− その11 復興への道のりはまだまだ遠いが少しずつ‥三陸沿岸地域(1) −



すごい。「全世界のみなさんありがとう」の掲示が!

* このページ内画像は2012年4月下旬訪問時のものです。

そんなわけで追分温泉から山を下り、今日は三陸沿岸を北上します。最初こそ木々の新芽に目を奪われながらの山道ですが、北上川まで下ってくるとその風景は一変します。そこにはもう何もないというか、震災前までそこにごくあたりまえにあったはずの「生活の気配」が完全に消滅しています。

堤防上を走る道路も、今は何とか普通に走ることができますが、路肩にあったであろうガードレールや反射表示器などはほとんど残っていません(ひしゃげ方がましなものだけ残っている感じ)。震災による津波襲来時、巨大な水の塊はこの堤防をはるかに乗り越えてこの地区を総なめにしたのです。

仮橋という形で通行可能になっている新北上大橋が見えてきました。この橋も橋脚の一部が流されましたが、この橋を渡った対岸すぐのところには、多くの命が失われた大川小学校があるはずです。また、対岸側の河口近くの土地は地盤沈下の影響なのか海水が流れ込み今も「海の一部」になったままです(グーグルマップ等でネット上でも確認可能)。右上画像ではもともとあった水門も土台ごとはぎ取られてしまっています。

少し内陸側に入ったところには津波で流された車が集積されていました(左上画像マウスオン)。おしんこどん母は何度も絶句していたようでした。でも自分も最初はそうでした。あの地震が来るまではそんなことを思いもしませんでしたから。

国道が多少内陸に入り高度を上げると、そこにはまるで何もなかったかのような平穏な(いや平穏に見える)ごく普通の世界が広がっています。それはいつもながら悲しきコントラストとして映るのですが、この時はちょうど三陸沿岸で桜が満開時期を迎えており、暖かな日和とあわせてさらに複雑な気分にさせられました。

落橋のため迂回路の旧道を進むと、そこが十三浜。海側を走っていた国号橋は完全に飲み込まれ跡形もありません(右上画像にマウスオンすると多少拡大されます)。しかし震災以前はこの立っている場所がまさに国道上であり、道路はここから緩やかに登りながら対岸へと続いていたのです。

内陸側には相川小学校が見えています。山裾に位置する3階建ての建物ですが、よく見ると3階部分の窓のサッシがなくなっていたりして、あの建物が「ほぼ水没」する高さにまで津波が押し寄せたことがわかります。本当に「想像を絶する災害」とはこのことでしょう。

ところでここ十三浜は震災以前からワカメ養殖が盛んだった地区で、震災後には養殖事業の復興を目指して「十三浜ワカメ復活サポーター制度」を導入していました(現在は終了)。実はこのGW明けにはサポーター向けの塩蔵ワカメが送られてきました(詳しくはこちら)。ここ十三浜は少しずつではあっても前に進んでいるようです。そして自分ももっともっと三陸の品を購入しなきゃね。



いまだ照明の点かないトンネルを抜け、南三陸町へと進みます。

やはりこちらでも多くの被害は出ています。が、もちろん暗い話ばかりではありません。

海に浮かぶ養殖イカダの数は昨夏に比べて明らかに増えていました。漁業あっての三陸、その漁業の復興なしには何も前へ進まないのでありますが、それについては少しずつ良い変化が訪れつつあるようです。あとは次のステップとして大きな雇用を生みだす加工工場の復活が待たれるところです。

右上画像は南三陸のホテル観洋さん。ホテル自体も一部に被害を受けながらも、震災後の初期復興の拠点として大きな役割を果たしたそうです。そういえば気仙沼市内にも同名のホテルがあったよなぁと思って調べてみたら、実は運営母体は気仙沼に本拠を置く水産加工大手の阿部長商店さんなんですね。震災でこちらの会長さんもヘリで救出されたのだとか‥。

さて、ちょっと明るい話のあとは‥国道の脇にあるのでどうしてもこの前を通らないわけにはいかない「公立志津川病院」なのでありました。

昨夏の訪問時には病院前に山と積まれていた瓦礫もいまはほぼ片付けられています(2011夏の訪問時ページはこちら)。しかしここで何が起きたかについてはこのページをご覧下さい。そして水はあの高さにまで上がったのだということも‥。

旧市街中心部から少し進んだところで海沿いに進んでみることにしました。かなり離れた場所からも中心部が直接見渡せますが、もちろん震災前にはこのあたりにも多くの家々が立ち並んでいたはず。しかしそれらは土台を残すのみ‥

と、ここで仮設店舗を発見!おそらくはもともとここで営業なさっていたお店なのでしょうからここで何かを買いましょう!となれば‥



しかも1カートンだし。ん?どこかの被災地でも同じようにタバコを買った記憶があるぞと思ったら、確か去年の会津豪雨の被災地(金山町)で買ったんだっけ(詳しくはこちら。「会津豪雨」と言われても今やご存じない方も多いと思いますので‥)。

さて、この店舗周辺を見回してみると、右上画像のように「明らかに一段高台に建っていた」にもかかわらず思いきり津波の洗礼を受けた(やはりこちらも地上4階相当部分まで水が上がったようです)建物がありました。これだけの高さがあれば‥と考えての建設だったのでしょうし、今回の震災前の自分であれば「うん、この場所なら!」とも思ったことでしょう。

そして今だからこそいえること。それは「こと災害に関しては、それまでの自分の経験など全く参考にならない」ということなのです。

この仮設店舗の海側には3棟の鉄筋コンクリート製集合住宅が見えていました。そしてその手前には、皮肉にも残った1つのモニュメントが。そこには‥


(右上画像にマウスオンすると拡大画像に変わります)

しかし、その背後(というか海側)にある3階建ての堅牢な、そして高さ的にも3.1mをはるかに超える住宅の屋根には今でも材木が乗っかったままです。この時立っていた場所は、津波襲来時にはおそらく水深15m近くの「海の底」になったのです。

誰がそんな事態を想像したでしょう。でも誰一人として想像しなかったからこそ、ここにはかつて街があり得て、そしてこれまで一定の繁栄を享受できたのです。それは間接的消費者としてのわたしも含めて。

原発事故後「想定外」という語が新たに否定的な意味での市民権を得たような気がします。しかしその「想定」とは何なのか?「経験をもとにした想定」とは、「経験値がいいかげんなモノ」であれば意味を成しません。そして、その経験値を完璧なモノにすることは未来永劫不可能なのです。そのことをわれわれは心せねばならないと思います。
「想定外」という言葉を使いましたが、ちなみにわたしは原発即廃止論者ではありません。このページをタイプしているのは2012/6/23ですが、この前日には1万人規模の人々(こういう場合に使われる「市民」という言葉は嫌いなので使いません)が国会を取り巻いて大飯原発の再稼働中止を呼びかけたようです。その行為自体はなるほどと思うところもあります。でもこれにより状況が大きく動くことはないのではないような気もします。

日本人は歴史的にも「内発的変革」が苦手です。日本の歴史を見ても大きな動きがある場合はだいたい「外からの圧力」が関係しています。内部での動きはだいたいの場合が「調整しながらゆっくり」なのです。「内発的な大きな変化」を望む勢力は結局多数派にはなっていません。

今回シュプレヒコールをあげた皆さんが目的達成のため次に為すべきことといえば「物言わぬ絶対多数の民」への緩やかなアプローチかもしれません。「国会前に集まれ!」は2回目以降自意見の押しつけにつながるようになり、逆に反発を生みだすスタートになるのかも知れません。そういう意味で、たとえばSNSによる情報共有が従来の日本人的感覚にどのような変化をもたらすのか否かを注視していきたいと思います。
さて、志津川から海沿いの県道をしばらく進んでいくと、いまだ「一時集積」状態の瓦礫置き場がありました。

しかしいっしょくたに「がれき」と呼ばれているものも、震災前までは人々の生活の中に普通にあった品々であり、そしてもちろん「大切な品々」も数多くあったはずです。以前被災地在住の高校生による「昨日までの宝物は今日は汚染物と罵られ」という旨の詩を見たことがあります。

きっとここにも、大切な思い出が埋もれているはず。以前TVで見た番組でも、第二次大戦時のドイツ空襲を生き延びた方も同じようなことをおっしゃっていました。「燃えたのは家財道具だけじゃない。思い出そのものが煙に包まれたんだ」と。

さてそんなわけで歌津まで上がってきました。昨夏は国道から「ウタちゃん橋」を見るだけでしたが、何と内陸側に復興商店街ができていましたので立ち寄ってみることに。

商店街の名前は「伊里前復商店街」。もちろんその名には地域の未来を託す思いが込められていると思われます(両上画像ともマウスオンで別画像に変わります)。

さて何を買うか?しかし復興商店街の場合はもともと現地で営業していたお店が入居しているので、案外旅行者好みの商品がありません(地元の方々の需要に対応しているのですから当然です)。でもここには!



そんなわけでわれわれ3人ともいろいろと購入しました。本当は地元の商店で少しでも購入した方が「直接お金が回る」んですけれどね。できれば軽食だけでなく食堂があってほしいところでありました。

さてこのあとは気仙沼へと入っていきます。
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