思い立ってお出かけ‥飯舘、飯坂、鳴子、肘折編

- その2 飯舘ランチを挟み比曽地区の神社巡り -



とにかく岩がすごい。巨岩信仰との説明もかくなるべしかと。

(2023年9月17日-19日 その2)

舞を見学したあとは比曽地区のポイントをめぐることとなりました。自分は初めての(またはそれまであまりよく知らなかった)地域を訪問する際には、たとえば「○○町 観光協会」などというキーワードで検索することが多く、そうすると案外面白い&地域の観光協会がアピールしきれていないポイントを見つけられたりするわけです。最近では(2022)北海道南岸のトーチカとかですかね(その時の訪問ページはこちらです)。

で、飯舘村については前ページで書いたようにメインロード沿い以外は訪問を自粛していたので全然何があるかも知らないのです。だからかえって楽しい♪



続いての訪問地は「比曽の穀櫃」です。福島市内に比べて標高が高い飯舘村ですが(福島駅:約70m、道の駅までい:約440m)、ここ比曽地区はさらに高くて600mちょいあります。冷涼な気候ゆえ冷害に悩まされてきた土地柄ゆえ、その対策として貯穀場としてこの小屋が建てられたそうです。

屋根は葺き替えられているので一見するとそれほど古さは感じられませんが、内部をのぞくとびっくり。



内部には建築当時の由来について記された墨書があり、寛政十二年(西暦1800年)に庭坂(現在の福島市西部)の大工氏によって建てられたことがわかります。200年以上前の穀物蔵が、崩れることなくがっしりと立っているとは!

ちなみにお隣にはこの敷地内にお住まいの方の倉庫がありまして、屋根組みの崩れ具合はかなりのものではありますがこちらもまだ「自立」はしておりました(これはこれで別の意味ですごい)。でもそろそろ内部のものは取りだしたほうがよろしいかと。

話を戻せば、飯舘村の歴史は冷害飢饉との戦いの歴史でもあったようで、東日本大震災前まで「飯舘牛」の肥育が盛んだったのも、農業一本でやっていくことの危うさを地域の方々が理解していたがゆえの方策だったのでしょう。

村はある意味高原のような立地なのですが、その東側(南相馬市側)は急峻な地形で一気に海に向けて下がっています。裏を返せば、夏のやませの冷風は一気に山を駆け上り(その過程でさらに冷やされつつ)村に寄せてきたのではないかとも思われます(素人の想像です)。



このあとは再びバスに乗っての移動です。ただ地区内の移動なので乗っている時間は僅かで、「これなら歩くのもいいよなぁ」と思いましたが、雨が降っていたら「苦難の行脚」にもなりかねませんしね(笑)。それに、放射線量値を気にする方もいないとも限りません(このツアー参加者に関する限りそういう方は少ないとは思いますが)。

放射線量値とタイプしたところでふと右上画像をアップすることにしました。現地での値は「0.40μSv/h」です。ざっくりいえば自分の住む千葉県市川市直近地点最新値(0.05μSv/h)の8倍です。ただし倍数で比較することに全く意味はありません。イランのラムサールなどはそもそも自然放射線量が高い地域で、ざっくり計算したところ住民1人あたりの線量値は「7.92μSv/h」ほどのようで、年間では「71m(ミリ)Sv/year」(1mSv=1000μSv)になると推計されています。ですが、


誤解している人も多いのですが、「この閾値を超えるとヤバイぞ危険」というわけではなく、そのあたりまでは有意な差が認められないというだけの仕切りなのです。実際、ラムサール在住者の平均寿命等にも他地域との有意差はありません。

話を戻して「0.40」の比曽地区。年間にすると「0.40μSv*(8[時間、屋外]+16[時間、屋内]*0.4)*365[日]=2.1mSv/year」となりました。上画像のメーターにはそもそも大地や大気からの自然放射線量が含まれているとはずですし。いずれにせよ閾値の100mSv/yearにはほど遠く、自分としては心配する必要などないことがわかります。ちなみにNYへの飛行機往復で0.11-0.16mSv、CTスキャン1回で2.4-12.9mSvほど被曝しますが、誰も何とも言いませんよね(笑)。

参考までにわれわれ夫婦は2019にチェルノブイリも訪問し管理区域内に宿泊もしていますが(その時のページはこちら)、当然ながらいまだ何らの影響も出ていませんね。夫婦ともに健康です。ただ、飯舘村での参考画像(2018)。



上記二枚の画像は飯舘村で2018に撮影したものです


なぜこの画像を出したかということには理由があります。この時は県道経由で北部の霊山(伊達市方面)に抜けようとしていて、でも景色がいいので車を止めて右上のような写真を撮っていたわけです(この時です)。

すると地元の方とおぼしき方が現れて少し立ち話をしたわけですが、その方のおっしゃった言葉が忘れられません。



いろいろな考えがあるわけです。当時の旅行記内でもこの方の発言については封印しましたが、疑心暗鬼ながらの帰還住民さんもおられるのだなぁと当時思った次第です。でもそれから5年も過ぎた今、あの方はどうお考えになっているのかなと思ったりはします(当時もすでに帰還なさっていたわけですし)。

まぁ、道路部分は間違いなく除染されているわけですし、それに比べて周辺の森などでは数値が高いままなんだという意味でおっしゃっていたのかも知れませんが。



さてここからは神社をめぐることとなります。まず最初は愛宕神社。入口には立派な標柱が立てられており、参道を進んでいくと鳥居がありました。が、この鳥居、何か妙ではありませんか?(人の写り込みを避けるために全体像を撮れませんでしたが)。

鳥居をくぐる時にツアー関係者の方々は「鳥居が低いので頭上に注意してお通り下さい」とおっしゃっていました。確かに低い‥身長約170cm弱のTakemaも、念のため多少頭を下げてくぐりました。あ、近年の健康診断では169cmを下回る数字なのは加齢による縮みなのか?とかいう小ネタはパスします(笑)。で、この鳥居ですが‥



鎮守の杜の中ゆえ湿気も常時そこそこあるでしょうし、鳥居の最下部が腐朽して倒壊したのでしょう。しかしすぐには再建予算も工面はできないがゆえの一策だったと思われます。ちゃんとクサビで仮固定はしてありました。で、さらに進んでいくと‥





たしかに立派な社殿こそありませんが、そのかわりに立派な巨石が祠を包むように鎮座しています。こちらの神社はこの巨石自体がお社というか信仰の対象(巨石信仰)として崇められていたようなのです。確かに巨石信仰は全国各地に遍在していますし、こちらもそうだったということなのですね。なるほどそれなら人造の社殿は不要というか余計です。

なおこの巨石群ですが、上画像でもわかるように風化により割れが生じ始めています。まぁ石ですからすぐにどうこうというわけではないでしょうが、一部には最近崩れた部分(たまたま前に生えていた木が抑えとなった)もありました。「さざれ石がやがて巌となって苔むす」のとは反対に「大岩が風化して小岩になり砂になる」ことも普通にあるわけです。もちろんそれには数百数千年の時間がかかるわけでしょうが。

なお神仏習合の名残ということか、境内(どこまでが境内にあたるのかはともかくとして巨石群エリア内)にはこのようなものもありました。




(右上画像マウスオーバーで別画像に変わります)

立体的に彫られているのではなく線で平面的に描かれているだけなのでわかりにくいのですが、関係者諸氏によると「今日は(光線の加減がよくて)視認しやすい」とのことでした。確かに目を凝らして見るとはっきりわかります。江戸時代の造形なのかな?

なお案内にはありませんでしたが、参道近くの杜の中には何やら石碑が見え、聞いてみましたが「何だろう」とのこと。踏み分け道もありませんでしたが遠くから撮影した画像を拡大して確認したところ「馬頭観世音」であることがわかりました。こちらはいつ頃設置されたものなのかは全く不明ですが、碑の状態からして極端に古いものではなさそうです(左上画像マウスオーバーで当該画像に変わります)。



このあとも地区内の神社をめぐることになりますが、ここでお昼ごはんタイムとなりました。やってきたのは比曽集会所。ただ、駐車場広場と建物の佇まいから想像される通り、こちらは旧比曽小学校の跡地を転用しています。



旧校庭の傍らには(ネット情報によるとかつてはプールや体育館もあったらしいですが、体育館はともかくとしてもプールまで?)石碑があり、学校の沿革が記されておりました。表画像をしっかり撮らなかったのですが、



なおこの創立百年記念碑が建てられたのは昭和50年11月だということが判明(ちゃんと碑に刻まれておりました)。うわびっくり、自分もまだギリ小学生だったときに設置されたわけですね。「歴史記録の保存媒体として一番信頼がおけるのは現状では『石に刻む』こと以上の方法はない」という記事を読んだことがありますが、震災後再度磨かれているとは思いますが、40年以上の時を越えてこの鮮やかな記録って‥やはりすごい。

いっぽうで、PCジジババの皆さま、お手持ちのフロッピーディスクやMOディスク、息してますか?(笑)。

なお現在の飯舘村には集約された小中合同(一貫)の「いいたて希望の里学園」が開校されており、2023年現在約80人が在籍しているようです(そのうち半分が村内在住)。また併設の幼保児童を加えれば100人以上なのだとか。

そんなこんなでこちらでお昼ごはんです。



集会所でのお昼ごはんですが、ここで関係者の皆さんは面白嬉しい企画提案をなさっておりました。それは‥



この発案は実にいいなぁと思いました。そもそもこのツアーに参加表明をする人は(自分を含めて)引っ込み思案というか受身系の人はほぼいないでしょうし(笑)。

まぁそうはいっても周辺の皆さん全員と話すことはできず、自分は左側のお二人と話しただけでしたが、そのうちのお一人があの三匹獅子舞の「うずくまり時に肩で息をしていた」方だったわけです。そういえばツアーガイド(というかコーディネーター)の方も裏ネタとしてこのようなことをおっしゃっていましたっけ。



でも、いい舞を見せていただきましたよ、ありがとうございました。おそらく原発事故後は途切れてしまっていたであろうこの三匹獅子舞が、再びこの比曽地区で復活したというのは(そして若者に受け継がれていくというのは)素晴らしきことですから!



あ、ここでお昼ごはんお弁当の紹介です。できるだけ地元産の食材を使っているそうで、おこわも美味しかったぁ。ちなみに(目立ちませんが)デザート的な位置づけとなるイチジク(黄色の容器内)も地元産なのですが、かつて冷涼な飯舘村ではイチジクが育たなかったのだとか。それが今やというわけで、やはりどこも暑くなっているんですねぇ。

で、右上画像は「凍み餅」です。で、ここで舞い手の方が調理者の方に質問しておりました。



聞けば、もともとはヤマゴボウ(地域名だとオヤマボクチとかこんぼっぱとからしい)の葉を餅に入れることにより風味が増すとのこと。ただ、ヤマゴボウは山菜ゆえ量が採れず、ヨモギの葉で代用することも多いのだとか。でも今回は全量ヤマゴボウの葉だったようです。風味豊かなお餅に感謝感謝。

というわけでお腹も満ち足り、集会所に集まった皆さん全員と記念写真を撮った上で「午後の行程」が始まります。この続きは次ページにて。

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