このページをアップしたのは2016年7月12日。今日この日、福島県南相馬市の南部に位置する小高区のほぼ全域および原町区の一部地域が「原発事故による避難指示解除準備地域」の指定から外されました。つまり今日この日から、上記地区に対する全ての制限は取り払われたわけです。

とはいえ地域の復旧復興はまだまだこれからです。じつはこの9日前、千葉から小高区に出かけてきましたのでその時の様子を綴ってみました。あ、あくまで旅行記サイトなので専門的な話は抜きですが、何だか随分とテキストだらけになってしまいましたのでご容赦を。



(2016年7月3日)

さて、東日本大震災後福島県浜通りには何度も何度も足を向けている自分ですが、実はかの震災前にはいわき市より北側、つまり広野町以北に足を延ばしたことはありませんでした。ある意味自分の中で「東日本における数少ない訪問空白地域」だったわけです。その理由としてはやはり温泉がイマイチ(ないわけではないが加温循環湯ばかり)だったことが大きいのですが、震災、そして原発事故後の2011/4上旬にいわき市まで北上し、そこで目にした光景が自分の中の「スイッチか何か」を押してくれたように感じます。

その後、当時の名称でいう「警戒区域」(今は「帰還困難地域」ですね)のエリアが解除されるごとにそのエリアを訪ね、商店が開いていれば何かを買うようにし(地域のおみやげ品がない場合はセブンスターを1カートンとかね)、できる範囲で現地でお金を使うようにしてきました。自分にはそれくらいしかできないですし(こちらとかこちらとかこちらとか)。

で、今回の目的地は南相馬市小高区です。南相馬市南部、震災前に人口約10,000人強が居住していた小高区は長らく居住制限−避難指示解除準備地域となっていましたが、2016/7/12にその指定が解除されることとなったわけです。

これまでも日中の立ち入りについては自分のようなよそ者であっても自由でしたが、これで名実ともに地域復興の一歩を踏み出すことになるわけです(だからといって居住者の皆さんが多く戻るとは到底思えません。これまでの準備宿泊者名簿に登録されていたのは2000人足らずだったとか。避難指示が先に解除された広野町や楢葉町の帰還率を見れば先行きがそう明るいものでないことは明白でしょう)。それでも、今回の解除が「大きな一歩」になる、そのことだけは間違いありません。

「おだかのひるごはん」開店のニュース(2014/11)は、「いよいよ小高地区復興の狼煙が上がった」と感じさせるに十分なトピックでした。震災後に初めて南相馬を訪れたとき、特に制限のないエリアでさえ「息が詰まるような雰囲気」を感じたものでしたが(それは2011/4のいわき市内と同じ雰囲気だったように思います)、今はそのにおいがどんどん薄まっていることを強く感じます。もちろんこれは単なるよそ者の主観にすぎません。でも、現地を訪問するたびにそれを感じるのです。いや、いわきや南相馬の道の駅などを訪問すると、「薄まっている」どころか「熱気ややる気がむっちゃ濃くなってるでしょ!」と感じたりするわけです(笑)。

そう感じるのは単なる「地域慣れ」なのかもしれませんし、そもそも自分の感覚がどこかオカシイだけなのかもしれません。でも、「実際に現地の空気を吸うことなく外からああだこうだと言う輩の話」より自分は自分を信じたい。ただそれだけのことです。

さてエラソなことを書き綴りましたが、実は前日まで仕事が押していてこの日出かけられるかもわからぬ有様でした。何とか前夜のうちに仕事を片付け、でも早起きはできず起床は7時ころ。おしんこどんに声をかけると少し考えた上で「行くよ!」。Takemaオフキャンプ以来のお出かけとなりました。実は出発時点では成田の近く(富里市)で特産のスイカほかを買って帰ってくるという選択肢もあったので、最初から南相馬一択だったわけではありません。結構思いつき行動なんです(笑)。



しかしまぁ常磐道を北上し始めれば目的地はほぼ決まります。本日のターゲットは若松味噌醤油店でお味噌を買うこと(ちなみにわれわれは青バタ味噌がお気に入りです)、そして表題の通り小高駅近くに再オープンしている浦島鮨店でお寿司をタンノーすること、また加温循環ながらツル感がすばらしい天神岬温泉に再訪入浴すること、さらにはおしんこどんリクエストにより福島のお米を買って帰ること(実はTakema家のストックが切れかけていたわけです)。以上のミッションを何とか完遂しなければ!

さてならはPAももう何度も来ていますがここはトイレだけだしねぇ。そんなわけで鹿島南相馬SAまで上がってきて、おっと気がつけばセデッテかしま売店で伊達産の大きめ桃を購入!まだまだ極早生が出回るだけの時期ですからハウス物かなと思いますが甘かった!やっぱり「桃は福島」でしょ!



そんなわけでSAを下りて鹿島区の若松味噌醤油店へ。ここのお味噌が美味しいんですよ、通販もしているのでお試しで一度買ってみてくださいな。わたしの職場の先輩も「この味噌は大規模メーカーのそれとは全然違うね旨い!」と言っておりますよん。一番高くても900円/kgですからね♪

ほぼ正面にある和菓子店の「たいやき」にかなり心惹かれながらも「このあとはうまうまランチなのだから」と心を鬼にして購入しませんでしたが、考えてみれば持ち帰ってレンジでチン+トースターで表面カリカリにすればよかったんですよね。次回訪問時は必ず購入します!



はい、道の駅南相馬で新地産のお米も購入して2つめのミッションも完了です♪

このあとは原町区を通り抜けて南部の小高区方面へ(というか今回はそっちがメインの目的地)。R6沿いには相馬野馬追ほかを描いたついたてがありましたが、その向こう側には除染廃棄物のフレコンバッグが並べられているんですよねぇ。

原発事故後しばらくしてこのフレコンバッグを目にしたときに「こんなのはすぐに紫外線にやられてボロボロになっちゃうだろ?せっかく集積したのに移動できなくなってしまうし?」と思ったのですが、数年後その危惧は的中しました。劣化したバッグの中から草が外に生えだしていましたからね。

さらに大規模な集積施設には大きな緑色のカバーがかけられていますが、これとて傷むわけだし‥難しいところです。



さて小高区の中心部たる常磐線小高駅へとやってきました。常磐線は小高区の避難指示解除とともにここ小高駅−原ノ町間で列車の運行が再開されます。この日は7/3でしたからまだ駅も閉じられたままでしたが、おそらく運転再開の当日には賑わうんだろうなぁ。問題はそのあとですが。



駅前広場には、さすが野馬追の里にふさわしく馬をかたどった車止めというかオブジェが並べられておりました。プランターのマリーゴールド?とともに来たるべき華やかさを演出していましたが、この数日後、もっとさまざまな花の鉢が並べられたそうです。



今のところ人もおらず静かな小高駅前でしたが、やっぱりここにもあるのね線量掲示機。この日は0.144μSv/hとなっていました。わたしが住む市川市で定期的に発表される値がだいたい0.05-0.08くらいだと記憶していますから、まぁざっくり言って倍なのかもしれません。でも、たとえば0.01が0.02になったって「倍」ですからね。それなのにこの「倍」のような言葉がひとり歩きを始めると「風評」となり「デマ」の源泉ともなるわけです。

いわゆる「しきい値」が曖昧なままとはいえ、現在の小高区周辺の線量値が健康に影響を及ぼすとは到底思えないというのが自分のスタンスなので、「よくぞここまで下がって(下げて)くれたものだ」と素直に思います。もちろん自然減衰とか除染とかにはムラがつきものですけれど(逆に集積される場所もあるでしょうし)、個人的には「日常生活上特に問題はない数値」だと思っています(考えを押しつけるつもりはないですが)。

ただ一方で、避難指示が解除されても生活インフラが整わなければ帰って来ようにも二の足三の足を踏むのは当然のことであり、ましてや働き盛りの世代には雇用の有る無しが大きな問題です。現在、この小高地区でも役場や銀行や郵便局、市立病院などが再開を果たしています。しかし避難指示解除後も買い物をする場がほとんどないのはやはり大きな問題です。

でも、そのような中でも民間が少しずつ動き出しています。2014年11月には「おだかのひるごはん」が開店。避難者が家の手入れに戻ってきたり、除染作業に従事する人などに温かいご飯を食べてもらおうという趣旨で「双葉食堂」(地元の人気ラーメン店)の施設を借り受けて営業を開始しました(Takemaが訪問したときのレポートはこちら)。

ただしこちらのお店は2016/3/11をもって閉店しました。本家の「双葉食堂」さんが戻ってくるから!という理由での円満閉店だったわけで、Facebookではその思いがきちんと綴られています(こちら)そして現在は当然のことながら双葉食堂さんがその場所で「平常営業」なさっています。

そしてそれとは別に、何とお寿司屋さんまでもが復活営業しています!「浦島鮨」さんです!こちらについては毎日新聞の記事に詳しいのですが、震災後にアップしたページにリンクした各新聞社の記事ページが軒並み削除されてしまった経験から、記事内容を引用させてもらおうと思います(内容の改変は一切ありません)


親子で人気すし店再開 南相馬・小高区

東京電力福島第1原発事故で住民避難が続く福島県南相馬市小高区で、すし店「浦島鮨(ずし)」が今月、5年ぶりに営業を再開した。国の避難指示解除は早 くても6月以降となり、近くのJR常磐線小高駅は閉鎖されたまま。住民の姿はまばらだが、店主の山沢茂さん(64)は「不安定は覚悟の上」と前向きだ。 「家族ですしをつまみながら笑い声が聞こえてさ。そんな光景が少しずつ増えていけばいいなってね」と笑顔を見せた。

カラカラと引き戸が開き、なじみの客が「もうやっているんだって」と店をのぞきに来てくれる。山沢さんにはそんな日々が無性にうれしい。

「墓参りで地元に戻ったんで」と言いながらやって来るお客さんで昼間は忙しい。昼の営業を終えた午後2時過ぎ。山沢さんはカウンター席に腰を掛け「ありがたいね」とお茶をすすった。避難指示の解除を待たずに掲げたのれん。「すし職人として地域に支えてもらったことへのけじめかな」。

東京で修業を終えた1976年、古里に戻って開店した。地元産米のシャリと宮城県塩釜市で仕入れたネタ、それに手ごろな価格が自慢で、震災前は10人以上の従業員を抱え、複数の宴会もこなす繁盛ぶりだった。創業35年の記念日を1カ月半後に控えた2011年3月、原発事故に見舞われた。

避難先の同市原町区から、住民が消えた小高の店にほぼ毎日通い、店の掃除を続けてきた。「生ものを扱う店にネズミがすみついたら、二度と再開できなくなっちゃうから」。

避難指示が解除されても、住民の多くは避難先にとどまる見通しだ。後を継ぐ長男政教さん(41)と2人だけで接客できる規模にしようと、店の改築を昨年7月に済ませた。

だが、山沢さんは昨年の秋ごろから体調を崩し、不眠が続くなどして病院に通う状態になった。商店の帰還が進まず、商工会の役員としてストレスが重なっ た。自身の店の再開も迷っていた。しびれを切らせた政教さんが今年3月、法要の宴会を受けてきたのをきっかけに再開を決意した。今は親子で塩釜市へ車を走らせ、仕入れに出かけている。

開店10年目に「ギネスに挑戦しよう」と地域の人たちと872メートルののり巻きを作ったことが忘れられない。「あのにぎわいをもう一度、味わいたいね」。山沢さんは、包丁を握る政教さんを見つめた。【大塚卓也】(記事ページはこちら 2016/4/12記事)



本日のランチはこの浦島鮨さんでーす!もうお昼を回っているのに、この日はTakemaもおしんこどんも朝から飲み物しか摂っていません、そう、美味しい鮨をいただくために本日ここまで頑張ってまいりましたぁ!(別に禁欲的だったわけでもないですが)。



そんなわけでいざ初の浦島鮨、右上画像を見るとガラガラのように見えますがテーブル席は満席、それと奥にはお座敷席もあるようです(そちらから人の出入りもありましたので)。

震災前はかなり手広くやっておられたお店のようで、慶弔関係での利用もかなり多かったのかこの建物の周りにもいくつか関係施設がありました。でも上記記事の通り「今はもう一度ここから」ということなのですね。

今回の避難指示解除に伴い戻って帰郷可能となる対象者数は1万人を超えるそうです。もちろん上の方に書いたとおりインフラが復旧していない状況で帰郷する人が限定されるのは広野町や楢葉町の例を考えても明らかでしょう。でも、記事にもあったように「必ず帰る」ことを前提に日々の掃除を欠かさなかった人がいるということ。

そして福島第一の廃炉作業には仮に計画通りであっても35年かかるということ、そしてそのための作業員が必要だということ、そのためここ小高区にも今後作業員の方々が多く住むようになるだろうということ。それは広野町や楢葉町の例を見ても間違いないことです。「福島第一原発 廃炉図鑑」という本を購入して読みましたが、原発事故直後の経緯により原発南部のいわき市が人員受け入れ限界値に達しているのに対しこちら北部側はこれまでそういう流れがなかったことを考えると、今後小高区がもう1つの(北部側の)ベースとなることは容易に想像できます。

そんなわけで「廃炉という産業」を基礎として考えた場合、今後数年で小高は大きく変わっていくのかなと。それは地域住民からすればネガティブに「よそ者が大量に入り込む」不安意識として想定されることかも知れません。でも、「多くの人が住むことになればそこで多くの商売が始まる」のは間違いないことですし(=スーパーもできるかなと)、それに「外部の出身者が出入りするようになる」とは、たとえば「相馬野馬追をさらに全国区にするための無償宣伝ボランティアをどんどん増やしていくことになる」ともいえるわけですよね。

今年(2016)は無理でしょうが、もし来年以降自分が書いたように廃炉作業に携わる方々の宿舎が増えてきたら、相馬野馬追の数日だけは「県外からの作業員は休日」にしてもらってはどうでしょう。そのぶんの企業への補助は出すことにして。数日だけですから‥。

奇天烈なことを書いているようですがこれはものすごい効果を生むことがあります。古くはアメリカの「フルブライト奨学金」がそうですし、自分もその制度開始初期に利用したNZのワーキングホリデー制度だって、要は「NZをよく知ってもらい、それを年齢が上になったあたりで生かしてもらいたい」、つまりは「そこそこの地位に就いたらNZをよろしくね♪」ということなのですし、ある意味「刷り込み系体験教育」だったのかも(笑)。

かほどに自己経験はものをいう‥あ、ごめんなさいお昼ごはんでした!



何とおしんこどん、昼間っから冷酒をいくではありませんか!(いやTakemaが勧めたんですけれどね)。もちろんTakemaはお茶しか飲めないわけですが‥ええっと、お酒のアテとして出されたいか塩辛、いきなり絶品すぎる!(左上画像マウスオン)。そしてこのあとむふふーお寿司見参です!





いや、お世辞でも何でもなくこのお鮨は本当に美味しかった!おしんこどんと「このお鮨はすごいね、こんなの滅多に食べたことないってレベルだよ」とワイワイ言いながら一気に食べてしまいました。あ、おしんこどんはお酒を飲みながらでしたのでちょっとゆっくりでしたが)。あっさり完食後「これは、またこっちに来るときには再訪必至だね、間違いない!」と衆議一決しました(笑)。次回はカウンター席だな、うん(ご主人のお話も聞いてみたい)。



ちなみにせっかくなのでご祝儀を兼ねて上の方のランクのお鮨を注文したのでありました。

なおこのあとお店を出たら、われわれのすぐ直前に会計を終わらせた年配のグループが駐車場でわれわれの車を見ています。何だろうなと思いつつ車に近づくと、「習志野からですか?わざわざ?」と声がかかりました。「ええ、こちらのお寿司屋さんが営業を再開しているということを知って、ぜひこれは食べに行きたいと思って‥」と返答したわけですが、地元の人にとっては「わざわざ避難指示解除前の小高にやってくる」外部の人間がやっぱり珍しいのかなぁ。あ、アヤシイ者ではないですよ(笑)。

聞けば(別に聞き出したわけでもなく何となくそういう話になっただけですが)、やはり皆さんはここ小高の方々で、避難指示の解除を待って地元に戻ってこられるつもりのようです。男性が「自分はもう70も越えてるし、放射線による健康への長期的影響なんかは関係ないけれどね」とおっしゃっていましたが、その言外には「若い人はそうもいかないだろうし‥」という反語表現が含まれていたはずです。難しいところだよなぁ‥。

でも誰かが一歩を踏み出さないと状況は動かないわけで、この方々はその先発隊となって下さるのだともいえます。事故前とは勝手も大きく違うと思いますが、住み慣れた町で、家で、日々の暮らしを再開していただくようお願いいたします。



すぐ近くの「菓詩工房」さん、現在は原町区の海沿いでお店を再開しているそうですが、こちらに戻ってくる可能性は‥どうなのでしょうね。「必ず戻ってくる!」との幕が下がっていますが、あくまで商売なのですから経営が成り立つ見込みがなければ戻りたくとも戻れませんし‥。洋菓子は若い人に人気があるわけで、それこそ家族連れとかが戻って来ないと難しいのかなと。

さてこのあとはR6経由で一路南へと下ります。この区間については以前全区間の車載カメラによる動画を公開しましたので、見たい人はこのページ内の動画を見ていただくとして、今回はさらりと。



浪江町と双葉町との町境から帰還困難区域に入ります。区域内の主要分岐部にも人員が配置されており、ありがたいことです。



帰還困難区域内は立ち入りが制限されていますが、住民の方は年間30回を目安に立ち入りが許可されているようです。



国道沿いにはこのような有人ゲートが。国道側信号が青の交差点は通行証提示で立ち入りが可能なのだそうです。



警察車両は西日本ナンバーを複数目撃。まだ応援が続いているんだなと感謝。大熊町内のこのGSはネット画像でよく見かけます。



以前は目にしなかった線量値表示板。見にくいですが「2.802μSv/h」と表示されていました。このフレコンバッグも前はここにはなかったな。



富岡町内に入り、帰還困難区域はここまでです。警察の方はいったい何を監視しているのでしょうか?窓開け?

帰還困難区域を抜けてしばらく進むと富岡町の中心部となります。もちろんここも居住制限地域ということで歩道を歩く人の姿はほぼ見受けられないのでありますが‥この日自分が訪問したかったのは、「津波で被災(2名殉職)した双葉署所属のパトカー」の展示場所でした。

しかしいつもの通りの下調べの甘さゆえ「双葉署に行けばなんとかわかるだろう」というレベルの発想。2016/7現在双葉署は楢葉町の道の駅を仮庁舎としていることは知っていたはずなのに「誰かいるんじゃない?」とは発想が甘すぎですね(苦笑)。



結局見つけられずに断念したわけですが、調べてみたら警察庁舎北隣の公園内に置かれていたのだとか。先ほどグーグル絡みで確認したのですが、何だか一般家庭カーポート用のポリカーボネード屋根の下にポツンと置かれているだけでちょっと淋しい感じでした。せっかくならせめて警察署の敷地内に置いてあげられなかったのかなぁ。次回訪問してみます。

ところで富岡町も現在全域にわたり避難が続いていますが、ごく一部の商店(家庭用品屋さん)はずいぶん前から日中に店を開けています。家の手入れに来た人たちの利便性を考えて云々ということだったと記憶していますが、2017年の避難指示解除に向けての動きはこちらも進んでいて、何と復興拠点内(右上画像)にスーパー(ヨークベニマル)とホームセンター(ダイユーエイト)が開店する予定らしいのです(ダイユーエイトは何と2016秋の開店予定らしい。ヨークベニマルは2017春を予定)。

このあたりは南相馬の小高区とかなり違うところで、需要想定として帰還住民のみならずいわき方面から通う作業員の方々の利用も考えられているのでしょう。でも「日々の食べ物」を地元で買えるという利便性はかなり大きいと思われます。今後南相馬市小高区・富岡町それぞれの地域がどう進んでいくのかを興味深く見ていきたいものです。



国道を左折して旧富岡駅前まで来てびっくり。復興が進んだといえばそれは当然なのですが、富岡駅周辺の津波被災家屋はごく一部を除いて全て撤去されていました(右上画像マウスオンで2014/3時点の画像に変わります)。まぁそのあとも訪問しているので駅舎がなくなったことは知っていましたが、周辺の家屋が撤去されたことは知らなかったなぁ。

ちなみにその旧駅の海側には白い大型仮設テントが見えています。おそらくは放射性廃棄物減容化関連施設だと思われますが(ただし仮設焼却場はこれではないです)、とにかく旧富岡駅周辺の風景は徹底的に変わってしまったといえるでしょう。



いずれは、ここに駅があった痕跡も完全になくなってしまうと思われます。



左上画像のパトカーは広島ナンバー、右上画像の警察車両は福井ナンバーでした。ありがとうございます。

さて楢葉町に入ります。町内全域に出されていた避難指示は2015/9に解除されていますが、住民の帰還具合は2016/2現在で6%ほど(数ヶ月前のデータですが)。しかし1F原発の南側には北側とはまた違った「活気」があるのも事実です。それは‥



上にも書きましたが、これらの作業員の方々は当然帰還者の数には含まれません。でも一方で、「実際に現在この地域で暮らしておられる」方々であるのも事実です。そして、これまでいわき市に集中していた宿舎も、これからは徐々に広野・楢葉町に建設が進んでいくことでしょう(すでに広野町では帰還者数と同じくらいの作業員が「住んでいる」といいます)。富岡だって町中心部のアパートなどが借り上げ宿舎になる可能性は大いにあります。スーパーだってできる予定なんだし。難点は娯楽施設が今のところないという点ですが、これについては「需要のあるところには必ず供給が生まれる」と思うのでそれほど心配していません。



町内のところどころでは住宅の新築工事が行われていました。そういうことなんだなぁ‥と思いつつ、前回も立ち寄った天神岬温泉しおかぜ荘へと立ち寄ります(前回のレポートはこちら)。



前回訪問は平日の夕方前でしたがこの日は日曜日の午後、浴室は常時10人以上のお客さんで賑わっていましたのでお風呂画像はもちろんなし。これだけの賑わいって、いわき市在住の楢葉町民の方々がこぞってお越しになっているとも思えません(いわき湯本温泉のほうが圧倒的に便利だし)。たぶん本日お休みの作業員の方々の比率も高かったのではないかな?(想像ですが)。ちなみに震災前に比べて源泉温度が下がり(33-25度へ)成分も薄くなったため近々源泉を掘り直すそうな‥でもしっかりツル感は感じましたよ。

さてこのあとは一気に帰ります。どうも最近いわき市内の温泉立ち寄り頻度が下がっているようにも思えますが、またそのうち泊まりでのんびりしたいと思います。特に谷地鉱泉や久之浜鉱泉、宿泊OKならすぐにでも泊まりに行きます!

で、美野里PAまで下ってきましたが‥





天神岬での車外温度計は26度だったのに(14:00ちょい前)、茨城内陸部のこの美野里PA(16:30くらい?)では36度でありました!さすがにPAでソフトをハフりましたわ(笑)。



そんなわけで一気に自宅‥とはいかず、常磐道流山IC付近での事故渋滞につきかなり低速の進行でした。柏−流山間は事故が起きると路肩がないので‥もうちょっと何とかならんかなぁ?(無理筋)。

そんなわけで針小棒大系のテキストやたら多きこのページを最後まで読破下さったあなた!心より感謝申し上げます!(プレゼントはなしね)。

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