− 伝統の「合わせ網漁」見学ほか (その3) − |
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ここからは帰還困難区域を通るR6を北上します。左上画像の川(何という名前の川だったかはよくわかりません)、もちろん一切の漁は行われていないはずですが、そんな人間側の都合とはお構いなしにこの日も鮭が遡上していたのでしょうね。自然の営みそのままに。 |
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事前におしんこどんに聞いてみたのですが、あらためて考えてみると「逆質問されたら‥そりゃ答えは決まってるよなぁ」(大笑)。しかも前回浦島鮨さんのお寿司があまりにも絶品だったゆえ、その記憶を抜きにしてのラーメンというのはなかなか難しい決断です。というわけで双葉食堂さんにはTakema単独で北上したときにおじゃまいたします! |
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そんなわけで2016/7の小高区避難指示解除の少し前(この時)にもおじゃました浦島鮨さんへ。車の姿が見えませんが駐車場は店の脇なのでね。すでにピーク時間を回った13:00頃だったからか先客さんは2組だけ。でもこのあと「ごちそうさまでしたー!」と桶を返却しにきた方が複数おられました。たぶん「自分の家に戻られた方のお宅に親族の方々がお越しになった」という感じじゃないのかなと。 |
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大トロもタラバの生も絶妙!でも、自分たちとして大失敗だったのが「前回も今回も、カウンター席ではなくテーブル席に座ってしまった」ことです。寿司ネタの話はもちろんのこと、やっぱり小高の話をちゃんと聞きたいし聞かなくちゃ。ご主人&二代目の息子さん、次におじゃまするときはお話を聞かせてください。 |
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前回は再開直前ゆえ閉鎖されていた駅舎も今はもちろん開いていますし、現状としての北部折り返し終点駅ということもあるのか駅員さんも配置されていました(改札から駅事務室をのぞき込んでみたら「何かご用でしょうか?」という感じで改札方向に歩いてこられたので「いや違いますのぞいていただけです」とジェスチャーで意思疎通=ゴメンナサイ)。 |
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それでもまだまだ人も車も少ないのですが、画像には写っていないながらも子どもが道を横断したり住民の方がお散歩的に歩いたりしているんです(避難指示が解除されているわけですからごくあたりまえのこと)。ちなみに右上画像のようなミニミニ産直もありましたので、トマトとオクラを購入。 |
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今回は凍み天と、冷蔵棚にあったヨーグルト(松永牛乳)を購入。家に帰って食べようっと。 |
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いやしかし、上画像を見て「あれ?これが田村屋旅館?」と不思議に思う方もおられるのではないでしょうか。実は自分もこの建物を見るのは初めてでした。しばらくご無沙汰している間に、何と母屋部分が建て替えられていたというわけです! |
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加温循環ではありますが、それとて湯はへたっておらず十分な浴感です。以前のレポにも書きましたが、こちらの鉱泉は無色透明無味無臭ながらPHは10.1という強アルカリ性冷鉱泉でホントにツルヌル、源泉蛇口をひねり非加熱源泉を出してみるともういよいよ頂点の領域に近い「ヌル感」に昇格するというわけですよ。 |
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震災前、近隣の「たきた館」さんに泊まったことはありますが(この時です)、実はここ田村屋さんはこれまで入浴ばかりで泊めていただいたことがないのです。「では、次回は必ずや宿泊でおじゃまします!」と即座に宣言したTakemaでありました(笑)。 |
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実は自分たち夫婦が初めて田村屋さんを訪ねたのは震災&福島第一原発事故後、2011/6のことでした。こちら田村屋さんも一時はこの地を離れていわき市内(谷地温泉もいわき市内の北部なんですが、北部から中南部のいわき市中心部へということでしょう)に避難されたようですが、そこそこすぐに戻って来られたそうです(その時のページはこちらに少々詳しく書いています)。 |
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そんなわけで田村屋さんを辞去し、さすがにここからは一気に帰宅の途につきます。日帰り旅行記なのにこれだけのボリュームになるとは思わなかったなぁ(苦笑)。ちなみに常磐道最終区間の渋滞を回避するために柏ICで高速を下りましたが、結論としては「急がば直進」であったことを付け加えます。何だか以前も同じようなことがあったよなぁ‥。そして帰宅! |
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(あ、いま見るといろんなモノが写ってない。凍み天もない‥なお一番上に少しだけ写っている袋はお米です) |
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地域復興のお手伝いとしてもっとも有効なのは「地域で地域のモノを買う」ことだと思います。「自分の消費量に見合ったモノを買い続ける」ことにより、ちいさなお手伝いではありますがそのちいちゃいぶんは間違いなく地域の経済サイクルに回るはずです。自分は泥出しとかの一次復興のお手伝いはできませんが(ギックリ腰の常連だし=ここ数年はやってませんがいつ来るかわからないのがアイツなので)、こうして購入すること、そしてこのWEB1.0世代のウェブサイトで情報を伝えていくことが各地域へのお手伝いなのだと思っています。 |
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