- 2017夏 キルギス旅行編 その20 タムガ村のサナトリウム(日本兵抑留地)訪問 -



さてこのモスクの付近を曲がって少し山の上の方へと上がると旧抑留地なのです。

続いてやってきたのは温泉‥ではありません。タムガ村にあるサナトリウムなのですが、ここには第二次大戦終了後に捕虜として抑留された日本兵が建てた建物などが残っているのだとか。実は結構戦跡訪問が好きなTakemaでありまして、クウェー川鉄橋(タイ)とか、クンユアム(タイ)にあるインパール作戦の博物館とか、パプアニューギニアのウェワクおよびラバウルの戦争博物館「山本バンカー(地下壕)」とか、そこそこいろんなところを訪問しているつもりです。ひそかに南太平洋の某国にも行きたいと思っています(治安も落ち着いたみたいだし、どうやら温泉もどこぞにあるらしいし(笑)。)。

で、ここキルギスも旧ソビエト諸国の一ですからやはり戦後には抑留日本兵がおられたというわけで‥その抑留地であったタムガ療養所訪問を希望していたわけです(ちなみにおしんこどんの故伯父は現ロシアでの抑留を経験していました。生前自分も何度もご自宅等におじゃましてお話をしましたが、その博識にびっくり。「待ってたよ」と言われて、自分の浅薄な知識や理解をまたさらけ出しちゃうなぁと身の引き締まる思いでしたっけ(苦笑))。

なおこちらのサイトがここタムガ抑留関係の公式サイトだと思うのですが(近年は更新がなされていないのが気になります)、その情報をもとにしてここに概要を記すと、かの大戦後現在のキルギスに送られた抑留日本人は3000-4000名で、ここタムガ村には125名が滞在し作業にあたらされていたということです。この125人は全員日本に帰国したということですが、「近隣に日本人のお墓がある」ということのようですから、ここタムガ村以外の抑留地で客死なさった方々もおられるのでしょう。

これらのことを踏まえつつお読みいただければ幸いです。



上画像の古い建物は外装こそリフォームされていそうですが内装の原形はどうなんだろう?(ちなみに日曜日ゆえどなたもおられなかったのです。不法侵入じゃなくて職員の方を探していたわけで)。でもたぶんこれは旧ソビエト時代の建築物なのでしょうね(抑留日本兵による建物は石造りの二階建てだということはわかっていたのですが、ジャミラさんもご存じなかったのか案内はされませんでした。でも、このページを作る段になって改めてネットで調べたところ‥




(上記画像は上記(こちら)のサイトから引用させていただいています。)



で、この「サナトリウム=療養所」はもともと軍専用の施設だったようなのですが、今や進化を遂げているようで、どうやらアスリートの合宿所としても利用されているようです。右上画像マウスオンでプールも出てきますし、左上画像の建物は合宿所として利用されているそうな。ちなみにもともと高温泉施設ではなく源泉泥(含放射線物質)による療養施設であるようです。

さてここからはイシククル湖に向かって下る階段へ。



この階段ははるか下方のイシククル湖までそれこそ真っ直ぐに続いています(右上画像の奥には湖が見えていますが、あそこまで真っ直ぐ!)。この階段歩道をここタムガ村に抑留されていた日本兵が造ったのだということです。でも、その史実には疑問があるかと?(後述)。



途中道路が横断していますが、階段歩道は細々と、でも真っ直ぐに湖まで続いているのが見えます(左上画像マウスオンで多少拡大)。ちなみに付近には小さいとはいえプラムの実がなっているところがありました。さすがに取りやすい場所の実はなくなっていましたが、何とか手を伸ばしてゲット。味はしっかりプラムでした(当然か)。



途中の公園には謎の遊具が。これはどうやって使うんだろう?しかし奥の鉄棒の高さなどから考えても、これは決して幼児用の遊具などではなく「大人の鍛錬用」なのではないかと思われます。ということはこの謎の器具の使用法は‥(左上画像マウスオン)これで正解なのかな?(笑)。

しかしそれはともかくとして、この日は日曜日ということもあり広い園内に全然職員の方の姿がありません。大きな建物があるので寄っていくと、散水作業の準備をなさっている唯一の職員さんの姿が。ジャミラさんに交渉してもらい、内部にあるという展示室を見せてもらえることになりました(見学は無料)。



サナトリウム自体は90年ほどの歴史があるらしく、左上画像にはあのガガーリン少佐が1964年にこのサナトリウムを訪問したときの写真が飾られてありました。「地球は青かった」というメッセージを宇宙から送信した人として有名ですが、wikiによると正しい逐語訳は「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた」ということだったようです。少佐の身長が158cmと決して高くはなかったというのは写真を見てもわかります。だからこそ選ばれた(当時の宇宙船自体が小さかったので)のだということも。

あ、あと、「ガガーリンのアイデアで、宇宙船の操縦室に熊の人形をぶら下げた。これは、無重量状態になったときに人形が宙に浮くので、ロケットエンジンによる加速を止め慣性と重力のみによる運動に移行したのが一目瞭然だからである。この伝統は21世紀になった今でも続いている。」という記事は本当ならばなかなか興味深いですwiki。

で、右上画像は日本人抑留捕虜に関する記載および画像のようです。説明書きがキルギス語だかロシア語だか、いずれにせよキリル文字のみなので読めませんが、下から2行目に「日本」という記載があるので間違いないでしょう(右上画像マウスオンで拡大画像に変わります。詰め襟姿の凛々しい男性です)。

で、先ほどの(イシククル湖に続く)階段の画像ですが‥。




(右上画像マウスオンで日本語訳の拡大画像に変わります)

何だか不思議なことです。でもまぁ、自分などはそれをあまり突き詰めなくてもいいのかなとは思います(歴史学者さんにとってはそれがお仕事なのでしょうから頑張って下さいませ)。2012年にはかつての抑留者の方がこの地を訪問され、かつての村民と旧交を温めたようです。またこの療養所(当時は収容所)だけでなく、キルギスへの抑留者がこんな旧交を温めたこともあったようです。



2012年再訪時の様子が紹介されていました。確か左上画像は桜の植樹だったかな。かつてのタムガ村民と抑留日本兵との間にどのような隔たりがあったのか、それを蒸し返し現代の基準に照らし合わせたところで何も新たな交流進展の原動力にはなり得ません。過去の歴史を踏まえつつも「これからのお互いを繋ぐ象徴」としての桜の植樹。素晴らしいことだと思います。

いろんな国や民族があり、それぞれにいろんな思いがあり、時には自分たちの思いが強引だったり相手に理解されなかったりしてぶつかり合う(相手には相手の思いがありそれぞれの思いの重さは完全に同等です)、これは当然です。

だからその結果として起こったことを「許せない」と思うことは心情的に理解できます。でも「許せない」と「許さない」とは、たった一字の違いとはいえ大きな違いがあると思うのです。

自分が20年ほど前の1996にタイ南部のカンチャナブリを訪問した際、ほぼ手作りという感じの戦争博物館がありました(今は立派に整備されていることでしょう)。その入口に書かれていた言葉は「戦争後に残された人々が心すべき普遍的真理」なのだと自分では思っています。それは、


(「許そう、しかし決して忘れない。」)

というシンプルな言葉でした。戦争後、このような現実に直面することは許しがたい(現地には連合国兵士の共同墓地があります)。しかし戦争前に時計の針を戻すことなど出来るはずもないという状況の中で導き出した苦渋の結論がこの短い言葉に凝縮されていると思います。

「許さない」という全否定からは新たな展開を生み出すことは出来ません。たとえば友人との喧嘩のあとを考えてもそれは容易に想像できます。喧嘩をしないように全力を尽くすことはもちろん一番大切ですが、喧嘩をした友人を(どちらが悪いにしても)永遠に許さないわけにはいかない、でも「許せない」のであれば「何が許せないのか」という歩み寄りのポイントを見出すことができます。

自分はそう考えて行動すべきだと思うのですが‥残念ながらなかなかそういう発想にならないところが残念です。近隣諸国政府も、そして一部の日本人も。



集合写真の隣の本には、たまたまですが「看取りのこころ」という特集記事の見出しが見えています。そう、そういう年齢層を主要購買層として発行された本にしか抑留兵士の記事は載らない(=ニュースバリューはない)ということなのです。

かの大戦を「直接戦地で経験した」方々はもうわずかしか存命ではありませんし、その方々の記憶も多くはあやしくなってきています(時を経るにつれて当時の印象記憶は本人の中でも変貌していくものです。特に「語り部」として日々当時の記憶に向き合う人ほど、「当時」の記憶がいつの間にか書き換えられていることに気づきにくいものです)。

もう「記録可能」な時期は終わったといっていいでしょう。これまでに残された記録を個別の情報として放置しそのまま散逸させることなく、変なイデオロギーのフィルターを通すことなく可能な限り集約し、今を生きるわれわれはもちろんのこと後世にもきちんと伝えていかなければならないと考えるわけですが‥何だか現状を考えるとお寒い限りのような気もします。過去の行状に(その多くに客観的検証がありません)こだわり続けたり、ないしはそのトラウマの画餅的理想論に囚われすぎたり‥

やっぱり人間は「歴史から学ぶことができないのかな」と思ってしまいます。本人(一般的な「自分」)にとっては、「自分の経験、そしてそこから導き出せる結論こそが絶対」ですからね。ま、そんなことをいつまで呟いていたところで不毛な虚無的に陥るだけなので、ここらでそろそろ現世現実へと戻りましょう。



サナトリウムの出入口付近(ゲートがあります)には商店があり、ここで今宵のためにビールを買い込みます。このブランドのビール、前にも買いましたが結構コクがあって飲みやすいんです。しかもおまけでミニおつまみのピーナツも付いてるし!(笑)。ここからお宿まではそこそこすぐでした。



そのわずかな移動の途中にもこんな大展望が。そして今宵のお宿に到着(WiFi飛んでます)。



広い敷地内にはいろんな果樹が植えられていました。サクランボはやや原種に近くて小さめ&甘みの中にも多少の苦味ありという感じで、もう今から四半世紀前、京都の通称「哲学の道」を桜の実をつまみつつ歩いたことを思い出しました(さすがにあれは苦味が強かったですが)。リンゴはまださすがに早いですね。というかええっと、サクランボさえ「つまんで食べていい」という許可はもらっていなかったわけですが(ほんの数粒をいただいただけです(苦笑))。このほかにはブドウの木もありましたね。



また各ゲージの中ではカモやウサギ、そして七面鳥なのか何なのかの鳥さんも飼育されていました。「なぜ?」に対する答えは自ずから明らかなのでここには書きませんが、何だか見ている限りではほのぼのした次第です。







いやぁ何ともここでのんびりです。ビールもまだ十分に冷えていてウマイヤ朝!」。



こんな敷地内をのんびり散策しつつ再びビールをぐびり、あーこれはかなり最高の悦楽だったかも(嬉)。



このあと19:00から夕ごはん。ジャミラさん&ザックさんと4人で卓を囲みましたが、ザックさんは「お酒にアレルギーがある」ということでこちらの勧めを固辞。いや、ムスリムのザックさん(たぶん)にお酒を勧めてはいけませんなTakema。アレルギー云々というのもそれを断る遠回しな方便だったのかなと(すみません)。

ご飯はご覧のとおり具材たっぷりのスープにキャベツとトマトのサラダ、そしてパンです。あ、とてつもなくてんこ盛りのスイカもありますが、もちろん美味しく全部いただきましたよ(笑)。

で、このあとは再び中庭宴会スペースへ。と、欧米系白人旅行者3人組(確か混成グループ)が合流、喫煙者軍団ゆえおしんこどんは退散しましたが(20:30ころ)、Takemaはそのまま居残り、アルティン・アラシャンのこと、そしてかつての旅の話(PNGとか)とかを話したりしているうちに、彼らがダーツをやろうか云々という感じになってきたので自分も撤収ということに。おやすみなさーい。



明けて翌朝はこれまたいい天気です。猫もお出迎え‥?いやいやこれは磨いた自然石にフェイスその他を描いた置物ですが、なかなかいい味を出しておりますよ。

この日はさらにイシククル湖南岸を西進します。

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