- 2017夏 キルギス旅行編 その10 ソンクル湖からタシュ・ラバット経由でナリンへ -



標高3100mの峠からは、遙かに広がる高原地形を望むことができます。「世界の屋根」の軒先ですからね。



さてソンクル湖から出発です。ソンクル湖に出入りする道は東側に2箇所と南側に1箇所あるのですが、たとえばビシュケク発のツアーの場合だと往復とも北東側のコチュコルルートとなります(われわれの往路の道)。しかし展望は南側のほうがいいというネット情報もあり、さてウームルザックさんはどちらの道を‥と思っていたら、分岐点で往路とは違う方向にハンドルを切りました。よぉっし南ルートか?‥と思ったらもう1つの南東側ルートでした。確かにナリン州の州都ナリンにいくにはこれが最短ルートだわ。ただ、「南側の道」は観光的にはマニアックなルートでもあり、「好展望」というのはこちらの南東ルートのことなのかもしれません。

なぜか草のない道路上でのんびり通せんぼしている馬くんたちをかきわけ、少しずつ湖から離れた高台を進むようになります。



キルギス帽をかぶった、何だかかっちょいいけれど何をしているのか全く不明のおじさんの横を通り過ぎ(馬のごはんタイム?)、これまた何が楽しいのか岩の端っこに立つ山羊くんたちを横目に見ながら坂を上っていきます。そろそろ峠の頂上っぽいぞとおぼしき場所で車を止めてもらいました。



で、この場所から撮影したのがページトップの画像だったというわけですが、峠の反対側を見に行ったらこれがまたびっくり玉手箱!







と、すぐ下に何やら撮影中の2人の姿が。実は彼らは自分たちの乗るツアー車両が下がっていくのを動画&静止画で撮影しているようでした。もちろん車は下で待ってくれていましたよ(当然)。



というわけで下り始めたわけですが当然ながらかなりきつい勾配です。しかしそんな中、しっかり登ってくる自転車ツアラー発見。いやぁもう尊敬に値するとしかいえませんわ(ちなみにこの後ろにいた女性チャリダーは漕ぐのを諦めて押していましたが、押すのだってかなり大変だろうに‥。

また、この道を上がってくるということは、ここに来るまですでに1つ大きな峠を越えてきているはず。この時間にこの場所を登っているということはたぶん前日のうちにその峠を越えて下の集落に泊まっていたのでしょうが、2日連続の「大峠越え」はさぞかしキツイことでしょう。しかもここは標高3000mオーバーのエリアなのですから‥。しみじみ敬服いたします。



ヤナギランの群落に限らず、この斜面自体が高山植物の宝庫という感じでありました(標高を考えれば当然です)。で、何度も何度もカーブをクリアしていくと、さしものいろは坂も先が見えてきました(確か大カーブが30数回あると聞いた気がしますが細かな数については忘却の彼方)。ソンクル湖を水源の1つとする川まであと少し!



ハイ、峠道終了!ちなみに川との合流点標高は2540mでしたので、峠との標高差は500m弱ということが判明しました。

ここからは川沿いのダート路を進んでいきますが、この川沿いの草地部分、もうとにかく「どこにテントを張っても最高のシチュエーションでキャンプが楽しめまぁっす!」という感じでありました。車の通行は極少ですから全く気にならないですし。あ、でも「勝手キャンプ(宿泊)は禁止」なのでしょうかね‥。デイユースならOK(というか黙認してもらえそう)かな?

途中に集落(数軒だけ)がありましたが、ここは日本でいう「出作り小屋」(夏場に現地で農作業を行うために建てられた小屋。福島県檜枝岐村小沢平などに今も現存)なのかな?冬場にここまで除雪車が入るとは到底考えられません‥。あ、「出作り小屋」よりももっと現地に即した言葉がありましたね。そう、ロシア語でいう「ダーチャ」がぴったしカンカンかと!(死語の世界)。



と、このエリアでびっくりした2枚の画像をば。左上画像はご家族での自転車ツーリングライダーなのですが、手を振ってくれているお母さん(たぶん)の自転車って着座式ですよね?映り込みがあってわかりにくいのですが三輪ではなくて二輪のようです。後部に荷物を積載しているようですし車両重心は明らかに後方にあるはずで、これってどう考えても「峠の登りには不向き」じゃないですかねぇ?

しかも左上画像にマウスオンするとわかりますがお子さんは2人。前の青いシャツを着た子は空身とはいえまだ小学生くらいですよ?ここから再び数百mを登ることになるんですが大丈夫なんですか?というか、やっぱりヨーロッパ系の皆さんのストイックなこだわりには(少なくとも自分は)かなわない気がします。

そして右上画像ですが、小さな橋のたもとで母子が立っているのがわかります。彼らは地元の住民であると同時にヒッチハイカーでもあります。この近く、少し離れた場所に建物があったのでたぶん間違いないでしょう。

2人の近くまで車が進んだところで彼らがヒッチハイクのジェスチャーを出しました。「え、え?まさかそうなの?」と思っているうちに車はどんどん進んでいってしまったわけですが、まさかこの場所でヒッチとは。そもそも通行する車の数が極少ですし、その多くが観光ツアー車となると、いったいいつヒッチが成功するのか?

ロシア民謡の「一週間」を思い出してしまうと同時に、「しまった乗せてあげていいかすぐさま聞くんだった!」と後悔した次第です(あとのまつり)。自分が運転していたらすぐに車を止めたんだけれどなぁ(そういえば「地元のヒッチハイカーを乗せては危険」といわれる南アフリカ共和国旅行中にも、田舎のほうで3回お乗せしましたよ。こちらとかこちらとか)。



で、われわれの車は再びぐんぐんと高度を上げてここまでやってきました。左上画像の谷に見えているあの道路からここまで自転車(しかもダート路です)で上がってくることがいかに大汗をかく艱難辛苦の重労働であるかはおわかりかと思います(しかもこの場所はまだ峠の手前です)。

このあたりにはマツムシソウの大群落が広がっていました。何で車を止めてもらわなかったのかなと今さらながら後悔しきりです。そもそもマツムシソウの接写画像すら撮れなかった‥嗚呼大後悔時代。ちなみに大空には鷹が悠然と舞っておりました(左上画像マウスオン)。



このあとは再び中国国境と首都ビシュケクを結ぶA365号線へ出てナリンへと向かいます。ナリン市に入る最後の「難所」が右上画像の場所で、これはどう見ても自然のままの「Broken Hearts」ではなさそうですね。でもここを越えて川を越えたすぐ目の前がナリン市の市街地というわけで、ソビエト時代に力ずくの道路工事をしたのかな?

ちなみに現在も「この区間だけ」未舗装です。なぜ舗装しなかったのか、その理由は「当事者(中国側関係者を含む)が一番おわかりなのかなと」。しかし、それでいいのか?この場所を4回通りましたが「何か」が捨て置かれているように‥。そう、「一番大切な何か=ここを通る人々の安全」がです。通るごとに気になりましたよ。



さて、「難所」と通り抜けて橋を渡ればいきなりナリン市(州都)です。川沿いに広がる街で、人口は4万人ほど。右上画像をよく見れば架線があるのでトロリーバスも走っているようです(が、滞在中には見かけませんでした)。とりあえずお昼ごはんというわけでレストランへ。



小綺麗な建物で、「ラウンジバー」の幕掲示もあります。これなら個人旅行で来ても目に付くだろうなと思いますが入口は路地を入った側で、そちら側には「Кафе(カフェ)」と店名しか書かれていません。表通りの幕がなかったらわかりにくいだろうなぁ。



で、「ビールは飲めるときに飲んどけ」という先人の教え(うそ)に従って注文(ぬるかった)。おしんこどんはボルシチ(中央画像左の汁ラグマンはジャミラさんの注文品)、そしてTakemaは旧西側諸国の悪魔のファストフードたるハンバーガーを注文いたしました(笑)。うっひゃーバンズがロシアデフォルトの固いやつでアゴが疲れましたよ。いろんな意味でトータルでの食べごたえはあったなぁ。

さてビールも飲んだしご飯も食べたのでとりあえずトイレに行っておきましょう。街中だし、われわれが来た時には軍人さん?ご一行がワイワイしながら食べていた店だし、ここは水洗かな?



屋根掛けのある通路を進んだ先に男女別のトイレがありました。しかし、別棟&ここまで距離があるという段階で「水洗の夢」はすでにあり得ないと確信していました。だって冬場の水回り凍結を考えたらこんなに遠くに設置する意味もないわけですし。

あにはからんやトイレ前まで来たところでTakemaの「五感の1つたる嗅覚」が明確に反応というか感知アラーム。ハイハイそうですね当然ですねのくみ取り系でした(左上画像マウスオン)。しかし、縦長の実に面白い形状を為していることにびっくりしました!と同時に、



と、深読みし感服した次第です。勝手な勘違いに過ぎないかもしれませんが。

さてこの日の泊まりはここナリン市内なのですが、お昼ごはんのあとはここから片道約2時間のところにある「タシュ・ラバット」というシルクロード交易時代の遺跡を訪問します。

シルクロードかぁ、NHK特集の「シルクロード 絲綢之路」はリアルタイムで見ていましたし、かの喜多郎氏による「シルクロードのテーマ」のあの曲も好きでした。1990/4のワーホリ帰りに立ち寄っていたマレーシアでは、遅れに遅れた普通列車でペナンに向かう途中、カンポン(集落)ごとに見える家々の灯りを車窓越しに眺めつつ、あの曲をヘッドホン(ウォークマン)で聞いていたんですよ。不思議なことに涙が出てきたことを思い出します(嗚呼センチメンタル)。



キルギスの皆さんはこういうのがお好きなのか、道路のそこかしこにモニュメントが建てられています。



小さな峠越えの道ではお馬さんも移動中。はねたりはねられたりしないようお互い気をつけましょう(笑)。

さてひと山越えた先には川沿いに平地が広がっておりました。しばらくはその平地を進むことになるわけですが‥





まさにシルクロードのお膝元に来ちゃったというわけですね。かの玄奘三蔵もキルギスを経由して西に向かったことがわかっています。この日に目指す遺跡のルートではなかったようですが(イシククル湖南岸を通ったらしい)、いずれにせよこのあたりは東と西を結ぶ古くからの隊商路だったわけです。



昔はものすごくインターナショナルな地域だったわけですね。



今は牧畜中心ののどかな場所ですが、この道も一帯一路政策のもと再び交易路として整備され、時折中国からの大型トラックとすれ違います。「現代のシルクロード隊商」ということなのでしょうが、まぁこの地に住む方々にとっては「郊外のバイパスを一瞬で通過するだけの存在」に過ぎず、直接関係ないと思っているかもしれません。地元には一銭も落ちないからなぁ。



この山脈の稜線がそのまま中国との国境となっています。向こう側は新疆ウイグル自治区のカシュガル。



だいたい1.5hくらいハイウェイを進んだところで未舗装の道へと進んでいきます。うーん、この谷あいの道がまさに隊商路だったわけですね。実感がわくなぁ。



周辺の山々もごつごつと切り立っており日本とは全く違った感じです。ちょっと雲が多いですが時々太陽が出てくれます。おーい太陽よもう少し頑張ってくれーい!そしてダートを進むこと30分弱‥





タシュ・ラバット。現地に設置されていた英語表記の説明版には「タシュ・ラバットは、15世紀に建造された隊商宿(Caravansarai)です。この遺跡は標高3,500mに立地しています。」と書かれていましたが、3500mはいくら何でも高すぎです。高度計によると「3065m」でした(まぁこの日高度補正したわけではないので参考記録ですが)。しかしそれでもソンクル湖より少し高いのかと思うとちょっとびっくり。

入場料は外国人だと100ソム(キルギス人は20ソム)のようですが、今回は個人ツアーゆえ代金の中に含まれています(ありがたや)。そんなわけで中に入ってみましょう。



おバカなのはいつもの通り。それにしてもこの造りはまさにミニ要塞的な「城」ですね。



まずすごいなと思ったのがこの明るさ。ええっと、当時はもちろんのこと現在においてもこのタシュラバットに電気は来ておりません。つまり各通路や部屋の照度はすべて自然光によるものなのです(右上画像マウスオン)。もちろんこれには「換気」の必要性もあったと思いますが、それにしてもこの明るさはすごいですね。



中央には広いドーム天井の大ホールがあります(説明書きによると9.32*8.35m)ドーム天井および壁に開けられた明かり窓から外光が差し込んでいます。もちろんフラッシュ撮影ではありません(まぁオートで多少明度補正がなされているので実際はここまで明るくはありませんが。以下同じ)。



よく見るとかつては彩色も施されていたであろう壁画も見られます(右上画像マウスオン)。たぶんかつてはモルタル?で内壁がそこそこ整えられていたのでしょう。

それにしても15世紀ということは日本の室町時代、現地の記載によれば「15世紀初頭に最初の整備が」ということですから、そうなるともう吉田兼好とか後醍醐天皇とかの時代(14世紀)にはすでに東西の交易ルートが確立されていたことになります。そして蛮族というか交易品を狙う輩から隊商を守る&休憩の場としてこの宿というか砦が築かれた‥当時はこの砦の周りに多少はあったんじゃないですかね、今でいう居酒屋ほかの各種施設が(笑)。



左上画像の部屋は「下々の従者」が寝起きする場所だったそうです。うーんかつて日本の山小屋もこんな感じだったぞ(笑)。で、右上画像は滞在中に罪人をとじ込めておく牢屋だったそうです(かなり深い)。それでも連れて帰ったということなのでしょう。

さてこのあとはこの宿というか砦の上に行ってみましょう。



山の斜面に築造されているので外側を奥まで行けば屋上に上がれます。防備という点では大丈夫だったのか?



明かり窓から下を見れば‥確かにホールが見えています。ここから弓を射られたりしなかったのか?



阿呆なわれわれはいつものように足を上げてみたり跳ねてみたりの2017年8月でありました(両上画像マウスオン)。



おバカを演じつつも、まさにここがかつてのシルクロードだったのかとしみじみしておりましたよ。



葉の形からするとエンドウ科ですかね、綺麗な花です。



こちらの花は芳香が強くてちょっとびっくりしました。高貴な香りという感じでした。



さてそんなわけでそろそろ帰りましょう。ドライバーのウームルザックさんは待ちくたびれて横になっているようですし(笑)。



ゴジラの背中のような尾根にも綺麗に陽が当たっています。ん?右上画像も「Broken Hearts」と言っていいんじゃないですか?

そして、この界隈にはとある野生動物もたくさん生息しています。マーモットです。







そんなわけで再びナリンに戻り今宵のお宿へ。なかなか綺麗で、しかも右上画像はもしかしてイベント用のホールかな?結婚式とかもやれそうな感じですねぇ(中は見ていませんが建物の規模的に)。

と、ここで今宵の宿泊団体さんがやってきました。団体なのにパラパラと‥というのも、





バイクが土埃まみれになっているわけでもないので、この日は舗装路の移動日だったのでしょう。同じバイク乗りとしていろいろ聞いてみたかったのですが、会話を聞いているとどうやらロシア語のようだったのでコミュニケーションは断念(ジャミラさんはこの場におらず)。

それにしても右上画像マウスオンで出てくる女性、しっかりフリルを身に纏っていてさすがです(日本でやるとドン引きされそうですがここなら大丈夫)。



エントランス(ロビーは左上画像マウスオン)と部屋はこんな感じ。もちろん館内にはWiFi電波が飛んでいてネット環境も問題ありません(右上画像マウスオン)。さてそれでは夕ごはんへと向かいましょう。







この日の夕ごはん、なかなか美味しかった!ちょっと中華系だったからかな?

ところで先日ツイッターのツイートを眺めていてふと思ったのですが、日本の家庭メニューのバラエティ度ってある意味世界に冠たるものなのかと思うのです。たとえばドイツ料理というとハムやソーセージ、それにポテトだと思うのですが、ドイツ家庭の食卓は確かに日々それらが供される確率が高いのだとか。自分がNZで居候していたときも夕食のメニューはそれほどバラエティに富んでいなかったように記憶しています。

ふだんの食生活で和洋中その他あれこれ食べることに慣れてしまうと、、かえって「毎日同じような料理」というのに飽きやすくなってしまうのかもしれません。そういえばカムチャッカでは「ほぼ毎食サーモンが」というのに食傷気味になりましたっけ(たとえばこちらのページなど)。まぁこの時点ではまだキルギスごはんに飽きるほど食べ続けてはおりませんでしたが。

さてここナリンでは、ジャミラさんは友人のお宅にて旧交を温め、ウームルザックさんは親族のお宅にということでそれぞれお泊まりになるようです。それぞれ楽しい夜をお過ごし下さいませ!

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