久々にいわき湯本の湯を頂きにまいりましょ。

(2012年10月21日訪問)

かの大震災から1年と7ヶ月が過ぎました。わたくしTakemaに直接の被害はありませんでしたが、震災前に訪問していたいろいろな地域でそれぞれいろいろな形での被災がありました。震災後、わたしもいろいろな方面に多少なりともご支援を続けてまいりましたが、現在のところ「継続的な直接支援」は停止しています。

要望があればそれもまた復活ありというところではありますが、やはり自分としては被災地を訪問しそこで少なからずうろうろし、何かしらのモノを買い、そしてその訪問記をこうしてアップしつつ「被災地に行ってお金を遣おう、行かれなければネット直販で被災復興中のサイトから直接買おう」と訴えるべきだと思っています。実際に自分もかなりいろいろなところで購入していますので、特に三陸の海幸については時折豊かな食生活を楽しんでいます。もちろん常時というわけにはいかず時折ですけれどね。

しかぁーししかし!ここしばらくの間で「自分の中で何かが変わりつつある」ことを自覚せずにはいられません。それは‥

どんなに悲惨な災害であっても、その直接の当事者でない限り「災害の記憶」とて必ずや風化しつつある運命にあります。これはわれわれが人間である以前に動物の一種である以上「己の利害に直接関わっていない事柄」に関して無頓着であることと無縁ではないでしょう。

わたしは震災&原発事故後、ある程度福島県を中心とした被災地を訪問した旅行記を更新してきたつもりです(ブログと違って最新情報云々を扱えませんが、そもそも旅行記サイトなので‥)。その記録についてはこちらにいろいろと載せています(できればそこからリンクされているGW編もご覧下さい)。しかし、実際行動としての東北訪問の頻度が減っていることもまた事実。

であれば、思い立ったが吉日というわけでちょっとお出かけしてきましょう。いざ福島、いざいわきへ!

そんなわけで常磐道を北上します。日立北ICを越えると車の数はぐっと少なくなりました(あ、バイクは電気系統に不調が見られるので遠出自粛中です念のため=早くきっちりチェックしてもらわなくちゃ)。左上画像の送電線、震災直後は切れていたような気がするけれど、それももうずいぶん昔のことのように感じてしまうところにも「記憶の風化」があるのかもしれません。そんなわけでいわき湯本ICにて本線から流出。

まずは湯本温泉を目指します。震災前から何度も来ている旅館こいとの湯をいただきます。ちなみにふと気づけば隣の「古滝屋」さんも長かった休業を乗り越えて営業を再開しているようでした。でも、原発事故後いち早く事故収束作業に携わる方々を受け入れた当時のこいとさんの気概を考えれば‥ね。

さて、実は全然気にしていなかったのですが、日帰り入浴タイムは10:30からなのですね。で、到着時の時間は‥

夢のトンネルを通り抜けた先にパラダイスがあります。おっとその前に脱衣場があったか(笑)。で、その脱衣場には次のような貼り紙が(右上画像マウスオン)。一時よりは減ってきた余震ですが、それでもまだそこそこの揺れはありますからねぇ。

で、てっきり一番乗りかと思っていたら、フライング入浴なのか、それともお泊まりの方なのかはわかりませんが先客さんが1名。幸い露天風呂に行っているようなので急いでパシャパシャ撮りましたが、あとで見たらブレブレ及び露出不足多数(苦笑)。焦ってバンバンするとろくなことはないですね。



そんなわけでかろうじてマトモだった画像です。結局先客さんはずーっと露天にいたので、落ち着いて撮ればヨカッタ。

お湯は含硫黄−ナトリウム−塩化物・硫酸塩温泉で、震災半年後の2011/9/12に再検査された分析書が掲示されていました。その分析書には「58.1度、強硫化水素臭を有する」とありましたが、これは源泉地での採取試料データなのでしょうね。「源泉を貯湯タンクに貯めず直投入」のスミレ館でさえもそれほど強い硫黄臭は感じませんでしたし‥(ただしそれは震災前の記憶ですが)。

湯っくり温まった上でロビーでいつものように冷水をいただき、しばし休憩したあとはそろそろお昼ご飯といきましょう。久々に小名浜港あたりを再訪してみましょうかというわけです。(あ、今回はあえて湯本駅近くの『海幸』さんには行きませんでした。だっていかんせん量が多すぎるので(苦笑))。

そんなわけで小名浜漁港界隈へ。2011/6に訪問した際はまだ信号も点いていない中、唯一「みなと食堂」さんだけが仮復旧させた店舗で営業を開始していましたが(その時の現地の様子はこちらから)、当時まだ片付けも終わっていなかった店々も今はほぼ営業を再開していました。

でも、この看板に地元いわきの方々の「声にならぬ思い」を感じざるをえません。原発事故の直後は情報が錯綜しどれが正しいのかもわからないまま(ちなみに避難上一番大切な情報が知らされなかったのは今さら言うまでもないことです)、いわき市内の方々も「洗濯物は外干しもできず外出も必要最小限、そして今後も見通せず」という「とてつもなく鬱屈した不安」にさらされたそうです(いまは更新を停止なさったいわき市内在住ブロガーさんから、当時の思いを綴ったメールをいただいておりました)。

そうなんですよ、生活インフラや見かけの建物は多少なりとも復活できても「心の復興」はそう簡単な問題ではありません(というか非常に困難な問題です)。そして現在において大切なのは、

とはいえ、「そんじゃあ心のケアってぇもんはどうやればいいのさ?」と思われる方もいるでしょう。別にカウンセラーでも何でもない自分に何ができるのか?考えても思いつかないし、そもそもいろんな事情で現地に赴くことのできない人が圧倒的多数だと思いますし。でも、支援というものは全然難しいことではないと思うのです。

支援は必ずしも「現地で直接」である必要はありません。被災地の方々を直接笑顔にさせるのは「あなたしかいない」という必然性もありません。それはきっと誰かがあなたの代わりにやってくれています(そう信じます)。

たとえば、現時点において仮設住宅に住まわれている方々が求めているのは震災前(に近い)の「日常」だと思います。もちろん巻き戻せる時計と戻せない時計があるのは承知していますが、少なくとも「かつての日常に近い」生活を営む大前提として「仕事があるか否か」は重要なファクターだと思います。

例として、震災前の三陸沿岸地域は、ただ単純に漁港があって毎日水揚げがあり、そこで獲れた魚をそのまま消費地に運んでいたわけではありません。もちろんそのような「鮮魚」の扱いもあったでしょうが、気仙沼にしろ石巻にしろ、そこには「水産加工」という大きな産業が存在し、そこで働いていた方々(多くは女性)は各家庭の生活経済の一助を担っていたわけです。

今はまだ一部にとどまる再開加工場ですが、これからどんどん再開(再建)されていくことでしょう。しかしそこに「需要」がなければ加工場も地元の方々の生活も成り立ちません。となれば、われわれが需要の一端を担えばいいんです。今やまさにネット時代、

本題とそれた話が随分と長くなりました。で、今回のわたしはその界隈に来ているということで「ここでお昼を食べればその分だけ現地の経済が回る」というわけです(大げさな表現ですが「塵も積もれば山となる」という意味でご理解下さい)。そんなわけで、やっぱり漁港ですから海のもんですよねということで‥

2Fの市場食堂へ上がろうとしたところで、1Fの別のお店からポジティブなお誘いを受け、小心者ゆえそちらにスルスルと引き込まれてしまいました(笑)。で、海沿いランチの定番である海鮮丼かなと思っていたのですが、この時はついつい浮気して?大トロ丼なるモノを頼んでしまいました!(ご飯の量はいつもの通り減らしてもらっています)。




(ちなみに上画像マウスオンで拡大画像に変わります)

やっぱり海鮮丼にするんだったとしみじみ。ちなみに正午を回ると店内は満員の大盛況となっていました。マスツーリングのライダーさんたちも大挙して押し寄せ、よしよしこうでなくちゃ。そんなわけで次回はもう少しローカルのお店を探ろうと思います(このお店がどうというのではなく、やっぱり「満遍なく」ということでね)。

このあとは塩屋埼を目指します。塩屋崎南側の豊間地区は津波で壊滅的な被害を受け、死者行方不明者合わせて85名、2011年の6月半ば段階でも地区内への車両立ち入りが出来なかった場所でもあります。



県道沿いには今も傾いた標識が。そして豊間地区は、これまでさんざん目にしてきた「土台だけの更地」になっていました。

慣れって恐ろしいです。震災後初めてここいわきエリアを訪問した時には車を運転しながら「涙で前が見えなくなり危険を感じて停車」したこともあったというのに、その後多くの津波被災地を目にしてきた今となってはここ豊間集落の跡地を平静な気持ちのまま運転する自分がいたりします。これも風化?いやそれは違う、上にも書いたとおり「巻き戻せない時間」を自分の中で受け入れただけです。

でもだからこそ、この地区に住まわれていた方々の為に間接的に何ができるかと考え、行動に移すことが大切。自分ができることをする。自分がこうしてこのページをアップしていることも、間接的にでもお役に立てればいいなぁという思いを含みます。でも、

そんなわけで塩屋埼までやってきました。駐車場に車を止め、さて灯台へと‥うわ、階段を少し上がった先には「通行止め」の看板が。まだ灯台へは上がれないままなんですね‥。駐車場のそばには美空ひばりさんの歌碑があり、「みだれ髪」の曲が流れていましたが、そのすぐ海側を見てみると(左上画像マウスオン)‥まだまだここも「災害復旧の現場」なのですね。

そうそう、今回初めて知ったことです。お恥ずかしいことですが「塩屋崎」ではなく正式には「塩屋埼」なのでありました。もっとも地元の施設も「崎」を使った名称が多いようですが、少なくとも今後拙サイトでは「埼」を使っていきます。「しろうま」が「はくば」になってしまった愚挙を繰り返してはなりません。まぁそんなわけでここからはさらに四倉方面へと海沿いを北上します。
【無駄コラム 「白馬岳」】

「白馬村」は「はくばむら」だし「白馬駅」も「白馬乗鞍スキー場」もみぃんな「はくば」です。村民の皆さんにとっても普通に「はくば」なのですが、「白馬岳」は「しろうまだけ」。そもそも山名が「春先に山肌に残る残雪模様=苗代掻きに使われていた馬」を意味していたわけで、「代掻き馬−しろかきうま−しろうま」というわけです。

だから「しろうま=はくば」では決してないのにもかかわらず、語の響きやイメージを優先させた結果、いまや山屋さん以外は「はくばだけ」になっちゃいました。近年の市町村合併による地名変更もあまりに酷い名前が多くて‥(どこの自治体とは言いませんが、市長や議員の見識を疑う名前もありますよね、「その木の花は春になるとほとんど日本全国で咲くのになぜ?しかもひらがな?」とか)。

海岸沿いの学校の校庭は瓦礫の集積場となっていました。そしてその界隈の住宅地は、一部こそ残っていましたがやはり住める状態ではないようで1階にはコンパネが打ち付けられていました。2012/10現在もこの地区は「地区としての命」を断たれたままでした。でも、同じ地区、同じ形ではなくても「できるだけ同じコミュニティ」だけは維持して欲しい!政治も行政も、そこを第一にして復興を考えて欲しいと思います。

そんなわけで道の駅よつくらまで来てみたら、あれれ前回と様相が違うぞ、駐車場の位置も違うし?

しっかり新たな道の駅の建物が建てられていました(前回訪問時は右上画像の仮設テント施設でしたから‥)。で、日曜日ということもあって大にぎわい。でもあのぉ、販売エリアの設計というか配置というかが間違ってませんか?狭すぎです!仮設の方がゆったり買えましたよ(笑)。でもちゃんと地元産の新米を買ったのはいうまでもなしっ!(右上画像マウスオン)。

さらに久之浜へと北上します(あ、大した移動距離ではないのですが)。ここもひどい被害を受けたエリアであることはいうまでもなく、震災1年後の2012/3/11に訪問したんです。あの時の太鼓の響きはいまでも忘れません(詳しくはこちら)。



まずは鎮守様にご挨拶いたしました。いち早くこの神社を再建した地域の方々への思いに報いるためにも。



もう詳しくは申し上げますまい(上記リンク先をご覧下さい)。この日の久之浜には乾いた風が緩やかに吹くばかりでありました。

でもその一方で、しっかりとした足取りで新たな道を歩き出した方も。JR久ノ浜駅のすぐ近くに、かの震災のちょうど1年後となった2012/3/11に再開店した地元の菓子名店「梅月」がそれです!

震災&津波、またその絡みで起こった大火によりかつてのお店は失われ、またここでは詳しく書きませんが親族の方も‥。それでもご主人は日々海岸のさまざまなモノ(という名の思い出)を片付け続けていたそうです。そして震災から1年のその日、一部にかつてのお店の部材を使って新たな場所に店を構える‥。この時はうっかりしていてご主人とお話しする機会を逸してしまったのですが(そんなのばっかしと突っ込むなかれ)、そのバイタリティたるや凄すぎます!

そんなわけで名物のかしわ餅その他を購入したことはいうまでもありません。かしわ餅の写真を撮らなかったのは返す返すも失敗でしたが、もちろん美味しくいただきました。なお営業時間がちょっと特殊というか、7:30開店はともかく閉店が14:00とかなり早めなので訪問時には注意が必要です(わたしが訪問したのは13:45頃、アブナカッタ)。

かしわ餅のほか「殿上」も購入しました。で、このあとはふと思い立って久之浜の漁港へ初めて行ってみました。港内には思いの外多くの漁船が係留されていてちょっと意外でしたが、あとで聞いた話によると「地震の直後にほとんどの船が沖に避難して難を避けた」のだそうです。

しかし、「船は無事でも海が無事ではなかった」のはご承知の通りで、出漁が自粛されている今、港には全く人影すらありませんでした。1日も早く、何らかの形で漁が再開されることを祈るしかありません。

続いては内陸側へと移動して、自分が知る限りこのあたりの鉱泉宿では唯一日帰り入浴可能な谷地温泉田村屋旅館さんへ。谷地温泉のもう一軒の宿である石川屋さん同様、作業員の方々を受け入れているのでまだ通常の宿泊は出来ませんが、日帰り入浴は(タイミングにもよりますが)何とかOKというわけです(でも事前に電話で可否を確認してください。平日は特に=0246-82-3355)。

そう書きながらも実はアポなしで突入したTakemaをお許し下さい(苦笑)。玄関で声を掛けると、出てこられたのは若旦那さん(これまでは「息子さん」と記載していましたがTakemaの中で勝手に呼び名を昇格させました)。「お久しぶりです、Takemaです」と挨拶をするとすぐにわかってくださったようでヨカッタです。入浴について伺うとお風呂の状況を見に行かれた上で‥

やっほー何たる僥倖、新鮮そのものの鉱泉湯に一番乗りとはっ!聞けば、作業員さんたちの出発&帰着時間がそれぞれ違ったりするので、時間を掛けた掃除はなかなかできないんだとか(湯の入れ替えとかはなさっていると思いますが)。この日は日曜日でしたが日中の予約(法事のお清めとか食事宴会とか)が入っていなかったので「チャンス!」というわけで徹底お掃除になったということのようです。

そんなわけで準備も整ったとのことでいざ浴室へ郷ひろみよろしく哀愁っ!(古)。

記憶の通りの浴槽です(そりゃそうだ)。でも、浴槽よりも何よりも、この湯こそが谷地鉱泉の真骨頂。源泉温度こそ18.0度ということで加水‥じゃなかった加温してますが(ホントに間違えてタイプしました(汗))、PH10.1のアルカリ泉でツルヌルの浴感がたまらないのでありますよ。

さらにはこの蛇口からトロトロと流し込まれている非加温の源泉たるや、前回の訪問記にも書きましたがツルヌルを通り越してもはや「ヌルの領域」(笑)。冷鉱泉だからといってなめてはいけませんっ!(右上画像マウスオンで掲示されていた貼り紙画像に変わります)。ちなみに今回は湯に浸かるだけでなく頭から足先までぜーんぶ源泉で洗ったのですが、「Takemaの、細い&少なくなりつつある頭髪」はそれこそさらっさらになりました(何のこっちゃ)。



ちなみに源泉井はお宿の庭にあったりしますんで、お隣の石川屋さんともども独自源泉です。

さて湯上がりには若旦那さんとしばし歓談。春(2012/3/11)に訪問したときと比べて大きな変化はないけれど、近々この地域でも除染作業が始まるのだとか。正直言って「まだ除染されていなかったんだ‥」というのが本音でした(いや、除染されていようがいまいがわたしとしては問題なく普通に来るのでありますが)。

ちなみにいわき市の公式サイトの発表によればここ谷地鉱泉周辺の放射線量は「0.21」、ただしこれは今回の訪問より3ヶ月半前、2012/7/19現在のデータです。しかし震災から約3ヶ月後(2011/6)に訪問したときには若旦那さんから「公式発表は地上1mでの計測ですから0.3くらいなんですが、これが地上10cmくらいだと0.6くらいに上がるんですよ」と伺っていました。

ちなみにいわき市サイトの線量マップを見ても、ここ谷地温泉から約2.5kmのところにある藤景山地蔵尊付近(常磐道のすぐ近く)では同じ計測方法でも0.43を記録しているようで、やはり同一エリア内でも線量値にはムラがあるようです。

また、一般宿泊再開の見通しについても伺いました。現在長期宿泊なさっている作業員の方々は主に広野火力発電所6号機の増設に携わっており、2012年末に完工&稼働するタイミングがひとつの目途ではないかということでした。ちなみに、作業員の方々は長い人ではもう1年以上ここに滞在しているそうで、そうなるともう「家族」ですね(笑)。若旦那さんいわく「皆さんがとてもいい方ばかりでありがたいです」。うーんやっぱりいいなぁ谷地鉱泉!お湯もいいけれど感謝の心をさらりと表現できる‥本当に「人がいい」!

そのほかいろいろな情報を伺いましたが、書いてしまって(公開して)いいものか躊躇する内容も含まれますので(笑)ここでは伏せておきましょう。へぇ、あそこの人たちは避難しなかったんだ、とか(笑)。

だいぶ日も傾いてきた中、田村屋さんを辞去して帰路につきます。県道を南下していく途中には庭の植木を剪定する人、犬を散歩させる人等、ごく普通の午後の時間が流れていました。そんな光景を見ながら運転するのは‥何だか楽しかった!皆さんがあたりまえのようにごく普通の暮らしをなさっているように思えて‥。

でもそれでシャンシャン@めでたしめでたしと日本むかし話的に終わらせるわけにはいきません。右上画像の県道35号線には「浪江 58km」と記された看板がありますが、道はつながっていても実際に浪江町に行くことは出来ないのが「現実」であり、また除染の効果がどこまで期待できるのかという不安もあり、広野町には5246人もの住民登録がありながら2012/9/20現在493人しか戻ってきていないのもこれまた「現実」です。そして汚染土をどこに保管するかを巡っても未だに堂々巡り、これも残念ながら「現実」。

いろいろ言いたいことはあるのですが、拙サイトはあくまで旅行記サイトなのでここではあえて語りません。でも1つだけ。

いわき四倉ICから高速に乗って帰途につきました。秋の夕方の日射しが正面に眩しく、あの地震もあの事故も何もなかったようにも思えてきます。しかし、こうしてタイプしている今もなお原発の収束作業は続き、除染作業も行われ、そして周辺地域の人々が「言葉にならない不安」を抱きつつ日々を過ごしているというのもまた事実なのです。「3.11」から1年と7ヶ月、復興が少しずつ進む現地で、何だかかえってしみじみとした思いに至りつつ、「この先大渋滞」の常磐道を南下していったのでありました。

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