− その7 陸前高田と気仙沼でお買い物&数年間をふり返ったあと南三陸へ −



陸前高田のかさ上げ地。ベルトコンベア今いずこ、もうどこに何があったか全くわかりません。
もっとも、震災前には1度しか来ていないので元の景色を覚えているはずもないのですが。


【2018年3月25-29日、7ページ目/全8ページ】

駒の湯出発後は一路三陸海岸を目指します。震災後三陸に足をのばす機会が圧倒的に増えたTakemaですが、いかんせん千葉からということで北上もせいぜい南三陸町までということが多く、それより北への訪問となると実はそう多くはありません。こちら(2011/8)とかこちら(2012GW)とか、あとは2014/7.8には仙台から八戸まで北上しましたっけ(こちら)。あ、2016/3にも大船渡温泉に泊まってましたね(こちら)。でもたぶんこの4回だけだと思うのです。石巻や女川、そして南三陸以南を含めればこの3倍近く来ているはずですが。

そんなわけで、今回はあまり北上はできなくとも(この翌日は千葉まで帰るので)、せめて陸前高田や気仙沼に立ち寄ってから南下したいと考えました。この日の泊まりは南三陸なので、まぁ距離&時間的にはそんなに焦らなくても良かろうというわけでお昼前まで駒の湯のお手伝いをしていたわけです。

で、まずは一関を目指して東進し、さらに東進して陸前高田を目指します。問題はお昼ごはんです。一関であればそれこそお店も選び放題なのですが、いかんせんそのタイミングではまだお腹が空いていなかったわれわれでした。「まぁいいか、進んでいくうちにお店くらいあるでしょ、農家レストランとかあったらいいなウフフ」という軽い気持ちで進みます。



一関からはナビに案内されるがままに県道19号を進みます(これが失敗だった)。初めて通る道なのですが、お、猊鼻渓(げいびけい)って東北行脚初期の頃は厳美渓(げんびけい)と区別が付かなかったところだし(空飛ぶだんごの方が厳美渓というわけで今は間違えません)、ちょっと立ち寄ってみるかということに。



しかし、渓谷沿いの散策ができるのかと思っておみやげ屋さんの有料駐車場に車を止めたにもかかわらず、え、船に乗らないと渓谷は見られないっていうことなの?



しかもわれわれの到着時間と船の出航時間は見事にミスマッチでしたし(1時間近く待つ必要あり)、さらには往復で1.5hくらいかかるということなので‥ハイ無念のパスでした。しかも、せめて食堂はと思って見てみると閑散期ゆえか営業休止中。あーあ失敗したなぁもうというところでありました。きんさんぎんさんは楽しめたのかな、きっと楽しめたのだと思うことにしておきましょう。

さて徐々にランチ流浪の民と化しつつあるなか三陸海岸を目指します。いちおうカーナビとグーグルマップとでお店を検索しながら進んだのですが、「あった」と思ってもしっかり定休日だったりしてうまくはいきません。これ、県道19号経由で来ちゃったからダメだったんですね。同じ陸前高田に行くにせよ、南回りの千厩経由であればそれこそ食いっぱぐれることなどなかったと思うのです。

で、R343に進んだあとはほぼ諦めました。しょうがない、陸前高田の竹駒地区あたりで食べればいいやって心に決めました。ちなみにこの期に及んでも「できれば中華がいいな」とかのえり好みをしていたわけですが(苦笑)。

で、初めて通るR343だったわけですが‥





結構びっくりしました。整備が進んでるなぁという思いでしたが、でもよく考えれば伊豆のループ橋とは違ってここは北上山地の峠道ですから冬場は雪こそ少ないとはいえ凍結が酷いんじゃないかなと。怒涛の塩カル散布で何とかしているのでしょうけれど‥。



さてそんなわけで陸前高田の竹駒地区へ。陸前高田の旧市街地(高田地区)が津波により機能を停止したあと、内陸にあるここ竹駒地区が地域復興の拠点となったようで、そういえば2014夏には、山の中の宿(霊泉 玉の湯)に泊まってここまで夕食を食べに来たんだっけ(この時です)。あの時の復興商店街がまだあるようなので、遅めの昼ごはんはそちらでと思って行ってみたら‥


(鶴亀鮨さんだったと思います。いや恨んではいませんよ(笑))。

ちなみに以前われわれが夕食をいただいたBricks.808さんはこの日が定休日だったようでこれまた残念。まぁしょうがないですね、この道とR45がぶつかるところには道の駅みたいな施設があるからそこで何かを食べればいいやと決めました。もう時間的に遅いので軽食くらいでいいし。



で、旧市街地に向けて坂を下って‥いかない?かさ上げは内陸まで続いており、もはや緩やかなスロープというくらいでありました。交差点近くまで来ると一本松も見えてますね。陸前高田の(旧)市街地には「奇跡の一本松および旧YH」、「旧定住促進住宅」、「旧道の駅高田松原」、「旧気仙中学校」という4つの震災遺構が保存されることになっているようです。この数は周辺の自治体から比べても群を抜いて多いです。


(上記画像は陸前高田市公式サイトから引用しています。元ページはこちらです)

気仙沼市や大槌町の震災遺構はほぼないに等しくなりましたから(大槌町の旧庁舎については2018/4段階でももめていますが、解体のための予算が付いていますからあまり期待はできないかなと)、この周辺地域で津波被災のランドマークが複数残されているのは陸前高田市が他を圧倒しています。その意味で、津波被災後十年、いや数十年が過ぎたところで「津波について直接見て学ぶのであれば陸前高田に行け」という流れにならないかなと期待するところです。

さて約2年ぶりの陸前高田なので、ちょっと様子を見てみようとR45を左折して定住促進住宅方面へと左折します。それにしても復興工事関係のトラックが多いですねぇ。



全面かさ上げに時間を取られたせいか、かさ上げ地域の再活用については南三陸町に後れを取ってしまった感があります。



(株)オカモトセルフの被災看板(看板の上まで津波があがった)も、移転に伴い2018夏までには撤去されるのだとか。残念ですが‥。

ちなみにこのあたりのR45は今後どこまでかさ上げされるのでしょうか?今(2018/3)は旧定住促進住宅近くで右上画像のように緩やかに下っており、その向こうには防潮堤が見えていますが‥。



で、その住宅前にやってきました。この先でUターンしたのですが、この建物の5F床付近まで津波が上がったそうです。前は2棟ありましたがもう1棟は跡形もなく解体されました。そしてその脇には盛り土が積み上げられています。もちろん2011と同じ規模の津波が来ればひとたまりもない高さではありますが、それでもこれだけの容積の土をこれより山側の平地全面に敷き詰めたという、その規模にはびっくりです。



将来的には左上画像の防潮堤の向こう側に高田松原を再生する計画なのだそうな(手前に見えている古川沼はもともとの地形なので残すようです)。しかし、どれだけの賑わいがこの地に戻ってくるかが正直不透明であることは否めません。それほどにこのかさ上げ地域は広すぎます。また竹駒地区に作られたさまざまな生活&商業インフラ、さらには三陸道開通後に予想される外からの訪問客の「素通り」増加‥。懸念事項はそれこそ一杯あるのですが、せめて自分はこれからもこのエリアをできるだけ多く訪問することにいたしましょう。



さて、R45とR340の交差点角にある道の駅的な施設(公式な駅じゃない)にて軽食処を物色‥食堂は定休日でしたが、喫茶店がやっていたのでヨカッタ。ただしサンドイッチ的な軽食はなく、その代わりに海鮮うどんとかカレーとか‥ハイ、他に選択肢がない以上仰せの通りにいたします!(ちなみにこの時点で14時を回っていました)。



味はそれぞれまぁそこそこでした。しかしこの時を含めて3食連続でメカブを食べることになるとは‥まあ旬ですしある意味予想できたことです(笑)。

ちなみにこちらのお店には次々と「持ち帰り」の品を求めるお客さんがやってきていました。それは‥ソフトクリーム。見る限り「特製ソフトである」的な掲示もないのですがそれこそわれわれと同じくらいの年齢のオジサンもやってきてソフトを購入していくのです。その理由は‥



ちなみにこの日はわれわれも上着などは着ないで行動していましたし(一応長袖だった)、この翌日などTakemaはすでに朝から半袖ポロシャツでうろうろしていたんです。でも‥3月下旬の三陸ですよ!この時の陽気、明らかにおかしかったですわ(苦笑)。



続いては同じ敷地内にある戸建ての「やぎさわcafe」へ。地元のお醤油&味噌屋さんなのですが、津波で流された樽にごくわずか麹が残っていて、それを使って再建を果たしたというエピソードは有名です。でも今回こちらに寄ったのはSNS上の情報に、



というものがあったので、それなら買ってみようと思っていたわけです。結局白味噌とめんつゆ500mL*3本を購入しました。ちなみにあとで現地在住のフォロワーさんからは別の情報をいただきましたが、まぁこれらを買いに来たんで没問題です。ちなみに陸前高田ではヤマニ醤油さんも津波でやられて大変だったようです。

さて実は、数ページ前の野湯行脚の道中で車のほうもかなり泥まみれになっていました(途中ダート路走行だったので)。で、オカモトセルフでガソリン補給&洗車をしてもよかったのですが、「やはりこっちだろ」というわけで気仙川を渡った交差点にあるガソリンスタンドにやってきました。



こちら、何の変哲もないローカルなガソリンスタンドです。津波被災前からたぶん覆い屋根はなかったのでしょう。そしてこのGSを遙かに越える大津波がこの地を襲ったあの日。それから約2ヶ月半後の2011/5/28、こちらのお店は営業を再開したのだということです。

われわれ夫婦がこちらのGSを利用したのはそれから数ヶ月後の2011/8でした。その時の画像は以下の2枚です。



こちらの2枚は2011/8の撮影画像です。

GSの母屋は「6年半の時を越えて」ほとんど変わりがないようにも見えますが、よく見ると今は母屋左側には増設された区画がありますし、そして見えていないんですが右側には洗車機が設置されています。しかし‥



そしてこの2011年の給油時には、たぶんポケットティッシュなどをいただいたんでしょうね。その中に入っていた紙をダッシュボードの中に入れたままにしていてその上に後付けのカーナビを設置。で、いざ車を乗り換えるときに係員さんが「こんな紙が入っていましたけれどどうしますか?」。



これがこちらでいただいた紙だったというわけです。



ゆえに給油のみならず洗車も合わせてお願いし「星石油店さんに少しでも恩返しできれば」というところなのです。とはいえ自分がお手伝いできることは何もないのでただ事務所で待つばかり(すごく丁寧に細かなところまで拭き上げてくださいました)‥んん?



事務所内には、われわれがついぞ見ることのなかった震災前の高田松原の写真や、魚市場の賑わいを描いた絵が飾られていました。復興工事には「松原の再生プロジェクト」も含まれていたと思いますし、松の子供たち(苗)も別の場所で育てられているという話も聞いたことがあります。しかし、左上画像のような砂浜と松林、そして賑わいが戻ってくるまでにはまだまだ長い時間がかかりそうです。



こちらのGSは気仙川の脇に位置しているので、川を挟んだ左右の景色がよく見えます。左岸側にはこのかさ上げに使う土砂を運ぶ拠点となった元砕石場のコンクリート施設が見えています。今は跡形もありませんが、ここには気仙川を越えて(旧)市街地まで続くベルトコンベア「夢の架け橋」が架かっていたんです(そのときの様子はこちら)。

右岸側には「奇跡の一本松」が見えています。今となっては代替の複製品ですが、やはりシンボルとして残したことは正解だったかなと思います。震災遺構の多くは被災した建造物であり、そこには多かれ少なかれの痛ましさが伴います。しかしこの一本松には「未来への希望」が込められているように思うのです。たとえそれが複製品であるにしても。

 

気仙沼の市街地北部(鹿折地区)は慢性的に渋滞していますが、三陸道の気仙沼区間が開通するまでは仕方がないでしょうね。それにしても震災時に気仙沼バイパスがすでに開通していたことは復興の大きな力となってくれたことでしょう。

このあとは気仙沼の魚市場方面を目指します。

 

鹿折地区。このあたりに共徳丸が有ったような気がしますが‥。



で、魚市場の裏側?にやってきました。旧気仙沼ホテルおよびゑびす振舞のあった場所は今どんなふうになっているのか、それを確認するためだけに市街地に入ってきたというわけです。最後に来たのは2012のGW、あれから6年近くが過ぎ、建物が残っているはずなどないことはわかっていましたが。





ランドマークとなる周辺の建物がなくなっていて、また道路の位置も微妙に移設されてもいるらしく明確な特定は困難でしたが、自分としては「ここにあった」ということにしておきましょう。この風景を目にした以上はもうこの場所に来ることもないでしょうが、考えてみればあれ以降あれほど立派なフカヒレって食べていないような気がするので、今度は正しく「フカヒレを食べに」気仙沼に泊まりに来たいと思います。

このあとは道の駅大谷海岸へ立ち寄ります。一応の目的は‥

 

はい、この「ふかひれソフト」でありました。こういうフカヒレ入り云々系は時々食べるんですけれどね、やっぱり姿煮が食べたいっ!

ちなみにホントに閉店直前だったらしく、食べ終わったあとプラのカップを返そうと思ったらすでに受付には鍵が!ソフト用のゴミ箱もかたされちゃったようで捨てる場所がない!今さっき売ったばかりだしゴミ箱をかたしたことも知っているはずなんだからもう少し融通を利かせてほしいなぁ。というわけでここのソフトはもう買いません(結構こういうことにはシビアだったりするTakemaです)。

 

ところで全然知らなかったんですが、この道の駅ってもともとは本当に鉄道駅(JR気仙沼線)だったんですね。海を目の前にしたホーム、さぞかし景色もよかったんだろう‥ん?ちょっと待てよと思って震災前の駅画像をググってみたら、駅と砂浜の間には松林があったようです。まぁ海が見えないわけではなかったようですが。

すぐ近くの丘の上には慰霊の碑があるということで手を合わせてこようと思いましたが、少し近づいてみると複数の方が花を手にしてお越しのようだったので今回は遠慮しました。この地に縁のある方だと思いますので。

 

被災したJRの橋台、そのまた上を通る道路は三陸道でしょうか。このあたりは高速道が開通したらかなり通行車両が減るでしょうね。現在はかなり車の数が多く、それこそ道の駅大谷海岸から出るのも一苦労だったりしますから走りやすくはなるでしょう。でもいっぽうで、他地域からの入り込み客があの高架路を通ってしまうことで「寄り道」をする観光客は減ってしまう可能性も高いです。裏を返せばこれからは、



津波でご家族親族ご友人をなくされた方々にとって、このわたしの「震災遺構を残してほしい」というスタンスに異を唱える方々がおられるのは当然のことです。しかしすでにかの震災から7年が過ぎ、震災復興の工事は少なくとも仮設住宅をほぼなくせるところまで来たようです(まだありますが)。

しかしそうなると次のステップは地域および経済の復興です。それにはとにかく「外からお客を呼びこむ」ことが一番です。三陸各地域では今後人口の減少が顕著となりますが(これ自体は外部から現地への移住が進まない限りある意味やむを得ないことかと)、しかしいっぽうで「定住人口1人の減少は日帰り旅行者79人の消費によってカバーでき、同じく宿泊旅行者24人の消費によりカバーできる」という、観光庁の(たぶんお手盛り系の)試算もあります。

この数字の正確さについて自分としては全く信用していませんが、少なくとも入り込み客がその地域でお金を落とすことそのものは間違いありません。しかしその対象たる観光客が高台の三陸道経由でスルーしてしまえば、そもそもの入り込み数自体が激減してしまうという「最悪の状況」に陥りかねないというわけです。

そもそも観光客の多くは三陸地域について具体的な現状もわからず(リピーター以外は「わからないからこそ来て、見たいと思う」場合が多いかと)、でも復興は進んでいるんだろうから「宿で美味しい海の幸は食べられるかな」(これはもうどこでも問題なくOK)、でも日程にも限りがあるしどこに行こうか?と思ったときに、果たして「震災による津波の痕跡を全てはぎ取りきれいに再構築した」場所に行きたいと思えるものかなと思うのです。

長くなりましたが、広島は原爆ドームがあるからこそ人々にとって訪問すべき場所たり得るのです。原爆資料館の展示は確かに貴重ではありますが、やはりシンボルとしてのドームあってのものかと。「ベルリンの壁」「アウシュビッツ」そしてマイナーかもしれませんが「プノンペンの強制収容所」‥歴史的に貴重な構造物は世界でも多く保存されています。それはそれら建造物が後世の人々に「物言わぬ言葉」を訴える価値があると考えられたからに他なりません。

もっと下世話な話をすれば、気仙沼市枝折地区にまで流された「第16共徳丸」、あれが現地に保存されていれば気仙沼を訪れる修学旅行生はものすごく増えたと思うのです。会社所有の船でしたから難しかったとは思うのですが、気仙沼市はもっと強く積極的に説得してほしかった!

 

「そんな先までは‥」と思う方もおられるでしょうが、たとえば横浜港に係留されている氷川丸は今年(2018)で竣工から88年、係留されて57年です。でもまだある意味現役ですし、何よりも「横浜港散策に氷川丸」は鉄板系の訪問先です。乗船しなくても周辺を散策し、そしてその途中で買い物、ランチ‥。観光客が周辺地域で使うお金はものすごい額だと思います。

その意味で(喧嘩を売るようで申しわけありませんが)、あの船を撤去させてしまったことによる気仙沼市の未来にわたる損失はあまりにも多大であったと思わざるを得ません。そして「遺族の方々にとっては見るだけでつらい震災遺構」が、歴史的にも地域経済にとっても「未来への財産」となるということを各自治体の方々にもご理解いただければと思うのです。

すみません、個人サイトとはいえここまで自分の思いを書きすぎてしまったかもしれません。







南三陸町には「さんさん商店街(志津川)」「伊里前商店街(歌津)」という2つの仮設商店街がありましたが、2016から2017にかけてどちらも移設して本設の商店街となりました。特に伊里前の場合は「最初の仮設商店街」-「仮設の場所をかさ上げするため新たな仮設に移転」-「本設商店街へ」というひと手間面倒な手順を経ての本設営業となったわけです。

その最初の仮設からわたしは何度か来ておりまして、自分が春や秋のバイク通勤時に羽織っている南三陸町のジャンパーはこちらで購入したものです。で、こちらにおじゃましたときに立ち寄りたいのが右上画像の佐藤酒店さんです。

とはいえ訪問時に毎回顔を出しているわけでもないのですが(前回は何度声を掛けてもお店周辺に誰もおられずお酒購入断念のおまけ付きでした)、今回は若旦那(ご主人)がおられたのでお酒を購入しつつ‥



というようなことをお聞きしたところ‥



ということでした。ちなみにこちらの若旦那、南三陸町でもそこそこ有名な方のようで、このあと志津川に行っても「あぁ、(歌津の酒屋の)佐藤さんは有名ですよ」とうかがいました。というわけで、コンテナでの営業中に「あ、あれが一番恥ずかしい!」とご本人がおっしゃっていたこの動画を再掲いたします!(笑)。前置きが長いので是非2分過ぎからご覧下さい。センターにおられる白いシャツの方です!





そんなわけでお酒を購入し、ハマーレ歌津商店街をあとにします。目指すは志津川!

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