「あの日」から1年ゆえ、いわきに出かけてきました。

− その2 久之浜編 −



あの日のこの時間、この場所は地獄さながらの惨状だったのでしょう‥今はただ手を合わせるのみ。

この日はもともと久之浜を訪問するつもりはありませんでした。前ページで書いた菓子店本日開業という情報に惹かれて訪れたわけですが、旧国道6号沿いはそれほど大きな被害が見られなかったにもかかわらず、久之浜駅前から海に向かって進むと、いきなり風景が一変しました。



「うわぁ‥街がいきなりなくなってる‥。」

そこには、2011夏に三陸沿岸を走ったときと全く同じ光景が広がっていました(その時のことを紹介しているページはこちらから)。瓦礫はすでに取り除かれて久しい感じで(当然)、そこに夏草が生えそして枯れ、何だかもの悲しい光景が広がっていました。でもこの地この場所には、1年前のこの日まで間違いなく多くの人々の「ごく普通の営み」があったはずなのです。「ここに故郷あり」の幟がはためく様は、同時に「故郷ありしこの地を忘るなかれ」というレクイエムのように思われました。

と、この日は大震災から1年という特別な日ということで、ここ久之浜の被災地でも「亡くなられた方々の御霊を慰める」祭礼が行われておりました。



更地となった住宅街を、鉦や太鼓を鳴らしつつ移動する「じゃんがら念仏踊」の皆さん。

「じゃんがら念仏踊」とはいわき市の無形民俗文化財にも指定されている郷土芸能で、通常はお盆の時期に新盆を迎えたご家庭に訪問して鉦太鼓を打ち鳴らしながら踊る鎮魂慰霊の行事なのだそうです。この日はもちろんお盆ではありませんでしたが、ここ久之浜で命を落とされた方々(63名の方々が亡くなったそうです)の一周忌ゆえ舞うことになったのでしょう。
【久之浜被災地を進むじゃんがら念仏踊】
ちなみにじゃんがら念仏の皆さんのみならず、この地に縁のあった方々がかつて家のあった場所を訪れ、それぞれに花を手向け手を合わせておられました。去年のほぼこの時間、この地は阿鼻叫喚の悲劇に見舞われたはず。そしてこの日ここにおられた皆さんの多くが何らかの形で被災なさっていたわけで‥たまたま訪問したTakemaはこれ以上言いますまい。でも一つだけ‥。

もっとも、そんな自分もなかなかここ久之浜ピンポイントへのお手伝いというか支援はできないんですけれどね。でも遠く離れていても、各被災地への間接支援は可能です。ネット通販で例を挙げればたとえばこんなサイトもあります。要は地元経済の活性化こそが継続的支援につながるわけですから、このサイトに限らず是非!

さて話を戻しましょう久之浜です。この日は日が射したり曇ったりはたまた小雨がパラリという不安定な天気でしたが、幸いなことにここでは時々日が射すまずまずの天候でありました。そして1年前のあの日、目の前の海が容赦なく乗り越えた堤防上には‥

焼香台。不幸にして亡くなられた方々に手を合わせる方向はやはり住宅街ではなく海なのですね。そしてその海に続く護岸には今もいくつも残る岩や防波ブロックが。もしかして?とふり返ってみると、やはり元住宅街にも不釣り合いなほど大きな岩がゴロンといくつか転がっていました。なるほどこれほどの波パワーが押し寄せたのでは、残念ながら街はひとたまりもなかったはずです(残念)。もちろん手を合わせた上で、じゃんがらご一行とは別方向で何やら音のする方向へ歩いていくと‥

こちらでも慰霊の太鼓が鳴り響いておりました。ちなみにこの日はいわき市内を多くの団体が各所を移動しながら慰霊を行っており、この日最初に湯本駅前商店街で見た沖縄エイサーの皆さんも実はかなりあちこちを回っていたようでした。

で、この会場の先の堤防上には‥

三・一一 東日本大震災で失われた尊い命 私たちは皆さまを忘れません。心よりご供養申し上げます。
またそれぞれにご家族の歴史が刻み込まれた家々が津波や火事で失われたあの日を私たちは忘れません。
久之浜の元気でおだやかな日常を再生するために皆んなで力を合わせて努力することをお誓いいたします。
どうぞこの海の彼方から 久之浜の復興をお見守り下さい。

 
安らかにお眠り下さい
平成二十四年三月十一日
久之浜 千日紅の会
ふぅ‥。波打ち際まで延びた花の帯、それはまさに1年前のこの日に亡くなられた皆さんが海から戻って来られる「花の道」。なるほど、だからここでも海に向けてのご供養なのですね、ようやく理解できました(鈍感Takemaでごめんなさい)。そんなわけでこちらでのご供養&復興太鼓を動画でどうぞ。
【海に向かい鎮魂の太鼓演奏】
後半の動画でリーダーとおぼしき唯一の男性は白人男性だったように見えました。英語のサポートティーチャーさんかも知れませんが、少なくとも今グループのリーダーとして一緒に太鼓を叩いているということは、間違いなく震災前からこのいわきでお仕事をなさっていたはず、そして震災&原発事故後もこの地を離れなかったからこその太鼓リーダー。「ありがとう、嬉しいです!」と勝手に思いこんで感謝していたら涙腺も勝手にウルウルしました(笑)。

このあとは国道6号を南下して四倉へ。四倉港の南側には「道の駅よつくら港」があったのですがここも津波で壊滅したのでありました。2011/6/13には埠頭の上に打ちあげられた船がそのままでしたが(その時の様子はこちら)、その後道の駅が仮オープンしているという情報を聞いていたので「ぜひ寄らねば」の思い満々だったのであります。

道の駅入り口を曲がるとすぐにイベント用テントがありました。ん?しかし左上画像の右奥に見えているのは「津波で廃船になった船の残骸」。あれは「震災の記憶」としてしばらく残すつもりなのでしょうか?いや、でもすぐ北側の四倉港は前回訪問時にあった沈船こそ見えなかったものの漁港としての復旧作業は一切行われていないようでしたから‥臨時の仮置き場なんでしょうね。でもここで忘れてはいけない大切なことが一つ。

「今も福島の漁師さんは地元の魚を獲ることができないままなのです。」
(そしてさらに残念なのは、その再開見込みが全く立たないことだということなのです!!!

たとえばこの地域に生息するアンコウ(鮟鱇)は海底に生息する魚ゆえ、今回の原発事故で海に放出された放射性物質の量を考えれば当面市場に出回ることはないでしょう。そしてその「当面」とは下手をすれば数十年という意味で‥(何の科学的根拠もないこの予測が大外れすることを期待しますが)。

悲しいことだなぁ、目の前に広がる「豊饒なるはずの海」が少なくとも今は「疑惑の海」になってしまっているって‥。あ、また話がそれましたね、道の駅の話でしたよね(確信犯)。

そんなわけで駐車場まで進むとその先にはこれまた体育館系の大型テントが目に入ってきました。あ、あれだぁ!仮設店舗っ!

あくまで仮設ゆえ設備も規模も立派ではありませんが内部には活気が溢れ(右上画像は全体像を撮るために一番お客さんが少ないときに撮影したものです)、見ていた限り最大でレジには5-6組が並んでいました。そうなのよそうなのよ、上の方でエラソなことを書きましたが実はこの日は海鮮定食とお風呂代しか遣っていないわけで、地元に貢献するためにもここで地元の物を買わないではいられません!

そして気がつけば‥「きゅうりの漬けもの、めひかり塩チョコレート、瓶詰めトマトジュース720ml、瓶詰め梨ジュース720ml、豆乳500ml、トマトのジャム、お菓子*2、地元珈琲店が挽いたコーヒー豆、玉こんにゃくパック、生なめこ」等々、気がつけば購入金額は\5,848でありました。ちなみにすべていわき市内の個人及び事業所産です。

「地元に貢献といいながらたったそれだけ?」とおっしゃる方もおられると思います。でも「無理をして必要ないものまで買い込む」必然性を私は感じませんし、そんな購入形態は決して長く続けられないでしょう。この購入に限らず、これからの被災地支援に一番大切なのは、

拙サイトのこのページをご覧下さっている方々にはそのあたりをよーくご理解いただき、福島はもちろんですが東北の太平洋沿岸各地域、そして今やほぼ忘れ去られている長野県栄村(長野県北部大地震)などの被災地へ今後とも手を差しのべて下さいませ。

さてお買い物のあとイベント用テントの方に歩いていくと、そこでは何やら細い丸太に何かを載せているスタッフの方がおられました。見てみるとそれはキャンプでよく使われる着火剤、そして各丸太には火の通りをよくするべく数方向にチェンソーで切り刻まれたラインが。

「こ、これって1つ1つがネイチャーストーブモードなんですね!」

最初はわかりませんでしたが、見る位置を変えて眺めてみたら‥「絆」という字になっていました。

震災及び原発事故から1年が過ぎたにもかかわらずまだまだ復興への道のりは遠い浜通り南部のいわき市北部。でも「一周忌」にあたったこの日、現地の方々のさまざまな暖かさはもちろん「一つの区切り、そして再出発への思い」を大きく感じたのも間違いなき事実です。

自分はたいしたこともできませんが、これからも被災地、特に福島にはどんどんお出かけしたいと思います。今食べているお米も福島米ですし、今夏の桃も買いに行くぞー食べるぞぉっ!

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