常磐線の原ノ町−相馬間はたった4駅区間ながら折り返し運行されています。せめて早く仙台方面とつながってほしいぞ。

(2015年3月15日 その2)

さてそんなわけで鹿島駅を起点に国道6号を南に下っていきましょう。2014年10月連休時の逆コースです。新規開通の常磐道区間とは違って、沿道の除染も必要最小限でしょうから線量は明らかにこちらの方が高いわけで、国道再開通時の河北新報の記事では「最大線量値は大熊町内で17.3μSv/h」ということでした。その後の自然減衰は多少あったかもしれませんがそれにしても高い数字ではあります(雨水の移動により逆に高くなった場所があっても不思議ではありません)。

だからあえてこの道を通るというのは各自の判断でということになるでしょう。その場合、わたしにとっては「危険だやめろ」というのも「問題ない大丈夫だ」というのも、あえて言えば「余計なお世話」です。そしてその余計な発言を「無責任にする人」が世の中に多すぎるんだよなぁ(大笑)。もちろんわたしは未来の自分の身に何があったとしても誰にも責任を求めるつもりはありません。ま、細胞に年輪のようなものがあるわけでもないので、低線量被曝とがん等との因果関係を特定できるほど今の医科学は発達していないと思いますが(笑)。



原町地区の道の駅南相馬までやって来ました。駐車場はほぼ満車、そして直売所もかなりの盛況で、複数あるレジにはそれぞれ何人もの会計待ち行列が出来ていました。ここでおしんこどんの「お米買ってきてね」という指令に基づき福島県新地町産のお米を購入。会津産のお米も売られていましたが、やっぱりここでは浜通り産のお米でしょう!

震災の年の2011秋も川俣町近隣産のお米を買いに来ましたが、震災後わが家で食べるお米の産地は福島米の比率が相当に高くなったと思います(福島訪問の頻度が上がり、かつ福島に行くとかなりの確率でお米を買ってくるため)。これは「福島産のお米その他に関する風評被害そのものが風化するまで」ずっと続けるつもりですし、たとえそれが完全に風化したとしても相変わらず買い続けていくんじゃないかと思いますが(笑)。



さて南相馬市の南部である小高地区、そしてその南にある浪江町沿岸部は「避難指示解除準備区域」となっています。日中の立ち入りは可能で、特に小高地区では2014/12に「おだかのひるごはん/双葉食堂」なども開店したようで(この日は休業日なので行かれませんでしたが)少しずつ前に向かっています。

しかしそのような動きも、さらに南の浪江町へ進むと、営業している店舗は浪江町役場直近のローソン一軒のみ。そこから先の帰還困難区域にはもちろん営業店舗などなく、それを抜けた先の富岡町にはGSと金物屋さんが営業しているのみ、次のコンビニは楢葉町内のセブンイレブン&「ここなら商店街」までないのです。

なおこのローソンもセブンイレブンも、それぞれ復興作業員の需要を見越して営業をスタートしたわけですが、それが同時に浪江・楢葉両町にとって「復興への橋頭堡(足がかりへの第一歩)」であったことはいうまでもないでしょう。現に、それぞれの店舗開店の際には各町長や復興庁のお偉方が来ていたようです。

浪江町は海沿いエリアこそ店舗営業も出来る避難指示解除準備地域ですが(国道6号もこのエリア)、内陸に向かうに従って居住制限地域、そして帰還困難区域に指定されています(面積的には帰還困難区域が圧倒的に広い)。町の長期計画ではこの海岸エリアでの町の再興を考え、除染作業などが行われているようです。しかし浪江町役場からたった2.3km南下しただけの双葉町との町境まで来ると‥





何が違うかというと、ここからのエリアではこの国道6号の道路を除き除染その他の復興作業はいまだに行われていません。つまりは「全てが手つかずのまま」なのです。



この看板の焼肉屋さんも、あの「すき屋」も、営業を再開することは二度とないでしょう。見かけはともかく建物はすでに朽ち始めているはずです。「戻るべき家」が「そのままでは戻れない」となると、やはりその先の選択肢は「戻らない」になってしまうのかと。でもその選択肢も「あり」だということを前提に各地域町村は動いているようにも思えます。つまりは「戻らなくとも町民のまま」という選択です。

それが法的にありなのかどうかの議論はさておき(現実として今の避難状態はまさにそれなのですから)、今後の被災市区町村の動きが気になるところです。いずれにせよ長い目で見れば、多くの町村が「存亡の危機」にあるのは確かなのですから‥。

このあとはさらに南下していきます。ちなみに通行車両が極端に少ないようにも見えますが、日曜日ゆえ復興関係の車両がほとんど通らないのと、往路に通ってきた常磐道の開通というのが大きいかなと思います。平日はもっと多いのだろうと(常磐道開通前は「朝夕には渋滞云々」という話も聞きましたし)。

そして双葉町と大熊町の町境付近へ。



自分としては「この案内看板が今も撤去されずに残されている」ことこそある意味すごいと思うのですが、そう思うのは自分だけでしょうかね。ちなみに「イチエフ」の1-4号機は大熊町に、5-6号機は双葉町に立地しています。何だかいろんな思いを抱きますがここではやめておきましょう、もう終わったことですから‥。



大熊町の国道沿い集落にはフェンスとガードレールのバリケードが連なっています。このあとの動画でも出てきますがあまりに長いこともありますんで、たとえばGoogleで「大熊町 熊町郵便局」で検索し、ストリートビューでずずっと道路を進んでいくと何となくの雰囲気はわかるのではないかと思います。でもやっぱり「百聞は一見に如かず、バーチャルはリアルに如かず」であることはいうまでもないことです。画像や映像を見ただけでは全然伝わってこないリアリティのすごさというものを、かの震災後いやというほど感じましたから。

さてそんなわけで、車載カメラによる連続動画をご覧いただきます。浪江町の中心部から双葉町・大熊町・そして富岡町の市街地すぐ手前までの道中を基本的にノーカットでまとめてあります。

帰還困難区域通過は3分20秒から16分40秒あたりまでです。長い動画(約19分)ですのでご了承下さい。



さて富岡町に入り、市街地手前で帰還困難区域が終了します。そういえば富岡町では夜ノ森地区と富岡駅周辺しか行ったことがありませんでしたので、この日は駅から海側に行ってみることにしました。

というのも津波に呑まれたパトカーがそっちの方にあるらしいという記憶があったからなのですが、これは記憶情報が古すぎでして、すでに数ヶ月前に現地から移動され、この訪問日翌日の2015/3/16から旧双葉警察署北側の公園にて一般公開が開始されたということです。タイミングも悪すぎでしたね(苦笑)。

駅に向かう道(もう慣れちゃったんでナビなしでOK。震災前には来たことすらなかったのに)を途中で左折すると旧踏切へ。そこには駅前の家屋と同じく‥





ちなみに踏切脇の線路を見ると、枕木下のバラスト(砂利)がかなり少なくなっていることがわかりました(上画像マウスオン)。そうかぁ、津波はバラストまでも根こそぎ持っていっちゃったんだなぁ。そしてさらに進んでいくと。







この周辺には除染で出た廃棄物バックがそれこそ山のように置かれていました。これらが一刻も早く「とりあえずのしかるべき場所」に移動されることを願うばかりです。そしてこの車も、この周辺に見えている全ての家屋も、やがてはすべて撤去されることでしょう。富岡町は駅舎解体によって廃棄された駅名板その他をJR東日本から引き継ぎ、いずれどこかで展示することにしているそうですが。

なおこのエリアには全然人がいなかったのですが、それにしては何だかあちこちに「荷台に大物を載せた軽トラック」が止まっているなぁと思っていました。こちらから見えないところで作業をなさっている方がおられるのかと思いましたがやっぱりそうでもなさそう‥というわけで軽トラに近づいてみると‥(左上画像マウスオン)、



というわけでひとつ勉強になりました(笑)。このあとは何もなくなってしまった駅前に立ち寄った上でさらに南下し、いわき市の久之浜を目指します。ここは震災1年後の3/11に訪問したところでもあります(その時のページはこちら)。すると‥





工事表示板を見るにどうやら海岸から川沿いにかけてのエリアをかさ上げする計画なのでしょう(内陸側には居住中の家々がありますからいたしかた全面かさ上げはできません)。しかしあらためてびっくりしたのがやはりその高さ。2012/3/11にこの地を訪問した際、海岸のすぐそばながら一段高いところにあったため流出を免れた神社の祠(ほこら)を見て少しだけほっとしましたが、その祠が今はもうかさ上げ地に囲まれて何だか肩身が狭そうなほどです(左上画像マウスオンで拡大画像に変わります)。そして震災1年後のあの日、この場所では‥

「じゃんがら念仏踊」の列がこの同じ場所で慰霊の鉦や太鼓を叩いていたのです。ほこらの高さに注目。



何らかの事情で動画が見られない人のために静止画も。ご覧のとおり周囲の高さが全然違います。

ここいわき市久之浜地区では41名の方々が津波で命を落とされたということですが、その方々が多く住まわれていた家々、そのコンクリートの基礎部分も全てはがされ、その上に土が盛られるという大工事です。ここでもかつての生活場所が地中に埋もれてしまうわけですが、こればっかりは仕方ないのかなと思わずにはいられません。何だか勝手に救いに思えてしまったのが、工事掲示板にあった「被災地のコンクリート等は盛り土の材料として利用します」という文言。かつての家々の一部は撤去移動されるのではなく、これからはここ久之浜のそれこそ「土台」になってくれるわけですね。



そんなわけで、かさ上げエリアの内陸側にある「星廻宮神社」(ここは震災後比較的早い時期にお社が再建されました。ただ鳥居の再建は最近かな?)で手を合わせた上で再び南下開始です(その前に念のため例の和菓子店「梅月」に行ってみましたが、さすがに休日の午後半ば近くとなると商品売り切れで閉店していました=次回は買いたいな)。

このあとは海岸沿いの県道382号へ。いわき市街地に近づけばR6は必ず渋滞しそうだしわざわざ内陸を走る意味もないので。うん快走路で正解です。沿道は家屋や食堂、そして松林でしたが、それぞれずいぶん手が入ったみたいです。そう、ようやくガソリンの心配がなくなってきた2011/4/10に初めて津波被災地まで上がってきて、住宅や店舗沿いにずらりと並べられた、津波をかぶった畳や電気器具他の家財道具の列を見て、思わず車を止めて涙したのはこの道だったのですから。当時はまだ一部が通行止めでしたけれどね。

と思ったら、塩屋埼も近い薄磯地区手前で海岸線沿いは通行止め。あれれ前は通れたのにと思いつつ回り道をしてみたら、どうやら薄磯地区一帯が復興作業中で旧道が完全通行止めのようでした。

ここ薄磯地区も、そして塩屋埼南側の豊間地区も、一気に復興工事が進んでいるようです。でも薄磯地区の旧豊間中学校(ややこしいな)は解体の気配がないということは‥津波の遺構として残す予定なのかもしれません。今残っている遺構は極力残してほしいと思う自分としては頼もしい限りです(まぁいろいろ御意見はあるでしょうが)。そしてやって来たのは‥



当然塩屋埼です。いつのまにか補修が完了したのか灯台へは登れるようになっていましたが、何となく登らずに南部の豊間地区へと向かいます。2011/4には集落への分岐に「豊間地区では現在行方不明者捜索中ゆえ、一般の方々の集落進入はご遠慮下さい」といった感じの掲示があった気がします。そして2013/5、たまたま地元の方に当時のお話を伺ったのもこの豊間地区でした(その時のページはこちら)。でも薄磯地区同様、豊間でも盛り土工事が急ピッチで進められており、あの方が日々見に来られていた自宅の基礎ももうなくなってしまったはずです。こうして震災の記録は人々の記憶の中に閉じこめられていく‥。

このあといわきの市街地に入ったわけですが「いったい何なんですかこの混雑&渋滞?」。人口急増ということの弊害なのかも知れませんが、「右折車線のその先が完全に渋滞していて曲がれない、かといえ直進2車線も進まない」という状況に、いわきの現実を見たような気がします。

ナビの指示通りに行くとろくなことにならないと悟り、遠回りですが裏道進行で何とかいわき湯本IC近くに出てこられてよしよし。そんなわけで高速に乗ってやれやれと思った数分後‥。





お風呂入る気満々だったんだけれどなぁ(悲)。まぁそんなわけで涙を飲んで戻ったというわけです。実際にはこの旅行記で触れていない場所にも立ち寄ったんですが個人的なことなので割愛しました。

それにしてもいわき市内の海沿いエリアは一気に復興工事が加速した感じです。あと2年もしたら津波の痕跡もほとんど見あたらなくなっちゃうんじゃないかという気もします。しかしそれにより原発事故による制限地域内との格差はますます強くなるのだろうなと思われます。どうなっていくんだろう今後のいわき相双地域は‥。というわけで日帰りお味噌購入行脚、これにて終了です。

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