− その2 南三陸をもう少しうろうろのあと東鳴子温泉へ。夕食は八兆。 −



こちら高野会館は屋上まで水が来ましたが、327人と2匹の命を救ってくれました。



食事処 松原さんを辞去したあとは、民間の震災遺構として残される「旧高野(こうや)会館」((株)阿部長商店が所有=ホテル観洋もそうです)へ。被災前は結婚式やさまざまなイベント会場として使われていた建物ですが、津波襲来時は従業員さんの的確な誘導により300人以上の命が救われました(詳しくはこちら参照)。

この日は通行止めになっていなかったので、橋を渡って近くまで行かれそうです。ちなみにこの橋(港橋)も津波に耐え残ったものですが、欄干やその周辺の構造物は当時のままのようです(右上画像マウスオン)。被災後数年間は南三陸町に限らず、津波によってひしゃげられたガードレールやガードフェンスや標識ポールをそれこそあちこちで目にしたものですが、ここにはそれが橋のたもとにまだわずかに残っていて少しびっくりしました。

周辺の盛り土状況から考えて、やがてはこの橋も撤去 or 新造置換となるはずでしょうから、それまでの間最低限使えるようにしただけということなのかもしれません。

高野会館直近部手前に「工事中に付き通行止め」と書かれた看板があったので、その手前に車を止めて歩いて行きます。建物の躯体そのものは壁部分を含め現在でもしっかりしているようです。やはり鉄筋コンクリート造と鉄骨造(防災庁舎)では耐力が全然違うんだなと改めて実感します。



屋上およびそれより一段高い機械室に上がった避難者の方々は屋上部までの浸水(魚が飛んできたそうです)があったにもかかわらず無事。当日は老人会のイベントが行われていたそうで、会館の管理職の方(元漁師さん)が海の引き方を見て「これは大きな津波が来る」と判断し、帰ろうとするお客さんを制止し階上へと上がらせたのだとか。

その一方で高野会館の斜め向かいにあった「公立志津川病院」では入院患者および病院関係者を合わせ75人が命を落としました。高野会館の屋上に避難し、そこから「病院の窓からベッドごと流される患者さん」を見てしまった方々もおられるようです。そのことを含め、ここは悲しい場所でもあります。否、志津川地区の方々はあの日あまりの悲しみと絶望ににうちひしがれたはずなのだと存じます。



こちらは2011/8に南三陸町を訪問した時の画像です。左上画像が旧公立志津川病院、右上画像は「さかなのみうら」さんの旧店舗でしょうか。「ふんばれ」の語に、悲しみと同時にこの地に住む方々の心意気を感じたものでした(この時のページはこちら)。それにしても「さかなのみうら」さんも津波被災、その半年後に高台の国道沿いにお店を復活させるも2014に火事、でもその3ヶ月後には旧さんさん商店街近隣にお店を開くという‥そのスピード、まさに「ふんばれ」を地でいく感じです。

「さかなのみうら」さん現店舗は仮設さんさん商店街の近隣。いまとなっては(われわれ部外者観光客的には)少し遠いのですが、このページを作っているうちに「さかなのみうら」のコマーシャル動画を見つけましたので、応援のつもりで載せておきます(「そこそこ古い動画」のようですが)。





旧高野会館入口。エントランス屋根からわかるとおりここが正面でした。そしてかつての国道45号線はこの前を‥うわ。



これも仕方ないことではあるんですけれどね。でも旧国道のアスファルトは決して剥がさないでほしいし、出来れば新国道の工事終了後にはここに再び道路ラインを引いてほしいとも思います。「かつてここがここ志津川地区の動脈だった」ことの証として。

ランドマークとしての高野会館(と防災庁舎)があることにより、旧志津川地区に住まわれていた方々も「自分の住んでいた場所」(それはもう盛り土の底ではあるのですが)のおおよその位置を掴むことができるでしょう。そしてそれはとても大切なこと。

スマホにはGPS機能がありますから、かつて自分が住んでいた場所に行くこと自体は可能でしょう(立ち入り禁止の場合はともかくとして)。でも、その場所に立ったとして「ここだっけ?」というのはあまりにも悲しいことです。その時に「ああ、確かにあの方向に高野会館があったな」ということから再び当時の脳内地図が浮かんでくるのではないでしょうか?

自分は完全に被災地外側の人間であり無責任な立場でありながら「とにかく各地の震災遺構は出来るだけ残してほしい」というスタンスでこれまでいろいろと訪問記を書いてきました。それが被災された方々のお気持ちをどれだけえぐるものであったとしても「とにかく残してほしい」と願い、そして「映像や画像で残せるから問題ない」という意見に反論してきました。で、今あらためて思うのです。



もちろん反論はあることでしょうが、自分としてはそう思っています。そしてどこかにも書きましたが「そこは津波被災を知る場としてやがて外部の人々を引き寄せる観光地ともなり得る」ということも。

2012年に東浩紀氏が立案した「福島第一原発観光地計画」。自分としてもその発想自体は支持する立場ではありますが、なぜ2012という「まだまったく先行きの見えていなかったあの時期」にぶちあげたのか?まさに「言論」という狭い世界で判断したのかなと思わざるを得ませんでした。というか「東京発ネット発@地域を見ていない」だったのかなと。

その言論に対する反発、そしてもちろん「目の前の悲惨さ」を日々目にしている方々の「震災の痕跡を無くしてほしい」という当然の思いを旨として、たとえば気仙沼の内陸にまで打ち上げられた第18共徳丸」も結局撤去されてしまいました(撤去前のページはこちらとかこちらとか)。

本当にこれでよかったのか?自分としては「もう少し未来を見据えてほしかった」という思いです。いつか「これほどまでに復興を成し遂げ繁栄を取り戻しました」と誇る津波被災地があるとしても、「かつての負の遺産」が少なければ少ないほど、数十年数百年先に「また痛い目をみる」可能性が高くなるのではないか。自分としてはそう思ってしまうのです。



さて話を戻しましょう。この丘には前回(2017秋)にも登っていますがおしんこどんは初めてというわけです。右上画像に見えているのは新国道45号の橋梁。とにかくここ志津川界隈にもうかつてをしのばせる構造物はほとんどありません。それをいいとか悪いとか価値判断することに意味はなく、ただいえるのは「こんなにも変わっちゃったんだよなぁ」という現実だけなのです。

さてこのあとは本設のさんさん商店街へ。休日ということもあって駐車場はかなり混んでおりました(いいことですね)。



やっぱり志津川といえばタコなのです。タコの味は捕食するモノによって変わってくるそうなのですが、ここ志津川のタコはアワビを食べているということですからねー。前のページにも書きましたが、唐揚げにしても身の柔らかさはプリプリですし、とにかく一度お食べあれのトップクラスなのですよ。ただし松原さんで食べたばかりだったので商店街では今回食べ物パス、



こちらで「タコぷりん」を購入しただけで終了しました(笑)。そういえばお魚屋さん(ロイヤルフィッシュ)ではフカヒレも売ってたなぁ。このあとの行程を考えると買ってもどうしようもないので眺めるだけでしたが(以前毛ガニとホタテを購入したのでとりあえずお許しください)

新しくなったさんさん商店街におじゃまするのは2回目ですが、敷地が広くなり店舗ごとのスペースも広くなったのはいいとして、何だか「商店街」たる雰囲気は薄まってしまったような気がします。通路は広くなりましたが、商店街独特の「店先をつき合わせての商売」の雰囲気は仮設時代に比べて薄くなってしまった感じです。まぁ利便性は良くなったはずですので、少なくとも部外者の勝手なノスタルジーなどどうでもいい話ですけれどね。

さてこのあとは一路鳴子温泉へと向かいます。カーナビに任せると無理矢理東北道を使いたがるので、「途中まで従うふりをして」進んでいきます。県道36号「みやぎ県北高速幹線道路」を走っていると‥





「何でこんなにいる?」とちょっとびっくりしましたが、この近隣にはラムサール条約の登録湿地となっている伊豆沼ほかいくつかの沼があり、彼らはそこに帰ろうとしていたわけですね。うーん何だかいい光景を見ました。

そんなわけで鳴子へ。とはいえ今回の宿は阿部旅館さんではありません。以前阿部旅館の女将さんに「うちだけでなくいろいろな宿にも泊まってくださいね」と言われていたこともあり、今回は‥旅館 大沼さんへと向かいます。この界隈ではちょっと高級なんですが、湯治部屋泊&朝食のみですから目は飛び出ません(苦笑)。別の場所にあるお風呂に無理して入ろうとも思いませんでしたし(いま考えればちょっと後悔)。



到着すると、和装の女将さん(大女将かも)からお抹茶を振る舞われます。うわ、こういうの久しぶりです。



部屋はご覧のとおりの六畳間ですが、何と湯治部屋でも布団を敷いていただけるとのことです(貧乏性なのでフロントに電話して「シーツがないんですが」と申し上げると「お客さまの外出中にこちらで敷いておきますのでご安心を」というわけでちょっと恥ずかしかった(汗))。

ひとっ風呂くらいの時間はありましたんで大浴場脇の「灯りの湯」にちゃちゃっと入ります(左上画像マウスオン)。もっとも夕飯は例の焼肉屋ですから食事後にはたっぷり焼肉臭をひっさげて戻ってくるはずで、まぁそのあと洗い流して浸かればいいさということで。(飲酒後の入浴には注意しなければですが)。



鳴子御殿湯駅に到着した陸羽東線の列車を横目にしつつ、初音さんとか高友さんとかに駐められた車の数を眺めては「今日は空いていそうだな」と余計なお世話系の邪推をしつつ歩いていきます。そりゃそうだ、この日は日曜日ですから世の皆さんは明日お仕事ですし。



そんなわけで到着&乾杯!あ、温泉師匠と待ち合わせをしていたので3本の手が伸びているというわけです。しかし結局カウンターに座る人はなかったなぁ。そういえば、あえて日曜出発としたのも「土曜だと混んでいるだろうから」という思いからだったのでした。



この日ももう少し頼んだはずですが(確か最初はハラミを注文した記憶があるし)、全然画像に残していなかったのでホルモンとレバーのハーフ盛りがかぶってますがごめんなさい。ちなみにこの日はクリスマスイブ!というわけで何とケーキが登場、ありがたや♪(ただし自分は甘いお菓子が苦手なのでお気持ちだけいただきました)。



部屋に戻ってくると、廊下の窓からはお隣ニューあらおさんの電飾が輝いているのが見えていました。そんなわけで再びお風呂へと向かいます。ひとつ上の階にある「陰の湯」「陽の湯」。どちらも空いていましたが、とりあえず広い方の「陽の湯」へ。



貸し切り制なのでのんびり。たっぷり水分補給しつつ就寝。ついでに「陰の湯」も写真だけね(右上画像マウスオン)。

明けて翌朝です。お天気は着々と悪くなってきており、聞けば「爆弾低気圧」が襲来しつつあるそうな。確かに昨晩も夜半から大荒れになったもんなぁ。4階にある「陰」「陽」の湯もかなり風切り音が聞こえていましたが、露天風呂というわけではないのでまぁ何とか。おしんこどんが寝ている間に「陰の湯」へ。







そんなわけで重曹泉に身体を沈めます。薄い茶濁りで、源泉はご覧のとおりの湯温、ちなみに自身の身体を以てかき回したあとの浴槽内湯温は45.2度でありました(このあと入れ替わりで小さなお子さんを連れたお母さんが入っていきましたが、お子さんには無理だよなぁ‥大量加水したかと=宜なり)。



朝ごはんはなかなかシンプルにして秀逸でした。おしんこどんがいれてくれたお茶にもしっかり茶柱が立ってたし!

ちなみに一時期「宿の食事時にご飯のおひつを女性の方に置くアレはどうなのか」系のネタが流行りましたが、自分としてはアホラシ何その被害妄想的発想という感じで、そんなもん近いほうがやればいいだけの話、何その被害妄想系発想はと思う次第です。この朝ご飯を盛るのはたまたまTakemaの役目となっていました。何だかその昔の巨泉さんの「ワタシ作る人、ボク食べる人」に難癖を付けた人々と同じ部類のお馬鹿方々による火付けだったのかと。いずれにせよ大馬鹿系ですね。



朝食後は大浴場へ。朝ごはんのあと速攻で風呂と考える人は少ないとみえて貸し切り♪



黄色味を帯びた湯は適温に保たれています。ご覧のように換気が良くて湯気モウではないですがやや薄ら寒い(笑)。

さてこの日は駒の湯温泉へと向かうのですが、ご夫妻が用事で里に下りていて戻るのは17:00ころになるということなので、宿泊は近隣の「新湯温泉くりこま荘」さんなのです。こちらにチェックインしておいて、のんびりご夫妻のお帰りを待ち(もちろんくりこま荘のお湯もタンノーしつつ)、お二人が戻って来たらくりこま荘で一緒に夕食をという算段です。完璧な計画だ(笑)。

しかしそれにしても時間がたっぷりあるというわけで、これまで少し気になっていた界隈の温泉を目指すことにしました。県境を越えて岩手県へと進みます。というわけでこの続きは次ページにて。

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