その2 千葉から出発、お昼ごはんは南三陸にて



われわれのGW初日、いわき市北部まで上がってきたところで朝日が。

(2022年5月1日-6日 その2)

2022のGWは5/1-6の6連休でありました。2020、2021とGWのお出かけは自粛していましたが(それ以外の時期には行ってますが)、今年はまぁ何とかというわけで(ワクチンもファファモと3回接種してますし)、現地でいつものメンバーとわらわらやってきたわけです。

このGWは高速道路の休日割引適用外ということでしたが、深夜割引は適用されるので「常磐道の三郷料金所を4AM前に通過すべし、でも同じことを考える人は多いはず」というわけで、余裕を持って早めに出発しました。



しかしですね、実際のところ車はバリバリに少なくて拍子抜け。たぶん翌5/2が平日であることが大きな要因だと思うのですが、とにかく空いていました!この日はお昼ごはんを南三陸でという予定だったのですが、そもそも途中の混雑を見越し、また途中での仮眠タイムも考慮すれば時間的にちょうどいいかなという計画でした。

しかし、ご覧のとおりのスイスイ高速、しかも出発前に仮眠していたこともありドライバーTakemaも全然眠くありません!というわけでいわきから先は、



ほぼ各駅停車で休憩したわけです(時間が余りすぎ)。

それにしても、常磐道周辺の放射線量値もずいぶん下がりましたね。今回は「0.1-1.9μSv/h」という電光掲示が出ていましたが、確か開通直後に走った時の最大値は「7.9μSv/h」だったように記憶しています。開通前には除染作業も行ったはずですが、開通後はそれも難しいはずであり、つまりは自然減衰が予想以上に進んでいるということなんでしょうか。



あにゃまぁ全然車がいない‥というわけで南相馬鹿島SAへ。

「各駅(SA&PA)停車」とはいえ、ならはPAから南相馬鹿島SAまでは50kmちょいあるんですけれどね。こちらの南相馬鹿島SA(ちなみに「みなみそうま かしま」です。よい子の皆さんは変なところで区切って読まないようにね)は常磐道北部最大の規模を誇る関係で駐車場もそこそこ埋まっており、売店もレストランもあるのですがさすがにまだ朝6時ですから‥ん?そういえば唯一たこ焼き屋が絶賛営業中でした。ただ見ている限り売れているようには見えませんでしたが‥(朝食がたこ焼きというのもねぇ)。

さてしかし、ここ南相馬から南三陸町まではたったの2時間ちょいです。ええっと、このまま北上すれば8時過ぎには到着しちゃうんですが、それってランチタイムどころかモーニングのスタート時間でしょ。こりゃ困った早すぎる(少しでも時間を?のため、エリア内にある神社にお詣りしました@右上画像マウスオーバー)。

というわけで急遽石巻に寄り道することを決めましたが、それでも早いよなぁ‥。さてしかし、さらに北上していく途中、Takemaのシナプス細胞がニューロンしてミトコンドリアに至りました!(意味不明)。それは‥



というわけで、名取ICで高速を下り(深夜割引はここまでで終了)、いざ閖上(ゆりあげ)港朝市会場へと向かいます!うっはぁよく思いだしたわ!しかも閖上港エリアには震災からの再整備後少なくとも2回行きましたが、1度目は平日だったので閑散(メイプル館を見学しただけ)、2度目は日曜日ではありましたがお昼頃の到着だったので「各店とも絶賛閉店作業中」だったのです。





海沿いの朝市ですが、旬の野菜もしっかり販売されています。



もちろんワカメやかまぼこなどの海産品やホッキめしなどのお弁当も。



さらにはお菓子の安売りも。賞味期限が近いから安いのかな?

ちなみに右上画像のポテトチップス、3個で300円と格安で、売り子のオジサンに勧められるままに購入。で、この旅行から帰ってきておしんこどんが職場に持っていき、そこでよくよく表示を見てみたら‥



あれまぁ、エストニアからどういう経緯でここ閖上にまでやってきたのやらとちょっとびっくり。ちなみに賞味期限は2022/5でした(今月いっぱい)。だから安かったのか。でもまだ1袋あるんだよなぁ(笑)。



もちろん海のモノもあれば、なぜか水餃子のお店には行列が。

さてしかしこれ(水餃子)はいいですぞ、この日のお昼は1年ちょいぶりに南三陸の松原食堂さん(あ、今は「食事処 松原」さんか)におじゃまするつもりなので、「朝食は軽く」というつもりだったのです。他にもテイクアウトでほっきめしなども売られていましたが(ちょっと心動いた)、それはそれとしてこちらの水餃子、





というわけで列に並びました。「餃子王」さんです。隣に「豊華」さんもありましたが、微妙に列が長かったのでパス。そもそも同じ水餃子の店が2軒並んでいてどちらも盛業中ということは「どっちも負けず劣らず旨い」ということでしょうし。

水餃子は厨房からどんどん供給されてきますので当然出来たてをいただけます。と、われわれの前の人でロットが終了し、1分半くらい待つことに。全然問題ないですけれどね。

さて水餃子8個の上にキムチをトッピングし、ゆで卵も1個いただいて‥





シェアすることで1人4個の水餃子にキムチとゆで卵、朝ごはんとしては十分です(少食夫婦)。アツアツをハフハフといただきましたよん♪



腰を据えて海鮮BBQという手もありましたが(笑)。



それにしても閖上もすっかり復興し、毎日営業のメイプル館もすっかり馴染んだ感じです。津波被災直後に訪問することはなかった閖上ですが、メイプル館が建った頃の訪問では住宅街の街並みに何だか違和感があったものなぁ。

このあと駐車場に戻りましたが、いやぁどんどんどんどん車がやってきます。GWということもあるのでしょうがすごい人気スポットです。もっとも震災前もこんな感じだったのでしょうね。駐車場などのスペースは今よりも少なかったのかも知れません。

さてこのあとは近隣の「日和山」に立ち寄ります。



こちらにも何度か訪問してきましたが、ずいぶん緑が濃くなった気がします。2011年の津波襲来時にはこの山というか丘のさらに上まで津波が通り抜けたといいます。そりゃ閖上地区が全損するわけだ‥。



神社で手を合わせ(だいぶ古びた味が出てきましたね)、ふと最初の訪問時にはなかった気がするヤマザクラが気になりました(「なかった」というのは勘違い)。看板を見ると「2012年5月の植樹」であることがわかり、10年経つとここまで大きくなるのだなぁとしみじみ。



こちらは2016/3の画像です。ヤマザクラ、囲われていますがホントに小さい‥。



自分はここ10年でどれほど大きくなれたのか?と自戒する次第です(苦笑)。

さてこのあとは再び常磐道-仙台東部道路-三陸道と進みます。ただしまだまだ時間的に早いので石巻に立ち寄ることに。いつもついつい行っちゃうのが日和山公園と神社なんですよね(本日2つ目の日和山!)



石巻の海を見下ろすことができる日和山(標高56m)の海側正面には鹿島御児神社の鳥居が。1935年に建てられたという旧鳥居は2011年の東日本大震災でも倒壊することはありませんでしたが、やはりダメージはあったようで予防的措置として2021年に建て替えられました。自分も新鳥居を見るのは今回が初めて。で、まずは神社にお詣りです。



手水舎からは柄杓が消え、パイプから流れる水を利用する方式になっていました。これもコロナ禍の影響からなのですが、コロナ前の「当たり前」がいろいろ「別の当たり前」に変わりつつあるように感じます。旅行絡みでいえば「別室での夕食中、部屋に布団を敷きに来る」が「到着時にはすでに布団が敷かれている」という変化は大歓迎なのですが、それ以外にも実にいろいろと変わっていますよね。皆さんの職場や学校などでもおそらくそうでしょう。

コロナ禍が長引くにつれてそんな新たな「新常識」がどんどん増えているのでしょう。果たして今後、ワクチンや治療薬によりコロナウィルスがインフルエンザ並みに抑えられるようになったとして、その「新常識」はどうなっていくのでしょう?テレワークは縮小しそうだなぁ(わたしの職場ではなくなりました)、また新入社員歓迎会とか忘年会などのいわゆる飲みニケーション系居酒屋文化も間違いなく縮小していき、居酒屋はオジサンたちが「古き良き時代」を懐かしむノスタルジックなスペースとなっていきそうな気もします。

まぁそれも時代の流れだと割り切るしかありません。アラ還暦の域に達した自分たちの行動文化が次世代に受け継がれなければならない必然性などないのですから。それも淋しいことではありますが受け入れるしかありません。ただしそのことと「その文化を古くさいとして否定することとは全く別の問題ではありますが。



あらためて日和山の丘から旧北上川河口側を見てみると‥おお、昨年(2021年3月)にはまだ工事中だった「石巻かわみなと大橋」が開通しているではないですか!



昨年はまだこんな感じでしたからね(この時のページはこちら)。

ところでここ日和山公園に上がる道は案外わかりにくく、看板はあるにせよ道路幅も細いし、特に仙台方面から来ると右左折も多くて案外わかりにくいのですが(ナビで設定すれば楽勝)、自分は「いつもの道」で上がってきました。少なくとも軽自動車には往路であまりお勧めできないこの道ですが、なぜお勧めしないかというと‥





もちろん昨今の軽自動車なら登れないことはないでしょうが、でもエンジンを相当唸らせることにはなりそうです。

このあとは、先月(2022/4)にオープンした「旧門脇小学校」を外から無料見学することにしました。これまでも震災遺構はあちこちで見学してきましたので。ただ、修学旅行などの教育系旅行の訪問地としてはよさそうですね。特に石巻にはそういった大きな施設がなかったので。石巻でこちらを見学し、比較的小規模の学校であればそのあといしのまき元気いちば、または女川のシーパルピアや南三陸のさんさん商店街でランチとお土産お買い物という感じでしょうか。



荒れ果てた外観ではありますが震災(津波)遺構なのでそれは仕方がないことです。この学校は津波被災とともに火災にも襲われて校舎の東側は燃えてしまったそうが、同じ石巻市内の大川小学校とは異なり、この学校にいた児童(津波襲来前に保護者が迎えに来て、そのあと津波に巻き込まれた児童は除く)及び避難してきた地元住民は全員日和山側に避難し無事でした。

すぐ裏が山だったから‥いや、それなら大川小学校のすぐ南側はやはり山だったし‥。やはり判断なのでしょうね。ただ、自分は当時の大川小の先生を責める気にはどうしてもなれないのです‥あのような津波が起きることを先生は想定できなかったのですから「想定外の行動を取ることもできなかった」わけですし。

石巻の小学校だったら先生も地元の人‥であるはずもありません(偶然そういうこともあるでしょうが)。東京都だって、新任の先生は最初に伊豆小笠原諸島に着任することも多いといいます(そのこと自体は「先生」というキャリアとしてはプラスの経験だと思いますが)。

ただ、「勤務する地域の特性というか特異性」について地元の方々との情報共有が為されていなかったのは確かです。いやこれも単純にそう言い切れるはずもなくて、その肝心な「地域の方々」さえも多くが亡くなっているわけですから。

「やって(起きて)しまったことはどうしようもない(大切なのはそのことを踏まえて今後どうするかだ)」というのは自分が作った座右の銘なのですが(自己紹介ページにサイト開設当初から載せています)、そういうことなのだと思います。自戒及び亡くなられた方々への追悼を込めて。



車寄せまで設置された立派なエントランス部からは、ここがかつての石巻市を代表する小学校の1つだったことがうかがえます。エントランス正面には円形の縁取り内に「門小」とデザインされた金属製の校章が。これ、よく津波の浮遊物に壊されませんでしたね(この高さからすると完全に水に沈んだはずなのに)。

校舎の西端まで行くと、内部を見られる場所がありました。画像を撮影している場所のさらに西側にはさらに建物があったようですが、たぶん児童の昇降口(靴箱)があったんじゃないですかね。車寄せから出入りしていたとは思えないので。

で、校舎西側は津波にやられたとはいえ火の手は及ばなかったので、見る限りは他の被災保存施設と大きな違いはありません。いや、違いがあるかないかよりもこのようなことになったこと自体がとんでもないのですけれど‥。



ここで何が起きたかを知らない人のための震災遺構施設も新たに造られました(今回は入館しませんでした)。自分が震災後初めて石巻を訪問したのは2011/8で、その時この門脇地区は手つかずとはいわないものの、旧北上川沿いにはまだ打ち上げられた船が残り、津波当初に孤立した(現在は解体)鉄筋コンクリート造5-6階建ての石巻市民病院が窓に「感謝」という貼り紙を掲示している時期でした(この時です)。

そのあといったい何回三陸エリアを訪問しただろうと思うと(震災前は十代から数えても3回だけ)、東日本大震災が自分に与えたインパクトは実に大きかったんだなと感じます。復興ボランティアはやっていませんが(腰痛持ち)、それでも11年で15回くらいは来ていると思います(自分1人で来た時を含む)。

さてこのあとは、新たに開通した「石巻かわみなと大橋」の渡り初めです。




ええっと、もちろん新しい橋ですから快適な通過だったわけですが、ちょっと驚いたのが通行車両の少なさです。これはある意味地図を見てみてみればわかることでありまして‥



市内中心部を通るR398の内海橋周辺の慢性的な混雑緩和を目的として河口近くに日和大橋が開通したのは1979年(当時は有料道路)。東日本大震災ではR398の内海橋も損傷し(現在は新橋に掛け替えられています)、とにかく震災から半年経った頃も夕方の市内は大渋滞でした。

これでは復興の妨げになると考えたのか、おそらくはもともとの都市計画にはあった(と思われる)この石巻かわみなと大橋の建設にGOサインを出したということなのでしょうか。ただ‥



門脇や川口地区に多くの家々や市民病院が建ち並んでいた震災前であれば地域住民による通行需要は多かったでしょうが、現在となってはなかなか見込み通りとはいっていないようです。残念。

さて、川口地区に入ってからはちょこっとR398を通り、県道33号を使って北上川(新放水路)まで上がり、右岸沿いを走る県道30号を利用して新北上大橋(旧大川小学校のすぐそば)経由で南三陸町を目指すことにしました。対岸にも県道64号があるのですが、右岸側って走ったことあったかなぁと思いまして‥。先に結論ですが、走っていたはずです(途中で思い出しました)。



しかし不思議なのは左上画像のような「道路の付け替え」です。多くの場所では堤防上を県道が走っているのですが(左側は旧道)、特に堤防をかさ上げしたようにも見えないのに(わずかに新道のほうが高いようですが)わざわざ造り替えるってどういうことなのでしょう?同じような手順は新北上川より下流でのR398でもかつて見られた光景でした(現在は旧道完全撤去済み)。

一つ考えられるのは、この旧道とて震災前から使っていた舗装路ではなく、震災による津波被災後緊急工事によって整備されたものではないかということです。震災直後は三陸沿岸唯一の動脈であったR45でさえ自衛隊による仮橋(片側交互通行)でした。とにかく被災地に復興機材や資材を運び入れるため「一刻も早く」道路を整備する必要があったということではないでしょうか。

そのために犠牲にせざるを得なかったのは当然「舗装の質」であり、恒久的な整備よりも「とにかくとりあえず大型車が通れるようにする」という方向に整備の舵が向けられたのではないかと思います(素人なので違ったら突っ込んで下さい)。そして各被災地におけるとりあえずの復興の目途が立ったところで恒久的な本来の舗装整備が行われたのではないかと。主要道のアスファルト舗装も、実際には三重四重の路面から成り立っていますから、旧道はやや簡易的な手順で舗装されたのかなと考えます。となると一見無駄に見える旧道の整備も、「その時何を優先すべきだったか」という観点から考えれば効率的な整備手順だったのかなと。

なお右上画像の通り、川沿いに集落があるエリアでは昔ながらの1.5車線路になったりします。北上川(新放水路)沿いでは河口近くの長面浦地区や大川小学校が壊滅的な被害を受けたわけですが、もう少し上流のこのあたり(大川地区や対岸の橋浦地区)には津波の前からあったと思われる家屋が多くみられます(グーグルマップで確認)。この地域は大丈夫だったのかなぁと思って調べてみると、対岸の橋浦地区では床上1mまで津波が押し寄せたようです(ソースはこちら)。ただ何とか倒壊はせずに済んだということですね。



新北上大橋を渡って対岸へ。この橋も北側が落橋しましたが早期に仮復旧されました。




(この区間にくるくるパンダさんがいないかいつも心配します)。

さてそんなわけで南三陸町志津川までやってきました。しかしこの時点で10時を少し回ったくらいでありまして、われわれが目的とする「食事処 松原」さんはまだ開店前。となればすぐお隣の「南三陸さんさん商店街」にてしばしうろうろというのが大吉です。



さすがにGWの日曜日ということもあり(ただしこの翌日は平日でした)、朝10時過ぎといえども駐車場はそこそこ埋まっていました。自分は知りませんが、いわゆるGWメインの5/3などは相当混雑したのでは?(近隣に臨時駐車場も設置されたのではないかと思います)。

また商店街の北側には道の駅が建設中でした。ただ、お隣が商店街ですから基本的に物販や飲食施設はごくごく最小限になると思われます(そりゃそうでしょ)。かさ上げとともに「整備し過ぎちゃった」感のある志津川地区ではありますが(ただし祈念公園のかさ上げは一定レベルの津波には避難先としての用途もあるわけですから一概にはいえません)、個人的にいえば、



高野会館は南三陸ホテル観洋ほかを運営する「(株)阿部長商店」が経営していた結婚式場ほかのイベントホールだったそうです。自分は何度か施設周辺(というか真ん前)まで行きましたが、現在は施設のすぐ北側をかさ上げされたR45が通っています。でも現在のかさ上げ道路よりも高いところまで津波は押し寄せたわけです(津波高16.5m)。

その実感を一番感じられるとすれば、まずは現在の高野会館遺構の1Fエントランス部に立ってすぐ隣の国道の盛り土の高さを実感し、その上で高野会館屋上へ上がり(国道よりも高い)、でもその屋上にも「海水が上がり魚が上がった」という流れではないでしょうか。

自分は高野会館の建物に入ったことはありません(当時はそういう企画はなかったので)。ただ、三陸沿岸に震災遺構およびその紹介施設は増えましたが、整備された施設内で画像や映像を見るのと、実際に自分で見る&体験するのとでは印象度は大きく異なると思っています。「本物」があることによりそれがランドマークとなりある意味観光資源になる‥

実際のところ「広島」はある意味平和の象徴都市としての立場を不動のものにしていますが、原爆ドームを解体していたら?長崎の大浦天主堂の石像がなかったら?どちらも今や原爆被災のシンボルとして外からの人を呼び寄せるシンボルとなっています。

翻って三陸はどうでしょう?ある意味ステータスシンボルとなり得た気仙沼の「第18共徳丸」は船主の意向および「見たくない思い出したくない」という地元の方々の意向により撤去されました。岩手県大槌町の旧役場も同じです。

部外者たる自分ではありますがあまりに「残念な撤去」だったと思っています。2022年の現在、津波の被災地に来ても、当時の「風景」を直接感じ取ることはほぼできません。「祈念館」等はあちこちに作られましたがそこに展示されているのは画像及び映像、そして「当時それが起こった場所から切り取られ運ばれて再デコレーションされたモノ」に他なりません。すなわちそれらを見て当時を「実感」することはほぼ不可能だと思うのです。

また「震災語り部」にも同じようなことが言えます。自分は三陸被災地における「語り部」事業が始まった頃に有料無料を問わず申し込んで各地域におじゃましたことがあります(その時のページはこちら)。

その頃(2014)は、ようやく地域の人々の生活が(個人差は大きかったにせよ)一定の落ち着きを見せ、外部の人に語る余裕ができた方々があえて「語り部」として手を挙げたタイミングだったと思います。各地でいいお話を伺いました。

ただ、人間の記憶は「上書きされる」部分も大きいと思うのです。それこそ先述の広島の語り部の方々にも言えると思うのですが、平成末期に某ホールでお聞きした内容は「ええっと、ずいぶんと政治的だな」という印象でした。もちろん当時の経験をもとにした話ではあるのでしょうが、そもそも「まだ小さかった頃の経験(思い)を盛らず削らず何十年も伝え続ける」ことなんてわれわれ人間には無理なんですよね。

その意味ではできるだけ初期における語り部さんの「変に上書きされていない」記憶を映像として保存しておくことはとてつもなく重要なのだと思います。まったく別の場所ではありますが、鹿児島の特攻基地知覧飛行場関係で有名な鳥濱トメの生前の映像と語りが記念館で流されていますが、晩年の映像ゆえそれこそ記憶の上書きはあったのでしょうが、でもその言葉は当時の状況に対する「さらなる上書き」を許していません。

いっぽう、2022現在、東日本大震災絡みでどこかの団体は「悲惨な状況を後世に長く伝えるために、震災を経験していない世代にも語り部を育成する必要がある」などと豪語し募集しようとしています。ええと‥いや、もうやめましょう長く書きすぎました。



というわけで南三陸商店街へ。海鮮物の販売店にはちょっと心惹かれましたが「いやちょっと待てこのあと間違いなく海鮮ランチだぞ」というわけでパス。前回訪問時には同日中に駒の湯温泉に行くつもりだったのでケーキを買いましたが(この時です)、今回はまだ何日かあるのでそれもパス。あ、コーヒー豆買っておけばよかった‥。お土産というより自分用に(職場で飲んでるので)。



ちなみに商店街に到着したのは10:20ころでしたが、さすがはGW、すでに飲食店前には11:00の開店を待つ人たちの行列が。しかしこの方々の行列は、ある意味「切実な事情」に起因する行動だったのかも知れません(後述)。

そういえばその昔というかまださんさん商店街が仮設だった時代に、早めに到着したTakemaは松原食堂さんの前で列の先頭に立って待っていたこともあったなぁ(あの時はおしんこどんは同行せず)。確かその時、奥さんに「あれ、前にも来たことありますよね、確か千葉の人でしょ?え、でも今回は奥さんは?奥さんは大切にしなきゃだめよ」と声を掛けられ、「あ、覚えて下さっている!」と嬉しくなった記憶が(笑)。あのGW、おしんこどんは銀座歌舞伎座前だっけ?で行われたイベントにおける出演スタッフだったのですよ。

BRT柳津行きが志津川「駅」を出発していきます。自分も気仙沼線BRTは全区間乗車したことがありますが(この時)、なかなか滅多に味わえない感じで結構楽しかったこと、そして鉄道線よりも運行が頻繁であり、かつ志津川の市街地などでは病院回りの路線になっていたりもしていて利便性が高いのかなと感じました。ただ、やっぱり「バスはバス」でしたが‥難しいところです。

それにしてもBRTバスの屋根上にはかなりの体積の「箱」が載せられていますね。エアコン機器にしては大きすぎるし、あれは何なのだろう?ハイブリッドシステム?



というわけで、食事処 松原さんにやってきたのは10:50頃でありました。誰も並んでいないように見えますが、実は先着の皆さんは駐車した車の中で待機中でした。と、そのうち1人の男性が並びました。すると、他の皆さんもわらわらと車から出てきて。うーむ、「行列の論理と構造」ですねぇ(笑)。ちなみにわれわれは「あと10分なら」というわけですぐに列に付いたので「2番手」でした。

しかし、ふとお店のエントランス部を見ると、そこにはある意味驚きの、そして大きな問題を含む掲示がなされていたのでした。それは‥





ここ数年東北太平洋沿岸では「磯焼け」の被害が広がりウニなどの漁獲量が減少していること、そして海水温の変化からかサケの遡上も減少し、そのためイクラの価格も高騰しているということは知ってはいましたが(その一方で福島浜通りではこれまで漁獲がなかった伊勢エビが獲れるようになっているようです)、まさかキラキラうに丼のスタート初日に提供できるウニまでがないとは!

もちろん水揚げはゼロではなかったのでしょうが、浜値が高騰してもそれをそのまま価格に上乗せできるわけでもなく、松原さんのご主人は苦渋の決断をなさったというわけです。

なおどこのお店がと申し上げるつもりもないですが、町内でこの日うに丼を提供していたお店の多くは他地域から取り寄せたり、数量を相当限定していたようです。それでもある意味うにの奪い合いだったことは想像に難くなく、となると、さんさん商店街であの時間に並び始めていた人たちはそれ(数量限定)を見越していたのかも知れません。

なお先頭に並んでいた男性ですが、自分が「あれ、うに丼はないんだね」とおしんこどんに話したところでこの掲示に気づいたようで、すぐさま車に戻って(助手席にいた)女性と作戦会議。結果として車は走り去ってしまいました。お二人がさんさん商店街でキラキラうに丼を食べられたことを願わずにはいられません。





図らずも先頭入場となったわれわれを出迎えてくれた奥さま、「開店前の準備中に『習志野ナンバーが駐まってるな』というチェックはしていたんですよ」とのこと。以前、「GWは(あまりに混むものだから)来ないほうがいいですよ」とおっしゃっていましたが、先頭客ゆえお話が出来てヨカッタ。しかし奥さま、ここで肝心なことを?(後述)。

われわれは窓際の席に座り、テーブル的にはほぼ満卓近い状態に。ただし開店直後はお座敷席はまだ空いていたようでした。というわけで注文完了!



まずは乾杯!とはいえTakemaはこのあとまだまだ長距離運転なので当然お冷や(水)です。おしんこどんは冷酒進行。

まずは松原さん初訪時にその柔らかさと旨味ににびっくりして(この時です@2104/7)、その時以来2人で来るときには欠かさず注文している(と思う)タコの唐揚げ。この日もいいお味でございました。

さらにホヤ刺しが出てこようものならおしんこどんの冷酒ピッチも上がらないわけがありません。そしてこの日の2人のランチメインメニューといえば‥





「松食うどん・そば」。自分は直接知る由もありませんが、震災前の松原食堂は地域の方々に愛された「地域の食堂」で、地元の方々・学生などに大いに利用されていたということです。中でも若者中心?に親しまれていたのがこの「松食うどん・そば」だったそうで、いわゆる「具材全部載せ」というスペシャルゆえまさにお腹いっぱいになるというのが人気の秘訣だったようです。

松原さんが本設のさんさん商店街から少しだけ離れた場所に現在の店舗を建てたのも、地元の方々の「普段使い」のお店を復活させたいという思いがあったからなのかなと。うどんそばは言うに及ばずラーメンも人気メニューですし、カレーやトンカツなどのメニューもあります。いわばわれわれのような観光客はおまけなのかもしれませんが、しっかり「キラキラ丼」加盟店にも参加なさっています。

と、このページをタイプしている数日前に、この南三陸志津川地区に関する記事を見つけました。以下は河北新報記事の引用です。タイトルをクリックすると当該記事のページを直接読むことができます(なお以下の引用部では個人名や年齢などは「★や○」で記載しています。

南三陸の復興けん引「キラキラ丼」ピンチ ウニ・イクラ不漁、仕入れ価格も上昇
2022年5月25日 6:00

新鮮な魚介をたっぷりのせた宮城県南三陸町の「キラキラ丼」が難局に直面している。海洋環境の変化や不透明な世界情勢でウニやイクラの調達が年々難しくなり、価格上昇も止まらない。東日本大震災からの復興を強力に後押ししてきた町の名物だけに、飲食店主らは苦しい対応を迫られている。

創菜旬魚はしもとのイクラのせキラキラうに丼(4180円)。来季に提供できるかは見通せない。

今季の「南三陸キラキラうに丼」の提供は大型連休中の1日にスタート。新型コロナウイルス感染拡大に伴う行動制限が解かれ、南三陸さんさん商店街は観光客であふれた。しかし、キラキラ丼の話題になると店主は表情を曇らせた。

地元産ウニを使う「創菜旬魚はしもと」は、仕入れ価格高騰で1日30~50食に限定せざるを得なかった。販売価格も500円ほど上げて3520円としたが利益はほぼなし。多くの店舗が同様に値上げした。

はしもとはかつて2000円ほどで1日100食を提供した。店主★さん(★)は「地物にこだわりたいが、さらに値が上がれば量を減らしたり中身を変えたりするしかなくなる。不安しかない」と語る。

キラキラ丼は2009年に誕生。震災後の12年2月、飲食店主や町観光協会が中心となって復活させ、各店が「うに丼」のほか「春つげ丼」「秋旨丼」「いくら丼」を展開してきた。

近年は海水温が上昇し、活性化したウニに食べられて海藻が減る「磯焼け」が広がったことで、身入りの少ないウニが増えて漁の効率が悪化。飲食店主や漁業関係者によると、今季はロシアのウクライナ侵攻で燃料費が高騰したり、北海道産ウニの水揚げが減ったりして仕入れ価格が一層上がったとみられる。

キラキラうに丼を出す南三陸さんさん商店街の飲食店。春の大型連休には行列ができた。

「キラキラ」の由来であるイクラはさらに深刻。秋サケの不漁続きで地元産を確保できなくなり、昨年は「キラキラいくら丼」の提供を見合わせた。各店は北海道沖など国内産のイクラを使うが、ある飲食店主は「仕入れ価格は3年前の倍。今季は3、4倍になりそう」と頭を抱える。

海鮮のキラキラ丼を現在提供する町内8店のうち5店はさんさん商店街にある。飲食以外の店主も「キラキラ丼は商店街の顔。十分に出せなくなれば全体の客足に関わる」と気をもむ。

一方、商店街と離れた「食事処松原」では今季、大型連休中のうに丼提供を初めてやめた。店主の○さん(○)は「残念がるお客さんもいたけど、売れば売るほど赤字の状況では苦しかった」と明かす。

ウニは夏場にかけて身入りが良くなり、近海での漁も活発になる。町飲食店組合長でもある○さんは「時期をずらしたり、代わりの名物を考えたりするのも手。お客さんに喜んでもらえるよう、いま一度よく話し合いたい」と語る。



最後のあたりにいきなり松原さんが出てきてびっくりしました。そうだったんだ(なるほど)。まぁそれはともかくとして、代わりの名物‥。自分としては「西の明石、東の志津川」を東だけたっぷり実感しているタコを推したいところですが、インパクトとしては明らかに弱いよなぁ(全国どこのスーパーでもアフリカ産を含め買えない日はないので)。何かないものだろうか?

なお、うにに関しては南三陸町も磯焼け対策として陸上(戸倉地区)での畜養を行っているようで、すでに一部で出荷が始まっているようですが、まだまだ需要>供給状態なんでしょう(その関係ページはこちら@河北新報)。

さてずいぶん話は前のほうにワープしますが、自分が松原さん訪問時に悔しかったのが「実際の『松食うどん』画像を撮る前に食べまくってしまった」ことであり、さらに奥さまは先頭のわれわれに気を取られ、「営業中」「準備中」の札をひっくり返すのをお忘れになったようで(でも待機組は全員流れのままに入場)、しかしどうも次のお客さんムーブが来ないなと思っていたら、しばらくしてエントランスから「すみません、やってますか?」との声が。こ、これは‥



そのあともしばらくおじゃましていて、奥さまともちらちらとお話しできました(さすがにGWゆえご主人は厨房専業中)。でもいいんです。だって、


(できれば次回はまた夜がいいなぁ)。


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