− その2 いわきの海を前にして −



浜はあまりにも穏やかでした。しかし陸では生活基盤も、そして人々の心も‥。

(2013年4月28日−5月5日)

GWの始まりです!9連休を有効に活用すべく前半は温泉宿を中心に宿泊し、後半は新たに発掘した無料キャンプ場でまったりキャンプの予定という目論見。とはいえ事前の下調べが大甘ククレカレーなのはいつものことで、初日の宿をどこにするか決めたのも出発の2日前のことでした。いいんだ、わたしゃ温泉ファンである以前に「ただのお出かけ好き」なんだからさ!

ただし今回行こうと決めていた訪問地が2箇所ありました。その1つは川内村や相馬周辺など、いわゆる「福島第一の北側」です。いわき市や広野町などの南側には事故のひと月後から何度も訪問していますが、北側は距離の問題もありこれまで足をのばしていなかったのです。

そしてその北−北西側といえば、放射性物質が高濃度で拡散しこのGW時点でも一部が立ち入り禁止区域に設定されていたエリアでもあります。わたしは少なくとも「放射線量に対して過度に反応しようとは思わない」人なので(ただしそれが「だから早く多くの原発を再稼働せよ」と単純に容認することにはつながりませんが)、これまで訪問する機会のなかったその地域に足をのばしてみたかったんです。

もう1箇所は宮城の石巻市某所なのですが、そこについてはここで書き出すと長くなるのであとの方で書きましょう。偶然とはいえまさかわたしの名前が日の出の真下に書かれていたとは!(驚笑)。

そんなわけでいよいよ出発です。この日の宿泊は相馬市の蒲庭温泉なので出発はゆっくり。GW前半は土日祝の3連休なのですが後半に比べれば人出はそれほど多くないんですよね。そんなわけで三郷ICから常磐道へ。え、事故渋滞?あれれ‥。


あちゃーW事故でした。追い越し車線で玉突き(破損度大)のすぐ先で、今度は路肩側に破損度中の玉突きが。大のほうはともかく、中のほうは見物渋滞中の脇見運転が原因かもしれません。見たい気持ちはわからないでもないですが、やはり運転者なるもの、見るべきは前方第一です!


ただ、この柏付近の渋滞をクリアしたあとはもうスーイスイ。そりゃそうですよねボトルネックエリアの先なんですから流入量が少ないわけだし。それといつものことですが沿線にあまりメジャーな観光地がないというのがこういう繁忙期には大きいですね。あの原発事故さえなければ、いずれは常磐道で仙台まで抜けられるようになるはずだったのですが‥残念。

さて震災後何度も何度も乗り降りしたいわき湯本ICで高速を降ります。湯本温泉は‥うーん今回はパス!海に向けて車を走らせ、豊間集落のあった海岸までやって来ました。


この豊間集落は津波で海岸沿いの平地部分が徹底的にやられました。しかし今や少なくとも浜を見る限りがれきもゴミも一切なく、沖合では波待ちのサーファーたちがのんびりと浮かんでいます(放射線過剰反応派の方々には信じられない行動なのかも知れませんが)。

でも陸に目を移せばご覧の通り。土台だけが残る集落跡、そしてかつてここにあった神社の伝統行事について説明された石碑がぽつんと建ち残るばかりでした。と、そこに1台の車がやってきて止まり、降りてきた男性が。震災までここ豊間にお住まいだった方でした。

この方から当時のこと今のこと、とにかくいろいろな「津波や原発事故後のこの地域そして人々」についてお話を伺うことができました。以下にその時のメモを転記します。この中には、いわきの「現状&これから」を考える上で真剣に考えなければならない内容が多く含まれているように思います。

【当時のTakemaメモ:偶然出会った男性のお話】

「日曜日にはここに来ることにしてるんだ。だけど、この地域には近づかないようにしている人もいる。トラウマだな。うちの息子もそうだけど、TVで津波や震災の番組になるとチャンネルを変えるよ」

「自分の家周りの一角だけで20数人が亡くなった。自分は地震の時には別の場所にいたので聞いた話だけれど、みんなこの堤防から海を見ていたり、家の片付けをしていたんだと。で、ここはその電柱の上の方、あの、碍子周りに電線が切れたまま絡んでいる高さにまで水が来たんだもの、助かりっこないよ」

「結局、組織的にちゃんと逃げたのは日頃から避難訓練をしていた保育園の子どもたちだけさ。あそこの小山の中腹にある神社まで逃げて大丈夫。それでも例えば地震後にあるおばあちゃんが子供を引き取りに行ったんだって。で、家に戻ったおばあちゃんは子供と一緒に家の片付けさ。それで2人ともやられちゃった」

「自分は夜遅くなってからようやくこの場所に戻ってきた。でも真っ暗だし道なんかもはや存在しないしということで、山伝いにあの信用金庫の裏側に出てきたら、もう自分の家なんかすっかりなくなってた。結局屋根だけが見つかったよ」

「で、真っ暗な中もう1人と一緒に逃げ遅れた人を捜索したよ。もう、ここは地獄だったね」

「がれきの片付け中にそこの小川の中で金庫が見つかったよ。このあたりの人も持ってる人は持ってたってことだ。年をとればお金も使わなくなるし、それだけこの地域が豊かだったってことだよね」

「結局みんなの中に危機意識が足らなかったんだよ。それは行政も同じ。こんな低い堤防で何になるっていうのさ、しかもあの破壊された部分には鉄筋すら入っていなかったよ。ここだって崩れはしなかったけれど入っているかどうか」

「魚はすごく増えてるっていうよ。そりゃそうだ獲ってないんだから。で、福島県内の漁業者は漁をしていないから漁業補償がもらえるかわりに獲っちゃいけないんで水揚げをすると怒られる。でも、茨城あたりの漁師の中には(ここから先記載自粛)とかいう話も聞くよ」

「双葉郡からの避難者との軋轢は強まっていると思うよ。だって、働いてもいないのに毎月10万/人だよ、4人家族だったら‥わかるでしょ。しかもこれからもそれはずっと続くんだよ。借り上げ住宅に住んでいれば住居費はかからないし、食費ったってそうもかかるわけじゃないでしょ。複数の小さな子ども連れの家族の中にはいろんな補償金をひっくるめてすでに2000万くらいもらったって話も聞くよ。でもいわき市民じゃないから市民税を払っているわけじゃなし、平日の昼間からパチンコ屋が盛況、夜の街も同様とくれば、それはやっぱりカチンと来る人もいるわけだよ。住宅等に被害のなかったいわき市民は1人3-4万のお見舞い金が来てそれっきりなんだから」


このメモ内容をサイトに載せるかどうかについては悩むところではありましたが、そんな掲載を決断させたのは浪江町が住民代理として2013/5/29に仲介を申し立てたというニュースでした。

もとより原発被災地にお住まいだった方々の現在のご苦労ははかり知れません。何よりも「ふるさと」、すなわち物理的にも精神的にも戻るべき場所を奪われてしまったことへの無念と怒りは非当事者であるわたしには想像もつかないものでしょう。そして浪江町といえば、わたしが中学1年生の時親に合宿だと偽ってお金をせしめ初めて10日間の一人旅をしたとき(その時の行程ほかを記載したページはこちら)、福島−浪江を結ぶ国鉄バスの車窓から見た里山&田んぼとタバコ畑の続く風景は今でもわたくしTakemaの「東北の山里の原風景」として脳裏に焼き付いているほど印象深いものだったのですから。

しかし、残念ながら「人間は学習できる能力を持つように見えながら実は学習できない動物」です。そのことをいみじくも的確にあらわした格言が「喉元過ぎれば熱さ忘れる」であり、また「井戸を掘った人への感謝はどうこう」と言いながら全く正反対の行動をとる人たちもどこかの国にいますよね(多分に政治的誘導があるとは思いますがどこの国とはいいません=話がそれるので)。

今回の浪江町の行動は、もちろん心情としては大いに理解できます。しかし「避難やコミュニティーの崩壊など被害実態が考慮されていない」というコメントには、現在浪江町民が生活している仮の生活場所の「隣に住んでいる」元々の住民の心情を考慮に入れていないように思えるのです。

双葉郡から多くの方々が避難しているいわき市ではすでにその軋轢が形となって現れているということをニュースで聞いてはいましたが、今回この方からお話を伺って「このままだといつか大変なことになる」と実感したTakemaでありました。今回の仲介では「現在1人あたり10万円/月を35万円/月にせよ」という要求、そして「事故前の放射線量まで下げること」という要求も含まれているようです。

放射線量低減について「完全に事故前に戻す」のは山林がある以上不可能かも知れませんが気持ちはよくわかります。しかし「10万から35万」へと仮に増額したらどうなるか。そこにあふれ出るのは「本来の直接被害者である原発被災者の方々」に対する強烈なやっかみです。そしてそこから派生する有形無形の「差別」です。それは特に原発周辺地域に避難なさっている方々を直撃するのではないかと危惧します。

しつこいようですがわれわれ人間は学習できない、否、学習はしてもそれをいとも簡単に忘れ去り目の前の損得に汲々とする生き物です。だからこそこの浪江町の決断が「パンドラの箱を開けた」ことにならぬことを切に祈る次第です。個人的にはもう「祈るしかない」のが現状だと思っています。


のっけから話がどっしり重くなってしまいましたが、わたしは原発被災地に「気持ちの距離」を置きながら話している者ではないつもりです。それは拙サイトを日頃からご覧いただいている方ならおわかりだと思いますし、いま初めて拙サイトをご覧いただいている方はこのページの2011/3以降の旅行記を見ていただければ、多少なりともわたくしTakemaの思いについてご理解いただけるかと存じます。とにかくわたしはずっと昔から「東北が好き」ですし、その中でも一番足繁く通ったのは間違いなく福島県なんです。だからこそ余計に心配なのです。

さて話を戻して塩屋埼灯台まで来てみました。美空ひばりの碑(音声付き)は健在。ここまで水が上がったのかもしれませんが、この界隈では南に面した側の波が高かったということなので、南側を灯台に守られたこの碑は大丈夫だったのかも知れません。でも相当の水が上がったのは確かであり(ここでは7m以上の津波が押し寄せたという情報もあります)、新たにコンクリを入れた漁港はきれいに再整備されておりました。

灯台およびこの碑の付近は土地も高く大きな被害は免れましたが、そこからさらに四倉方面に北上していくと、海沿いの県道脇にはこれまであまりにも多く目にしてきた「基礎だけが残された住宅跡地」が延々と続きます。それでもここに住まわれていた方々の、この場所この家に対する思いはしっかりと伝わってきます。そう!



緑の大地に咲き乱れる白い花をイメージしたのでしょう。このような基礎をいくつも見ましたっけ。でも中にはいまだに手つかずの家屋もあり、いずれにせよおそらくここは居住禁止区域なのだろうからなぜ早く撤去‥と思ったところで「もしかして‥」という思いに至りそれ以上の思考を止めた次第です。

さてここから県道382号を進み四倉地区へ。国道との合流地点には「沖縄県を除く全ての都道府県に店舗を持つ(ただし北海道は1店舗だけみたいですが)コメリホームセンター」がありましたのでちょっと立ち寄り。何を買うって、ただのお風呂用ボディスポンジを1個だけ。確か398円だったかなと思いますが、ここで「コメリカード」によるお支払いをしたところ‥


へ?お買い物券?と思いつつ渡されたレシートの束をよく見てみると‥


そんなわけでとてつもなく気をよくしてコメリを出発!(まさに現金)。それにしても、Takemaがコメリのクレジットカードをなぜ持っているのかは謎です(笑)。で、ここから先にはほとんど飲食店がないはずなので、とりあえずすぐ北側の道の駅四倉へ。ここも津波の被害を受け建物も壊滅してしまったわけですが、2011/6には手つかずだったこの施設も(その時の訪問記はこちら)、2012/3にはテントによる仮設店舗での営業が行われ(この時のページはこちら)、そして2012/10にはすでに現在の施設が出来上がっていましたっけ。GWの中日ということで店舗内の売店はかなり混んではいましたが、時間的にまだお昼前ということで2Fの食堂はガラガラでしたね。


そんなわけで海鮮丼を頼みましたが‥うーん、はっきり言って「もう少しガンバリましょう」という感じのお味だったのがちょっと残念。もちろん地元産の魚を使えないという不利があることはわかっていますが、たとえばいわき湯本駅近の「海幸」さんでは、震災後もいいネタを使っていますよ!(その時のページはこちら)。

このあとは谷地鉱泉に向かいます。実は今回、最初の段階ではこの谷地鉱泉に泊まるつもりだったんです。前回訪問時に田村屋さんの息子さんが「2012/12で広野火力の増設工事が終わりますから、その段階で一般のお客さんの受け入れが再開できるかも‥」とおっしゃっていましたので。

しかし今回の計画立案時に電話をしてみると、「残念ながらまだなんです」とのことで宿泊は断念。ならばお風呂だけでも(いつものパターン)というわけで行ってみたわけです。しかし道の駅で電話を入れてみると‥誰も出ません。いやな予感を抱きながら玄関で声を掛けますが‥うーん、やはり外出中のようですね。


残念ながら「ヌル感ありの湯」に浸かれませんでしたが、また来ますからねー。八重のヤマザクラがまぁ綺麗だったこと。

すぐ上の石川屋さんにも久々にご挨拶したうえで谷地鉱泉を出発です。そんな中でもちょっと嬉しかったのは、鉱泉宿のすぐ下にある床屋さんが営業を再開していて、サインポール(よくあるねじれクルクル)が元気よく回っていたこと。ここもずっと人の気配がなくて残念に思っていたのですが、皆さん少しずつ前に進んでいるのだと実感。

さて海沿いの道は当然使えないので、ここからは山越えのR399経由で北上、南相馬市を目指します。がっ!





この道はこれまで使ったことがなかったんですが、確かにこの道を利用しての買い出しとかはキツイです。ちなみに交通量も極少なのですが、なぜかとてつもなく速い車に2台追いつかれました。もちろんすぐに先行してもらったんですが、別に走り屋とも思えない普通の乗用車、どうしてあんなに飛ばしていたんだろう?(ちなみにわたしの運転はそれほど速くもありませんが「遅い」ほどではないと思っています)。


そんなわけで峠を下って川内村に入りました。やっぱりカーテンを閉じたままの家屋が多いことにこの地域の現状を感じます。そして路肩に置かれたままの除染廃棄物とおぼしき積み上げ物も(右上画像マウスオンで拡大)。2011年秋から我が家のお米は福島産米がメインなんですが、今年(2013)にはここ川内村で3年ぶりに本格的な田植えが行われたということで、うん、間違いなくわたしは今秋ここのお米を買います!(もちろん全袋検査がなされるわけですし)。


さてまだ春浅き川内村のメインロードを走っていくと、橋を渡った向こう側に村の核心施設である役場がありましたので行ってみました(ホントの目的はその奥にあるんですけれどね)。

結構質素な(というか、自治体の役場は時に「とんでもないゴージャスさ」を見せつけていたりするんで=最悪)建物ですが、かの地震&原発事故の際にこの役場内ではとてつもない情報収集や指示が出されていたんでしょう。この日は日曜日ゆえどなたもおられず静かなものでしたが(右上画像マウスオンで拡大)。

ただしここ川内村が出した「帰村宣言」および「復興から創造へ」というポリシーは、今後の原発被災自治体にとっての試金石でもあります。線量が比較的低い(とはいえ除染をした上での話)とはいえ、「とにかく戻す」という現村長のスタンスはマスコミにも多く取り上げられました。ここでその是非を問うつもりは毛頭ありませんが、企業の誘致により30名以上の雇用を確保し、さらには村営住宅の建設で「全戸満室」という状況は「さすが」というより他ありません。

しかしその一方でやはり「生活のにおい」はまだまだ薄いのも現状です。整備されていた富岡町への県道(=生活道路)は通行禁止となったままなのですから。

さて役場の奥には「役場よりもはるかに立派な」日帰り温泉施設「かわうちの湯」があるのです。温泉空白地帯の阿武隈山地ゆえもとより「かけ流し」「温度あり」とかは期待していませんでしたが、そんなものここではどうでもいいのです。川内村で少しでも楽しませてもらえれば‥が、しかぁーし!




(右上画像マウスオンで見にくい営業日画像に変わりますが、一番最初の日曜日だけが休業なのですよ!)。

そんなわけでとっても悲しみにうちひしがれつつこの湯をあとにした次第です(タイミング悪すぎ)。まぁしょうがないですよね、限られた人数でやりくりなさっているのでしょうから‥。


ヤマザキYストアも休業中でしたし、国道沿いの商店でタバコを1カートン買うくらいしかできませんでした。でも買えただけよかった、このあと通った飯舘村では買える場所すらなかったのですから‥。

せっかくここまで来たので「いわなの郷」なる宿泊施設に行ってみることに。と、各コテージの塗装塗り替え中ということで営業はしていませんでしたが、これは果たして‥またお客さんが来ることを前提に‥ですよね。いやわれわれは泊まりに来たいと思うのです。でもいかんせん距離があるんで難しいかな?


園内を流れる沢には、放射性物質を吸着させるゼオライト含有の構造体が設置されていました。しかしこの光景自体が何ともさびしいものでありまして、休業施設の日曜日ゆえほとんど誰もいない園内は‥うーんとにかく頑張れ川内村!

で、沢沿いから戻ってみるとそこにあったのは常時計測中の線量計。


そういえば2011GWには、この日もこのあと向かう「道の駅ふくしま東和」敷地の片隅で島根県から派遣された方々が線量をチェックしていましたっけ。ちなみに原発周辺エリアの結構あちこちで同じような無人観測点が設置されているのを目にしました。こんな物を目にする日が来てほしくはなかったんですが‥。

いわなの郷をあとにして再び北上すると、このあたりはちょうど桜が満開に向かいつつあるところ‥なのですが、


一方で除染作業で出た廃土はご覧の通り道路脇に並べられたままです。田村市東部でもそうでしたが、中間処理施設が決まらないままという状況で除染が行われたのですから仕方ありません。しかし処理施設の設置云々について国の動きは遅すぎです。残念なことではありますが設置場所は警戒区域エリアしかありえないのに、いろんな声を気にしすぎでした‥(もちろん自治体の言い分もわかるのですが)。

で、実はここで道を間違えて進んでいたのですが、おしんこどんが「あれ、今の建物にナントカの湯って書いてあったよ」というので急停車。この先R399は警戒区域内に入っていくのでさらに迂回していたのですが。


戻ってみると確かにそこには「丸一魚店 富士の湯」と書かれています。そして近来に在住とおぼしき皆さまの車が何台も。あれぇでもここって自分の持っている情報にはなかったよなー、というわけでまずはお店に入って聞いてみることに。しかしその聞き方が悪かったーっ!

Takema 「こんにちは、あのぉ、こちらのお店の看板に『富士の湯』ってあるんですが‥。」
お店の方 「はいはい、そうお風呂をやっているのさ。銭湯みたいなもんだね。ただの水を沸かしているだけだけど。」
Takema (内心:そうなのか、水道水の沸かし湯ということなら鉱泉でもないんだな‥)
「そうなんですかわかりました。それではこの酪王カフェオレを下さい。

というようなやりとりだけで会話を終了させてしまったわけです。しかしこの会話におけるTakemaの大失態はといえば‥


しかもこういう場合、かの一休宗純禅師やアントニオ猪木氏もおっしゃっていたではありませんか、それは‥(またいつもの)、

というやつです(笑)。嗚呼神仏よ、この古来からの御教えに反して早合点し「入浴の機会を自ら放棄」してしまった子羊Takemaをお許し下さい!(「子羊」は余計だね」=神仏の言)。

ちなみにネット情報によると「成分は薄いが地下水を沸かした湯。昔はもっと成分(色?)も濃く白渋の湯と呼ばれていたが、山の木々を伐採したら地下水の量も減ったので沢水を合わせたものを加温している」ということのようです。

そんなわけで「いーんだいーんだ、ボクには酪王カフェオレがあるんだもんね」と半ばふてくされながら‥いや違うっしょ、この時は「水道水の沸かしならまぁパスかな」と勝手に信じ込んだ状態でこの地を後にした次第です。われながらバカでした(苦笑)。「行きがけの湯賃」とすら考えなかったもんなぁ(反省)。


さてそんなわけで続いての訪問地は道の駅ふくしま東和。ここには震災前から来ていましたが、立ち寄り頻度は明らかに震災後に高まりましたね。で、ここで地元産のお米を買うというのはもはやわれわれの定番行動。また、直売所入口にある「桑の葉茶」の無料試飲を必ず試すのももちろん定番(いつも買うわけじゃないですが)。しかし一番の定番はといえば‥




ご覧の通りラインアップも「しお」とか「からし」とか、ちょっと心ときめき系ですね。Takemaは甘味に関してあまりよくわからないというか普段は甘いお菓子を食べないのですが(甘い飲み物は飲みますが=コーヒーは砂糖もミルクも入れるし)、ここのジェラートはいやらしい甘みや香料が残らなくて確かにいいかも。立ち寄った際には是非!

さてここからは川俣町の中心部へと進みます。ここ川俣町は山木屋地区等の一部が計画的避難区域に指定されましたが、町内中心部は失礼な言い方をすれば「生きている」町であり、震災後初めて町内を通ったとき(2011GW)にはスーパーに買い物に来ている人の姿、そして「田植え作業をなさっている農家の方々の姿」を目にして、「よし、この秋にはここ川俣町まで米を買いに来ちゃる!」と誓い、実際秋に買いに来た記憶があります(お米買い出しページはこちら)。

もちろん今回の川俣町中心部も(まぁR349は中心部を通ってはいないのですが)車の通行量は多く活気があります。特に県道12号分岐の交差点などは各方向とも多くの車が信号待ちをしています。というのも‥。




上画像はわれわれが利用した地図の一部を拡大したもので、黄色いラインがここまでたどってきた経路です(矢印の先頭部が川俣町内の県道12号との分岐です)。上で「間違えた」と書いたのは、R399を葛尾村方面に北上するつもりが間違えて田村市方面へ西進してしまったことをさしています。

ただ、そのR399も飯舘村内にて「帰宅困難区域内」を通っていることによりそのまま北上するのは無理、R114で矢印の最終地点まで行かなきゃいけないのですね。ん?でもこの地図のデータは古いのかも?というわけで、2013/6/3現在の別の地図を調べてみると‥




というわけでこの時は結果オーライだったというわけです(笑)。そんなわけで発車オーライ、明るく明るく走るのよ東京のバスガールby初代コロンビアローズ的に県道12号を飯舘村経由で南相馬市方面へと進みます(意味ない説明でどうもすいません)。でもですね‥


飯舘村に入ると、村内に人の気配が全くなくなりました。右上画像のGSも営業はしていません。県道上にはご覧のとおり車の行き来がそれこそひっきりなしなのですがそれらは基本的に全て通過車両で、残念ながら「村は活動を停止」していました(役場等本当の中心部は県道から離れた場所にあるのですが訪問はしていません)。

ここ飯舘村は「あの放射線物質まきちらし爆発」の時、運悪く風下の北西側に位置していたことにより現在でも高い放射線量を検知しています。もちろん地域による線量値の高低はあるのですが残念ながら「概して高い」のがいまだに現状です。おそらくは「除染」をしてもすぐその周りから汚染物質が飛来してしまうのでしょうし、そもそもまだ本格的な除染作業すら行われていないのかも知れません。

2013/5/1現在の飯舘村公式情報によると、村内にとどまって生活なさっているのは僅か84名(+未避難人数12名?)のようです。同日現在村に住民登録されている人口が5926人であることを考え合わせるとこれはあまりにもとんでもない数字で、少なくとも現地は「村としての体を為していない」といわざるを得ないでしょう。ああ‥ちくしょう!

しかもいまだ帰還の目途が立たない飯舘村が「住民」にアンケートを採った結果、そこには悲しむべき「現実」がありました。



飯舘村公式サイトより転載(当該ページはこちら=PDFファイル)

ある種予想されたデータではありますが、やはり「若い世代が村に見切りをつけている」のです。今後何も対策を講じなければ飯舘村は消滅の危機に瀕するでしょう。それはひと足早く帰村宣言を出し(それは単純に「相対的に線量値が低めだった」からできたことなのですが)、多少の効果を出しながらもまだまだ先が見えずに格闘し続けている川内村とオーバーラップします。否、ここ飯舘村は線量値が高いというさらなるハンディを負い、しかも震災から2年3ヶ月が経った今では「原発事故の風化」とも立ち向かわねばならないのです。

わたしは一介の素人に過ぎませんが、この飯舘村をめぐる現状&未来はかなり厳しいのではないかと思ってしまいます。震災前にこの村が「までい=丁寧に、心を込めて(といった意味でしょうか)」をコンセプトに新たな村おこしを図っていたということは仄聞していました。でも残念ながら今後は「までいの農産物 vs 風評」との戦いとなると、現在でも線量の高い飯舘産は農産物にしろ牧畜にしろ太刀打ちできないと思うのです。わずかな可能性を探るとすれば、上にも書いたように「人間は学習したつもりでいて結局は学習できない(すぐ忘れる&自分のこととして考えようとしない)」というパラドキシカルな社会風潮でしょうか(笑)。



両上画像とも「矢印の先の地名」は同色ペンキで消されていました。つまりは「入域出来ない地域への表示は不要」ということであり、確かにそれは「間違って警戒区域に立ち入らないように」という意味での安全策なのでしょうが、つい数年前までごくあたりまえにそこに住んでおられた方々にとっては「ふるさとの抹殺」に他ならないわけで‥。

津波による被災地では「ここに○○があった」というような掲示を見たりしますがここでは逆。あまりにもいいお天気の中気持ちはどんより曇りまくりでした。


やがて道は南相馬市に入ります。この地域を分ける阿武隈高地の丘陵やその時の風がまさに命運を分けました。飯舘村からほんの10数km先ではこれからの田畑の準備、そして鉄道も走るごく普通の暮らし(あくまで見かけ上の話でありそこに住む皆さまの内面までひとくくりにするつもりはありません)が営まれているわけで、


おっと、まだこの日の宿に到着していないんだっけ!そんなわけで次ページでは「蒲庭温泉」に向かい、そのまま翌日いかれるところまでレポします!

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