(あまり意味はありませんが上ロゴマウスオンで英語表記に変わります)

− 2013 カムチャッカ旅行記その23 カムチャッカのクマ、そして民族と文化 −



出ました、カムチャッカといえばクマなのです。しかし、それだけに「事件」も多いようで‥。

で、続いてはご覧のとおりクマなのであります。この旅行の最初の方、ウゾンカルデラ内で野生のヒグマを見る機会がありましたが、こちらで飼育されている熊については後述するとして、まずはタイムライン順に話を進めましょう。

納屋にはトナカイの毛皮ほかいろいろなモノが置かれていました。これは博物館的展示品であると同時に、冬になれば「いきなり現役」となる品々と思われます。

で、こちらがいわゆる本家の「博物館」。前ページのトップ画像はこの小屋の中央柱を下から撮ったもので、右上画像を見るとしっかり「上から吊られたオオカミ」が見えています。

その右上画像にマウスオンすると、かのベーリング杯のルート図とおぼしき画像が出てきます。ちなみに今回、この広いカムチャッカでわれわれがうろうろしたエリアといえば‥


そうなんです。「カムチャッカに行ってきた」という旅行記サイトは数々あれど、そのほとんどの訪問地は上記地図の青丸内に集中しており、たまに南端部の「クリル湖」とか、そしてごくまれに中央部のエッソまで足を延ばした記録が散見されますがごくごくレアケース。そんなわけでカムチャッカ観光はまだまだ奥が深そうです。  

庭には高床式の構造物がありますが、これは先住民の伝統的住居‥ではなく倉庫なのだそうです。なぜ倉庫を高床式にしていたのかについては聞くのを忘れました(意味なし芳一)。で、さらに進んでいくと‥






そんなわけでヒグマなのです。カムチャッカのヒグマは日本のヒグマと近縁種なのだそうで(地理学的にもなるほどね)、カムチャッカには推定20,000頭が生息しているのだそうな。しかしどうやって推定したんだろう?カムチャッカの場合面積が広すぎるので‥(北海道のヒグマは2,000-3,000頭が生息しているということで、こっちの場合はある程度の推定根拠がありそうですが)。

しかし一方で、「ペレストロイカ以前は20,000-30,000頭が生息していたが、今は12,000頭くらいではないだろうか」と推測する学者さんもいるようで、その減少の根拠として「鮭の乱獲により熊の餌となる食料が減少したこと」を挙げています。経済活動の活発化が生態系にも影響を与えているというわけです。それについてはこのページで片鱗が紹介されています。2013年には95頭が射殺とは‥。

いずれにせよ熊と共生していかねばならないカムチャッカの住民なのです。しかしたとえば北海道で大正時代に起きた「三気別の羆事件」(詳しくはこちら)同様、ここカムチャッカでは今なおヒグマが人を襲うという痛ましい事件が起き続けています。2008年には「鉱山の事務所を集団のヒグマが襲い警備員2人が犠牲になる」という事件も起きています。しかしあまりにもセンセーショナルだったのは2011年の8月に起きた「クマがわたしを食べている」という事件でしょう。一応Takemaが抄訳してみましたので、英文ページの画像とともにお読みいただければ幸いです。


【「ママ、クマが今わたしを食べている!」。極限状況における19歳女性の叫び】

Pカムチャッキー周辺部に住むタチアナ(母)の携帯に突如かかってきた電話は、なんと自分の娘が親子計4頭ものクマに襲われているという悲痛なものであった。被害にあったオルガは19歳、彼女はクマに襲われ自らの死に直面していた約1時間のうちに3回、タチアナに連絡を入れてきた。

オルガは電話の向こうにいるはずの母タチアナに叫んだ。




しかしタチアナは最初オルガが冗談でも言っているのだろうと思ったという。しかし、携帯からは悲痛そのもののオルガの叫び声、そして熊のうなり声と何かをかみつぶす音が聞こえたことから、タチアナは「オルガが信じられないことに巻き込まれている!」とほとんど失神しそうになったという。

この日オルガは継父イゴール(タチアナの後夫=英語サイトに2人の画像あり)とともに釣りに出かけており、となればタチアナが取るべき行動の第一‥それはイゴールの携帯に電話をすることであった。しかし彼も電話には出ない‥。

タチアナにとっては知るよしもなかったことだが、実はこの時点でイゴールはすでに死んでいた。最初に熊に襲われたのはイゴールで、頭と首を一撃でやられ、その光景を川沿いのブッシュ越しに見た彼女は「大変だ、次は自分がやられる!」と約70ヤード(約60m)ほど逃げたようだ。そしてそこで熊に追いつかれ‥。

オルガからの2度目の電話は‥




やがて、最初の電話から約1時間後‥命の縁に立たされたオルガから「最後の電話」が鳴った。どうやら熊の家族はオルガから離れたらしい。が‥。



これが、母タチアナが聞いた娘オルガの最後の言葉だった。

約30分後、イゴールの兄弟、警察、ハンターのグループがイゴールの遺体を「捕食」し続けていた母熊を発見し、子熊3頭とともに射殺。ほどなくオルガも酷い状態で発見された。

悲しみに沈む母タチアナはこう語る。「オルガは将来に向けてさまざまな希望を持っていたし、彼女のこれまでの人生もステファン(彼氏)とのことも含めて幸せなものだったと思う」「オルガは明るい性格で優しく楽しい子だったし、気持ちがやわらかだった」。

オルガは音楽学校を卒業後心理学関係の研修生だったという。そしてつい数日前に自動車の運転免許を取得したばかりだった。

オルガと継父イゴールはその後それぞれ埋葬された。
(イギリス「Dailymail」サイト内の記事を抄訳しました)


そういえば、写真家の星野道夫氏が1人で野営中に熊に襲われたのもここカムチャッカのクリル湖近くだったそうです。

ただ、こういうことばかり書いてしまうとヒグマの凶暴性ばかりが強調されてしまう気がします。基本的には向こうも野生動物ですから人間との無用な接触は望んでいないはず、いや、「少なくとも人間の味を覚えたクマ以外はそうだ」とわれわれは思いたいのです。であるならば、クマの生息域にむやみに立ち入らないこと、クマにこちらの存在をアピールすることなどはやはり有用な手段であってほしいのです。

でも、それが「万全の対策」であるかどうかはわかりません。焚き火をしていれば大丈夫だろうと思っていたらその火を目指してクマがやって来たなんて例もあるようです。いわゆるクマよけの鈴も「クマに対する性善説」に基づく対策に過ぎないわけですし、やっぱり「絶対」はないと理解して行動するしかなさそうです。

話がそれましたんでゲージの中のクマの話に戻りましょう。ここには大クマ(立ち上がれば背丈は2mを超えるでしょう)が1頭と、それに比べれば小さいクマ(ただし小グマというには十分に大きいんですが)が3頭の計4頭が飼育されています。大失敗だったのは「ここでこれらのクマを飼うことになった契機」について伺うのを忘れたということなのですが(一番肝心なことなのに!)、まぁ気を取り直して続きを読んでください。

大きなゲージに入れられた大クマは「もう50-60歳」ということで年配なんですね。ただこの家の彼女は、かつてこのクマと一緒に森の中を散歩したことがあるのだそうな(びっくり!)。そうしたら、たまたま出くわした「事情を知らぬ方々」がとてつもなくびっくらこいたそうで‥そりゃそうだお礼に歌など歌っている場合じゃなかったでしょう(苦笑)。

こちらの熊たちは何だか優しそうな顔つきです。というか、わざわざこの女の人が来るときは基本的にご飯かおやつなのでしょうから「神妙にしていないともらいはぐれる」という熊生経験がこうさせているのかもしれません(笑)。しかし顔は穏やかでも右上の熊の指先にはしっかりと尖った爪が見えてますね。怒らせたくはないぞ。

さて、女性がそれぞれのクマに何かをあげ始めました。どうやらビスケット(ターニャさんは「ドーナツ」と言っていましたが)のようなものですから「おやつ」というわけです。3頭の小グマ(しつこいようですが「小」というのはあくまで相対的な表現ですよ)たちには直接口にくわえさせていましたが、大クマには「外に出していた手のひらの上に」載せていました。慣れた感じで食べていましたからたぶんいつものことなのでしょう。

そのあとはゲージの外に生えていた草をナイフで切り取り、またそれぞれのクマにあげていました。サラダという感じでしょうか。ヒグマは肉食というイメージが強いのですが基本的には雑食、つまり人間と同じですからね。そしてここで飼育されているクマたちが当然シャケをメインの常食としているであろうことは想像に難くありません。

そんなわけでクマ君たちの見学も終了です。あ、冬の間は冬ごもりさせるのかどうかとか、いろんなことを聞き忘れたことについてはご愛敬というか強制スルーしてください。最後に動画を1本。

みごとにおとなしいのにはちょっとびっくり。



帰り道の広い草原には雑草の「ガーラガーラ」が一面に黄色い花を咲かせていましたんでいつもの通りヨロコビます。
さて続いては、テントの中で焚き火をしつつ若い男性から民族についてお話を聞くことに。

こちらの皆さんはコリャーク族。現在カムチャッカ地方に居住するコリャーク族は約8,700人(ただしコリャーク語を日常的に話している人数ではなく血筋的に)。で、その内訳として「トナカイを中心とする遊牧で生計を立てる遊牧系グループ」と(北部に多いらしい=ツンドラにはトナカイが食べる苔が多く生えているので)「サケを中心とした狩猟を中心としたグループ」とにゆるやかに分類されているようで、それぞれに文化的民俗学的な違いがあるようです。こちらは狩猟系ということだからか、敷地内にはゴマフアザラシの毛皮などがまだ脂分が多少残った状態で干されていました(乾ききっていないので結構臭い=あとのページで出てきます)。

なお、コリャーク族についてはこちらのページがめっぽう詳しいですので是非ご一読を。



途中からは焚き火を使って料理開始。「昔は小麦粉なんて手に入らなかったですけれどね」というところから、このパフォーマンスが完全に観光用であることがわかりますがそれはまぁ言いますまい。

でも自分も子どものころは(当時のわが家が裕福ではなかったこともあって)パン屋からサンドイッチ用に食パンをカットした余り=耳の部分をもらってきて(無料)、よく母がそれを油で揚げてくれたっけ。それに砂糖を軽く振りかけたものが当時のTakemaおやつであり、かつこれが絶品でした!何だかそれに通じる感じというか懐かしい味です。左上画像マウスオンで「いただきます」とTakemaが手を伸ばす画像に変わります。

んでもって、左上画像は「ヤナギランの葉をを煎じたお茶」を注いでくれているところなのですが、このヤナギラン茶がなかなかいける味でちょっとビックリ。その昔(自分が小学生の頃)祖母にゲンノショウコ茶を飲ませられましたが、あの時の印象はただ苦かっただけ。このヤナギラン茶をあの時に飲んでいたらどんな印象を記憶したのだろう?

続いてはコリャーク族の踊りを拝見します。踊りを含むお祭りは村ごと順繰りに行い、しかも何やらの紐が切れない限り踊りをやめてはならないそうなのだとか。そのあいだ男も女も膝を曲げたスクワット系踊りを続けなければならないそうで、飲食は踊りながら摂り、トイレは30秒までと決まっていたそうです。なぜ時間制限があるかというと、それ以上足をのばした状態でいるといわゆるスクワットの状態に戻れなくなってしまうからなのだとか(究極の世界です)。

この男性は連続5時間まで踊り続けたことがあるそうですが、中には16時間踊り続けた「豪の者」もおられたそうです。そうしているうちに紐が切れると「次の村(の舞い手)に引き継ぐ」ことになったのだとか。ただし最近はPカムチャッキーの近隣にて各村合同で行うお祭りとなり、しかも紐にはあらかじめ切れ目を入れておいて時間短縮を図っているらしいんです。うーんいいのか悪いのか。

ただしコリャーク族のメインエリアはもっと北側(半島中北部から付け根側)なので、そちらの方に行けばたぶん今でもそんなエンドレスダンスが行われていることでしょう。問題はそのお祭りがいつなのかということです(行ってみたいですが一応サラリーマンだし)。

右上画像はそのダンスの一瞬を静止画で撮ったものですが、姿勢でいけばヤンキー座りの手前というか剣道でいえば蹲踞(そんきょ)の手前というか、とにかくその姿勢のまま左右に体を動かして数時間も踊るわけですから‥(あらためて感服)。



男性用及び女性用のフードをかぶって悦に入っているわれわれは‥いつもながらしょうもないっすねぇ。

トナカイの毛皮ベースで作られた民族衣装にはやっぱり北方民族共通の意匠を感じます。肌の色が同じ系とかはどうでもいいのですが、やっぱり接する中でどこかに「落ち着ける感覚」があるのは本能的なものなのでしょうか?

そんなわけでこの続きは次ページにて。
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