【2016/3 南相馬〜釜石+栗駒・東鳴子】

− その9 南三陸から大船渡へとさらに北上 −



さてそんなわけで南三陸町内を志津川から歌津に向かって北上します。もう見慣れてしまったJR鉄路の高架線をくぐり抜け、たぶんこれまでの仮設橋を架け替えるまでの「これまた仮橋」(右上画像)を走り抜けて歌津までやって来たわけです。

伊里前の仮設商店街が「盛り土かさ上げ工事のため移設」したことは旅行前のサーチで知っていました。と、しかし、もしかして?




(下の両画像は2011/8に撮影したものです)。




(左上画像マウスオンで沖合の岬地形画像を確認してもらえると思います)。

やっぱりそうだった‥(2011/8のページはこちら)。震災前、国道45号線はこの歌津地区を海側からバイパスで通過していたわけですが、かの津波は数波も押し寄せ歌津大橋の橋梁部をいつのまにかひっぺがしつつ歌津の平地地区をこのような姿に変えてしまったわけです(現地の詳しい動画はこちら。津波襲来前から被災後までを網羅しており見る価値ありです)。



そんなわけで移動郵便局(2011/8にはすでに稼働していました)でお金を下ろし(千葉からお金を持参しておけば済むことでしょうが、この車とて「利用率が下がれば撤収」されてしまうと思われるので、これもまた現地振興ということにしておきましょう)。

さて前回は佐藤酒店でお酒を買いましたが(こちら)、かの若主人さんがこの日も大笑いをしていることを確認した上で(笑)、右上画像のマルエーさんで初お買い物。南三陸ロゴ入りのジャンパーを購入しました。わたしは職場で「あ、今日は石巻」「今日は南三陸なのですね」などとジャンパーをチェックされています(バイク通勤なので)。ご当地ジャンパーやポロシャツは好きこのんで買い、そして着ます(Tシャツはそうでもない)。いわき〜八戸エリアでそのようなロゴ入りウェアがあれば是非ともお教え下さいませ(笑)。

ただこの時聞いた話として、「ここ(伊里前)は復興商店街(経費がかからない)だからやっていかれるわけで、これを恒久的な施設(契約&家賃を払って云々)でやろうとすれば各店舗ともほとんど無理じゃないのかな?」というお言葉がありました。

確かにそうなのかも知れません。そして南三陸町によるそれぞれの青写真を見ても、特に伊里前のほうは「現状前提」なのですよね。それでいいのかな?伊里前が今もさんさんに比べて閑散としている理由を無視していいのかなと?

何だかとっても不思議です。地域の&外部からを問わず人を集めるには「ごはん」ですよね。でも「さんさん」にはあっても「伊里前」にはないんです。そして今後の恒久施設計画においても伊里前で飲食施設に力点を置いた発想はないみたい‥。



伊里前の復興後青写真を見たら大型バスの駐車スペースが3台だけだったかな?間違っていたら申し訳ないのですが、東日本大震災に絡む復興作業はまだまだ続きます。前回、旧伊里前商店街を訪問した際、ちょうどお昼時とあって駐車場には大型ダンプが集結していました。10台はいたかなと。ちょうど昼休みゆえ休憩していたのでしょうが、各自が持参した弁当をそれぞれの車の中で食べるのもいいでしょうが、みなで机を囲んで好きなものを注文して食べるのとでは「午後のやる気」も違ってくるような気もしますがいかがなものでしょうか?



そのあと道の駅大谷海岸でトイレ休憩を取りましたが、あれま、直売センターは本日休業ですと。まぁ連休明けですから店員さんたちのお休みも必要ですよね。しかしこの「ふかひれソフト」は何となく食べてみたかったぞ(笑)。



しばらく気仙沼の市街地にはご無沙汰している感がありますが今回もごめんなさい通過です。いずれ必ず再訪しますので、その時には「しばらく見ていなかった間にずいぶん復興が進んだなぁ」と感じられたらいいなぁ。



陸前高田方面に進む区間の一部は無料高速区間が伸びていますし、またあちこちで工事も進んでいるようでした。三陸道の工事は震災をきっかけとした国策により「初期の予定比でどのくらいの早回し」で進んでいるのかなとふと思います。たぶん「とてつもない早回し」なんだろうとは思いますが‥。



被災した旧気仙中学校(全員避難して無事)、そして震災後に一世を風靡した?土砂運搬用の「希望の架け橋」(運用終了。なお運用当時の訪問ページはこちら)が見えてくれば陸前高田の旧市街です。むろん今は市街地と呼べるモノなど何もなく、R45とR340の交差点付近に「奇跡の一本松」見学用の駐車場およびいくつかの仮設商業施設があるばかりです。



もう時間も遅め(17:00)だったのですがまだ売店というかおみやげ屋さんがやっていたのでいくつか購入。おしんこどんはこういうのがあると必ず顔を出すのがお約束(笑)。

なおここから一本松までは歩いていくしかありません。近いようでいて片道15分くらいかかりますので時間には余裕を持って訪問したほうがいいです。もちろんこの日は「そろそろ時間に追われ出していた」ので見に行くことはしませんでした(もうそろそろ暗くなり始める)。まぁ以前訪問したのでいいでしょう(2014/8の一本松訪問ページはこちら)。

ちなみにこの施設からでも一本松を遠望することは可能です(左上画像マウスオン)。ただし画像は相当ズームして撮ってますけれど(笑)。なお、この施設内の一室で復興の歩みを撮影した写真展が開かれているということですのでそちらをのぞいてみることに。



入ってみると、撮影なさったカメラマンの方がおられました。一つ一つ説明して下さろうとするのですが、このあと大船渡まで行かなければならないのと、また2014にはここ陸前高田で震災語り部さんに案内&お話を伺っているので、気になる写真だけこちらから質問をさせていただくことに。



当時避難所に指定されていた市民体育館に関する右上画像のコメントですが、「市民一人一人が避難所に大して無関心だったと思うんです」との言葉には重みがあります。とかく日本人は「お上に関して従順」というか、「いざとなれば公的機関が何とかしてくれる」と考える傾向が強いように思います(それはもちろん、これまでの困難時に「お上(公)」が一定レベル以上の手助けをしてくれてきたことを経験として記憶しているからにほかなりませんが)。

しかし「お上」だって万全の手だてを準備しておくことはできませんし判断ミスだってあるわけです。それを「行政のミスだ!」と罵ることは簡単ですが、この文章では「住民の油断だ」と綴っているわけです。

自分はこの意見について全面的に賛成するわけではありませんが、ただ「この事は、皆さんの町でも起こる可能性があるんです」については間違いなくその通りだと思います。「いざというときはあそこが避難所だから」を金科玉条として鵜呑みにしているだけではいざというときの準備としては不足だというわけです。

上記の市民体育館には数百人が避難したそうですが、助かったのはたった数人だけだったそうです。そのことを含む2011の消防団員氏のレポートがまだ掲載されています。陸前高田市、および津波の被災地で起きたことについてよくご存じない方にとっては必読です(つらい内容ですが)。



近隣の旧雇用促進住宅1棟、そして上で出てきた旧気仙中学校とともに震災遺構として保存される予定の旧「道の駅 高田松原」の前を通過する時にそっと頭を下げました(ここには慰霊施設=手前の小屋が設置されています)。

ただ、やがてはこの道R45もかさ上げされ、いずれはこの施設への目線も「見下ろす」角度になってしまうのかもしれません。でもこの場所の風景がどんなに変わってしまうとしても、わたしは2014訪問時、震災語り部の女性が発したお言葉を忘れはいたしません。それは‥



というものでした。このお言葉を思い出すたびに複雑な気持ちになりますが、だからといって自分がそのお気持ちを引き受けることなどできません。となれば、やっぱり自分は今回のように少しでも現地に行って買い物や宿泊等を通して現地に貢献するしかないのかなと。

震災直後の2011/4上旬、自分は栃木から会津方面を旅行したわけですが、その時の旅行記に自分はいみじくも「今回の災害に関するニュースも『必ず風化する日がやってくる』ことになります」と書いています(その時のページはこちら)。

これは別に先を読んでいたわけでも何でもなく、これまでの全てのセンセーショナルな自然災害がその通りに進んだだけなのであり、この書き込みは慧眼どころかパクリみたいなもんです(自虐)。

でもその日はやってきています。日曜日午前中のNHK以外に被災地発の情報を見なくなったところにきて熊本の大地震です。規模が違うとはいえ視聴者の興味が動けばNHKの午前枠も今後はどうなるかわかりません。

というか三陸の各地域は「津波被災地」というネームからもう卒業していいのでしょう。否、卒業すべきなのだと思います。「風化」などなんのその、次のステージに上がらなければなりません。そしてそれは漁業関係にしろ観光にしろ、「他の非被災地と対等の土俵に上がる」ことにほかなりません。

たとえば牡蠣やホタテにしても、震災前にあった流通先はすでに国内別産地に押さえられており「生産は回復したが納入先の開拓が課題」という記事を目にします。でもそれはたとえば「怪我から復帰して(格落ちして)かつての土俵に上がろうと思ったらかつての番付には以前格下だった力士が上がっている」というような感じですよね。それはまさに理の当然です。

となれば大相撲であればその奪還目指して進むしかないのですが、流通はもはやそうではないわけで、新たな販路をネットを含めて模索するのが一番なのだろうなと思うわけです。女川のAさんも「このホタテを1つのブランドとして売り出したい」とおっしゃっていたわけですし、今後第一次産業は(すぐに「六次化」という言葉に拡大されますがそうではなく)消費者直結、農協漁協を「通さない」直販ルートを模索していかなければならないのだと思います。

たぶん農協漁協の関係者諸氏からはぶっ殺されそうな意見ですが、たとえば農漁業機器や肥料など、農漁協を通さなければホームセンターなどではるかに安く手に入るというのはそこそこ有名な話です。そして販路も長年の‥。これまでのやり方、もうそんなのはTPPがあろうがなかろうが無理筋だと思うのです。あとは既得権の維持に汲々としつつ縮小均衡へと進むばかり‥。

第一次産業について門外漢のTakemaですが、「これまでの枠組みにこだわっている限り」被災地非被災地の別を問わず農牧漁業は衰退していくのだろうと思います。農協漁協は要らないというのではありませんが、今のそれがかえって「衰退を助長しかねない存在」になっていることを自覚してもらうことだけは大切だと思うわけです。それ以上は言いますまい。

とんでもなく長くなってしまいましたが旅の続きです。



夕闇が迫るころ、大船渡市街地南部の高台にあるこの日のお宿に到着しました。駐車場はほぼ満車でしたが、そこそこの比率で復興関係の車かな。各所で復興工事の真っ最中なのですから当然です。泊まれるだけありがたい。

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