって返しました。聞くと「何か見せたいものがあるので取りに行った」ということ。ま、まさか戦争当時の品か何かが残されているとでもいうのでしょうか。緊張することしばし、ご老人が戻ってきました。「これだ」と見せて下さったものは‥

日の丸入りの手ぬぐいでした。しかも、よく見ると署名がされています。「1969年4月8日 西垣 匡」と書かれているようです。あとでわかったのは、この西垣さんという方は遺骨収集のためPNGを訪れた方々の中心的な人物であったようであり、Wewak郊外のミッションヒル(かつて日本軍の拠点となっていた場所。現在は平和公園になっている)に建立されている慰霊碑もこの方がお建てになっているということ。今から34年前にこの地を訪れた氏が、この手ぬぐいをご老人に渡した時のお気持ちはどのようなものだったのでしょうか(当時はPNG山中の至るところで、日本兵の遺骸その他が放置されたままになっていたそうです)。

さて、そんな感慨もつかの間、この手ぬぐいを見せながらご老人が何かを訴えてきます。聞くと「この手ぬぐいに書かれていることばの意味がわからないので教えてほしい」ということのようでした。うわ、いきなりそんな大役が回ってきたぞ(笑)。この地域に日本人が来ることはほとんどないという話は聞いていましたが、まさか数十年前の西垣さん手ぬぐいを翻訳することになろうとは思ってもみませんでした(あたりまえ)。

辞書はないのであまり自信はありませんが(もっとも最近は海外に辞書を持って出かけることがほとんどないのですが)、多分このような表現でいいのだろうかという感じの英語訳を紙に書いて渡します。周りの人が英文の内容を現地語で説明してくれたようで、ご老人も納得して下さったようです。はぁ良かったぁ。



懸命に英訳作業にいそしむTakema。周りの少年も真剣な目でこちらを見つめています。

さて先ほどの手ぬぐいに「須磨の浦」と書かれていたように、西垣さんは関西の出身だったようです。ご老人は、一行がこの地を訪問した時にパイナップルやマンゴー、パパイヤなどをふるまって歓迎したこと、自分もKobeやTokyoに行ってみたい(「行ってみたかった」かもしれません)ことなどを、それこそご高齢とは思えないほどに熱く弁じて下さいました(とは言っても一部にこちらの勝手な想像が混じっているかもしれません。ちなみにご老人の言葉の中で、我々が聞き取れた日本語は「天皇陛下」のほか「神戸」「東京」の3単語だけでした。一部は周りの人が英語で説明してくれたような気がします)。

いずれにせよ数十年前、この方は「突然現れた我々のご先祖」とこの地で出会い、この地には本来いなかったはずの「白い敵」と戦い、そしてその時の記憶を今に至るまで持ち続けている「生き証人」なのですね。この人にとって「戦後」はまだ終わっていないし、そして全世界の各地には、あの戦争についての直接的な記憶を持ち続けている人々が今なおたくさん生き続けていらっしゃるわけです。

戦後の日本はその人達の声をもっと聞き出すべきでした。それは自分たちの国がどんなにひどいことをやってきたかという過去を暴き出すためではなく(中には作為的な質問で過去をねつ造しようとした動きさえあったはずですから)、今後のため我々がどう行動すべきなのかを考える上で大きな指針の一つとなったはずなのです。

しかし、日本はそのチャンスをほぼ逸してしまいました。「国の命令で戦地に向かい、敵と直接的に向き合った経験を持つ人々」も、もうごくわずかな数になってしまいました。このご老人をはじめ、それらの方々が生きておられる時間ももうさして長いことではないでしょう。

これからを生きていく我々が、指針となるべき事実そしてその時の「思い」を知らぬまま手探りで前に進もうとしている今。世界各地でテロが頻発し、これまでの「平和社会」での常識が通用しなくなりつつある今。「非常」について学ぶことを怠った日本、そして世界がどのような方向に進んでいくのか、それは誰にもわからないのです。



さて、そろそろ村を離れる時間になってきました。し、しかぁし!(笑)。

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