− その4 前沢集落をお散歩のあとは温泉、そして只見へ−

さて、星?店さんとお話をしながらいただいたパンフレットの中に「前沢曲屋集落」というのがありました。保存集落なのですが基本的には現在も住民の方々が普通に生活しておられるということで、おしんこどん母がおられるこういう機会でもないと「さ、次の温泉だぁーっ!」とあっさりパスしてしまう可能性が高いだろうと考え、いざ行ってみることにしました。

と‥駐車場で車を降りたところで、とある重大なミスをしでかした可能性に気づいたTakema(笑)。

そんなわけで一気に取りに戻ります(苦笑)。距離的に5kmくらいしか離れていないこの場所で気づいてよかったぁ。これが只見あたりまで進んだところで気づいたりしていたら‥あなおっとろし。そして天神湯のドアを開けてみると、洗い場のコンクリートはすっかり乾き、自分のあと誰も入りに来ていないことは明らかです。で、脱衣カゴ脱衣カゴ‥

あまりにもわかりやすく脱衣カゴの中央に鎮座しておりました。何だか最近ではデジカメもそうだったし、こういう忘れ物系のハプニングが多いので気をつけなければ!

そんなわけで再び前沢曲屋集落入口の駐車場へ。星?店の女性は「花菖蒲の時期には入場料を払った記憶があるけれど、この時期は何もないので無料かもしれませんよ」とおっしゃっておりましたが、どうやら年間を通じてしっかり有料(300円)のようでした。もっともそれをケチるつもりもないのでね(笑)。

駐車場から橋を渡って集落エリアへ。うわー、雪解け時期とは思えないほどの清冽な水の清らかさに(あ、おんなじか)びっくり。今年は雪も多かったし、この時期はもう少し濁っていても仕方ないと思っていたのですが、やるなぁ奥会津の山は。

で、橋を渡った先には明らかに観光客向けの水車小屋がありましたが、それだけでなくもう1つ、「鹿(しし)おどしと同じ原理の経済利用バージョン」が動いていました。その現地名は「バッタリ」。何でも昭和30年代まで村内にはごく普通に並んでいた粉挽き施設なのだそうです(両上画像マウスオンでそれぞれ別画像に変わります)。

思うに水車は同時にいくつもの粉を挽けるかもしれませんが、肝心の設備は水車を含め大がかりにならざるを得ないでしょう。でもこのバッタリは、その構造のシンプルさからすぐに作れますし、常に粉を挽かねばならないほど頻繁に利用しない農家などでは重宝したはずです。というか高低差がさして要らないぶん今でも「自然挽き」としては有用なのかもしれません。だって、これだけですから!
「奥会津は水車よりもバッタリがメインだったらしい」

そんなわけでここを見たあとは一番手前にある「資料館」へと向かいます。さすがに有料ゆえ係員さんがおられ説明してくださいます。おしんこどん母は根っからの関西人なのですが、伝統的な器具農具などに興味津々のようでした。



ちなみにこの資料館は、住む人がいなくなった近くの曲屋をここに移築したらしいです。やはり過疎の波は押し寄せています。

しかしGW初日、しかも快晴の午後なのにお客さんが少ないなぁ。やっぱり「福島」ゆえみんな敬遠するのでしょうか。でも東京も会津も放射とか何とかの数値なんて一緒ですよぉ!

さてここからは集落内をうろうろ。とはいっても順路はちゃんとありますので「最後はあぜ道に入りこんで駐車場に戻れない」ということはありません(笑)。

こちらの曲屋群はすべて現役の民家でありまして、内部はもちろん天井やパーティションをどんどん付けてリフォームしていますが(五箇山とかと同じですね、その時の様子はこちらですが、それでも寒かった気が‥)、でも外観はやはり往時の面影を残しています。なおここ前沢集落は明治40年に全戸消失という大火に見舞われ、その復興作業で家を建て替えた時の大工さんが全て同じだったため「同じ意匠」の建物になり今に至っているのだとか。なるほどねぇ。

で、ある種うらやましかったのが、各戸の前にある「沢水を引いた洗い場」です。

大小の差はあれど、畑から取ってきた野菜の泥落としや茶碗お椀洗いなどにも使われるのであろう洗い場がしつらえられていてうらやましい!(もちろん洗剤の使用は厳禁でしょうが、小さな集落内でそんな掟破りをする人などいないでしょうね)。ただこれも時代の流れということなのか、ちゃんと蛇口も付いているところが現代風です。簡易水道なのかな?

ま、千葉の市川、しかも完全真っ平らエリアに住む自分には導入を期待しても詮無いことですが(完全塩素殺菌バリバリの水道を流しっぱなしにするしかない)。ちなみに市川市の北部は台地の上にあるんですけれどねぇ(結婚当初はそっちに住んでいてけっこう気に入っていたんです)。

さて「順路」はそのまま沢沿いを下り、再び橋を渡って「ん?あぜ道?」を行くことになりますが、田んぼにしてはあぜとの区切りがアバウトすぎます。どうやらここが花菖蒲園のようなのです。でももちろんまだ桜も咲いていないこのエリアでは菖蒲の芽が出ていることもなく、ただの茶色い裸地となっているわけ‥いや、そうでもありません。


(左上画像マウスオンでその画像に変わります)。

採っていいのかなー、でも私有地だし、地中には菖蒲の根が生えているはずだから踏み荒らすのは良くないよなーというわけで断念しましたが、そもそもこの日仮に収穫したとしても、持ち帰るのが8日後なのでどだい無理な望みなのでありますよ。そんなわけでここは「見るだけ」という極めて理性的な判断を下した次第です(笑)。

さて、水車やバッタリに水を供給する水路の手前には、砂などの不純物を沈殿させるためと思われるが作られていたわけですが‥



ま、わたしは大丈夫ですよん。「山の水は冷たそうだなー」と思っただけでしたので(うふふ)。さてそんなわけで「無料休憩所」へと向かいます。

こちらが無料休憩所。とはいえこちらにも係員さんがいて、歩いてくるわれわれを見てさっそくお茶を準備していてくださいました。ここでは集落で唯一おみやげとなるような手工芸品や農産物が販売されていました。大内宿が「まるで全戸がお土産屋さんか茶屋モード」になっているのとはとてつもない違いです。しかも売っているのはまさにここ前沢集落で作られたものばかり。というわけでおしんこどん母もわれわれも、気がつけばちょこっとずつ編み細工だったり芋だったりを購入していました。

それにしても、途中でお越しになった地元のおじいさんは「これはこの前自分が作った川魚用の仕掛けなんだよ」と見せてくださったし(一部にビニールを使っているので観光用とは思われずかえって好感)、その向こうには養蜂用ミツバチの箱から元気よく蜂が出入りしていたし、さらにその奥の方では男性が「木の皮むき」にいそしんでおられたりして、まさに春の山里そのものという光景が広がっていたのでありました。でも‥



ここも「福島」なのです。原発からはとことん遠いし汚染もほぼないに等しいのに一緒くたにされてしまっています。

バイクの免許を27才で取ってから20年、この前沢集落を通るR352を走り抜けたのはいったい何十回になることでしょう。実は震災前からこの道は渋滞とは無縁のガラガラロードだったわけですが、今は奥会津にとって正念場の時でもあります。是非皆さん足を延ばしてくださいませ。

さて、そもそも朝の出発が早かっただけにおしんこどん母子はそろそろ睡魔がやってきた様子。そんなわけで久々に古町温泉でもと思っていたのですが一応断念(駐車場がほぼ満杯だったということも大きな要因)。で、さらに北上していくと次は「パナの湯(里の湯)」なんですよね(笑)。ここも1度しか入ったことがなかったのですが、何よりも入浴中とおぼしき車の姿ナシ!そんなわけで2人を車内に放置しての単独入浴となりました(笑)。

大きな看板はないのでわかりにくいですね(有り難い)。そんなわけで貸し切り湯でしたがまだ湯溜め中でした。以前には黒みを増したこともあったそうですが、ぱっと見は前回と同じ感じの極薄にごり湯でした(かなり茶色く見えますが実際の見え方はこんな感じ=右上画像マウスオン)。

ちなみにこちらは加熱かけ流しの湯使いなのですが(源泉は23.2度)、浴槽を上から見ていてちょっとびっくり(前回は気づかなかった)。

極薄濁りというのは上にも書きましたが、実際の濁り度はこんな感じです。で、左上画像の左側(湯口側)を見ると、何となく黄土色に見えている部分がわかると思います。で、左上画像にマウスオンしてもらうとわかるのですが‥

加熱しているとはいえちゃんと源泉をそのまま投入していることがわかって何だか嬉しくなりました。しかも新湯投入中ですからね。

そんなわけで安らかに湯を上がり、まだまだ眠いお2人を尻目にちょっとハイテンション(笑)。JA会津みなみで南郷トマトジュースを1箱20本購入し(このエリアに来たら必ず買ってます)、そのままずずずいっと只見まで走り抜けました。

さて只見町です。2011年という年は東日本大震災と原発というあまりに大きな災害&事故があったせいで、その他の災害が必要以上に矮小化されてしまっています。東日本大震災の翌日に起きた長野県北部地震(直下型でM6.7)もまさにその典型です。長野県栄村では震度6強を観測し、家屋損壊はもちろん地滑りや道路崩落なども各所で起こりました(地震後の現地訪問記はこちら)。

でも、この只見町から金山町、三島町、柳津町へと流れる阿賀川でも、同じ2011年7月末、大変な事態が起きていたのです。それは通称「新潟福島豪雨」というようですが、そのネーミングはあまりに広域すぎてよろしくない。状況的にはは「奥会津北魚沼大水害」というべきではないかと思うのです。

水害から約3ヶ月後に訪問したときのページはこちらですが、魚沼側では大雨により堤防水位を超えて決壊するという、いわば「水害のデフォルトモデル」であったのに対し、奥会津側では最上流に位置する巨大な田子倉ダム(発電専用・所有=電源開発、日本で第2位の発電能力を持つ)が、とてつもない降雨量(1時間で100mm)により、

ということを「事前予告無しに」下流のダムを持つ東北電力側に通報。となれば中には昭和20年代建造の古いものもある東北電力の只見川水力ダム群は「ダム決壊」という最悪の事態を避けるために緊急放水するしかなく、ただでさえ雪解け時期で各ダムに湛水されていた水量が多かった状況ゆえ、最上部の大御所田子倉からの放水も合わせたその怒涛の水量はすぐさま護岸を越え、そしてそして家々の土台をも削り取り‥ということだったようなのです。

ただしこの書き方では「電源開発に完全なる非があり東北電力は被害者」というように受け取られると思いますが、本当にそうなのかはわかりませんというか「10:0」なんてあり得ませんよね。ちなみにこの件についてのWikipedia には金山町の被災者の意見を妙におとしめるともとれる記載もあり(2012/5現在)、あまり客観的とは思えない部分もあります。

そうなるとこの災害の補償や復旧についてはこれからいろいろな意味で「動く」と思います。そのあたりの最新情報については現地から発信されているサイトをご覧下さい(拙サイトの内容は一度更新したら「指摘を受けない限り」更新しないので)。

というわけでその大水害の出発点である只見の町から只見川(下流にいくと阿賀川−阿賀野川です)を下っていきます。くっそぉ「会津のマッターホルン」たる蒲生岳を撮り忘れました!

ところで「2012は雪解けが遅い云々」ということでしたが、それは確かにその通り。自分が知っているGWの奥会津は、少なくとも国道脇に雪はなかったもんなぁ。自然の営みには人間ごときの力では到底かなうはずもありません。ちなみに「原子力」を完全に自己制御下に置いたつもりになっていた(いる)人間もたくさんいたんだよなぁ。

そりゃ、あの事故が起きなければ今でも原子力礼讃の声は続いていたことでしょう。でも、何も起きなければわれわれ人間はどんどん油断し、ルーズになっていくことを忘れちゃいけません。そもそも津波の想定や、計画時の耐用年数を勝手に延長していたこと自体「ご都合主義」ですよね。「だってまだ使えそうだし」という判断は、古い原発が大小の事故を起こして初めて覆されたことでしょうが、それではすでに時遅しなのに‥。

「歴史は繰り返す」という言葉があります。われわれ人間は、経験をもとに「次を考える」習慣があります。それにより同じ過ちを繰り返さないようにすること自体は大切なのですが、その経験とはおもに「自己直接体験」なのです。「歴史に学べ」という言葉もありますが、それは「自己経験なんてせいぜいほんの数十年に過ぎないのだから、先人の経験も自分の経験と同様に重きを置け」という警鐘です。しかし、それがなかなか出来ないからこそ「繰り返しちゃう」というわけです。

ところで今日(2012/5/25)の日経夕刊の一面には(うわぁ何だか格好いいなぁ評論家みたい=もっとも評論家ほどいいかげんなものもありませんが)、

という見出しが出ていました。

これは2030年時点での電源比率をあらわしたものだそうで、新設はせず耐用年数が来たら即廃炉、いわば「原発の自然死を待つ」という判断というわけです(ただし原発相のコメントであり決定事項ではありません)。わたし個人としては「ここに至るまでの時間がかかりすぎではあるが至極妥当な判断」であるとは思います。

でも仮に、このあと18年間自然災害による原発事故が1回も起きなかったと仮定して、その時の国政担当者が「2011をもとにした事故対策はもはや完璧なのだから(だから事故を起こしていないのだし)」と主張して、「運転期間の再延長」を提案しないとは言い切れないのです。経験論の怖さはここにあります。

あ‥蒲生岳とか雪解けの話からとんでもないつぶやきになっちゃったので、続きは次ページにて。
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