その1 まずは「お湯、花、武家屋敷、そして『穴』」。



いつものように偶然の成り行きでのバラ園訪問(苦笑)。

(2025/5/31-6/2 その1)

さてタイトル通りの中房温泉連泊旅行記です。中房温泉には山屋時代だと表銀座コースのスタート地点たる燕岳の登山口として何度もやってきましたが、さすがに「夜行急行でやってきてバスで登山口まで、いよいよ登り始めるその前にまずはひとっ風呂」という発想はありませんでした(当然)。

その後温泉ダー(造語)になった2005年には登山者用駐車場のさらに下流部にあった野湯に浸かりに来ましたが(この時です。この湯は現在日帰り温泉「湯原の湯」の「古事記の湯」の源泉として利用されているのかな?)、この時も本家中房温泉には足を向けずでした(昔も今も日帰り利用はできませんでしたし)。

そして初めて中房温泉に泊まりでやってきたのは2009年で、この時はロッジに宿泊し、印象はかなりよかったのですが、



このお出かけはTakemaオフキャンプFinalこの時です)の翌週で、職場が土曜休みOKとなり(普段は出勤)金土日の3連休が取れたため、それなら「あの中房温泉に連泊で籠もり、湯っくり温泉三昧というのはどうだ?」という算段に至ったというわけです。おしんこどんも賛成で、ハイ即電話予約となりました。

というわけでいざ出発です。先週に引き続きこの週末もお天気はイマイチのようで残念ではありますが、まぁ今回は宿に籠もっちゃえばいいので気が楽です。関越道から上信越道へと進み、さてちょっと寄り道の朝湯といたしましょう。









戸倉上山田温泉。2010には戸倉国民温泉に立ち寄り入浴し(この時)、2020には亀清旅館に宿泊し戸倉観世温泉にも立ち寄りました(この時です)。

で、今回は再びの戸倉国民温泉へと思って高速を下りたんですが、ちょっと道に迷った?こともあり、こちらの万葉温泉へ吸い寄せられたというわけです。まぁ未湯でしたしちょうどいいかなというところ。

撮禁ではなかったような記憶がありますが、先客さん多数につきもちろん自前の湯画像はありません。でも、様々な湯温の内風呂と露天風呂があり、しっかり全身洗いのあと湯をタンノーせん!



上3枚の画像は公式サイト画像を借用しており画像サイズのみ変更しています(上画像をクリックすると公式サイトが開きます)。ただ左上画像は当日の女湯かな、またぬる湯の手前浴槽にはお子ちゃまアヒル等はまだ浮いておらず、ぬる湯ファンの大人が(自分も含めて)まったりしておりました。

お湯はうっすらと硫黄臭を感じる戸倉上山田のデフォルトで、特に岩風呂や露天風呂でそこそこ強めに感じました。浴感トータルとして素晴らしく「また来たくなる」んですよねこの界隈のお湯って。



ロビーにはアヒルが大中小(&小々、小々々)サイズとも販売されていました。ネットで調べたことはありませんが、実売でここまでラインアップが充実しているのはなかなか珍しいんじゃないかなと。

さてこのあとは(ちょこっと雨も降っていましたがケムリタイムと合わせて)駐車場周りをめぐってみることに。



やっぱり一番気になるのはこのパンタグラフです。なぜにそこへ設置したのでしょう?まぁそんなにヘタリやすい機材ではないと思うのではありますが。

で、続いては真ん中のクルマ。うわ、三菱RVRではないですか!実はわれわれ夫婦が(中古で購入して)最初に乗り始めたクルマがこのRVRだったのです。しかしあれから20年余の幾星霜、ここ万葉温泉では同じRVRが「除雪専用車両」としての余生を送っているようです。ただこのエリアは冬期もそんなに頻繁な積雪があるように思えませんし、何だかバッテリー上がりやオイルのへたれ等のメンテ不良にならないか心配しちゃいます。公道はもう走れないでしょうから。ふと「115系のパンタ、RVRの上に設置すれば面白かったのに」とまで思っちゃいました。

さてさっぱりした後は少し戻って再び上信越道ICから長野市方面へとそのまま進むつもりだったのですが、






(駐車料金500円/日は妥当かと)

河川敷に車を止めてからは歩いて(歩くと腰や右足が痛いんですが)千曲川の堤防を越えてばら公園へ。











われらが千葉県市川市産の「ローズいちかわ」はご覧のとおり花びら落ちまくりでもう花期終了でした(しかしもうちょっとお洒落なネーミングにしてほしかったな、何だか場末の‥いや、これ以上は自粛ね)。この後はこのばら園を散歩していきます。



本当に、晴れていれば光の加減でもっと綺麗に見えた(写った)だろうにとは思いますがまぁしょうがない。なお自動の鮮やか補整も設定していませんので画像が暗めでゴメンナサイです。















あらぁ可愛いお名前だこと(和名じゃないよね?)。

平日の午前中なので人出も少なく(もっともわれわれが入場したときより明らかに人数は増えていましたが)、まぁ思いがけず楽しめました。

さて坂城町ばら公園の見学を終えて、次‥の前に早めのお昼ごはんとしたいところです。このあとはちょっと高速に乗っちゃうのでできればその前に‥でも坂城ICはすぐそこだし困ったなと思っていたら、ICへの分岐すぐ手前にありましたよ、「さかき農産物直売所 あいさい」!





ねずみ大根とはここ坂城町周辺で栽培されている辛味大根で、独特の形状(先がいきなり細くなり鼠の尻尾のようになる)ことからこのような名付けになっているそうです。



坂城町の公式サイト内画像をお借りしました(上画像クリックで公式サイトへ)。

そして「おしぼりうどん」とは、「この大根をすり下ろして絞った、その汁でいただくうどん」というわけです。ただしその大根汁だけだと辛いだけで味がないので、そこに出汁や味噌を加えたりしています(デフォルトでそれなりの味付け済みかセルフ味付けかはお店によるようです)。



おしんこどんはくるみうどん、Takemaは辛味おろしかけそばを注文しました。あれれどちらも「おしぼり」は頼みませんでしたね(笑)。今さらながら、自分は同じそばでも「おしぼりそば くるみ味噌」あたりを頼んでおけばよかったかな。案外冒険しないTakemaなのです(苦笑)。

それはともかく、おしぼりうどんに出合わしたのは今回が初めてではなかったはず。拙サイト内を検索してみると‥おお、2010年にお隣の千曲市でおしんこどんが食べていましたこの時です)。確かこの時もTakemaはお蕎麦だったかと。

どちらの料理もシェアしつつ美味しくいただき、ごちそうさまのあとはすぐに高速に乗って長野ICまで。



ええっと武家屋敷の見学などは予定になかったのですが、入場無料に誘われて?山寺常山邸へ。山寺常山は江戸末期に松代藩で寺社奉行などを務め、明治に入ってからは地元長野に残り、塾を開いて教育に力を入れたのだとか。

長屋門をくぐると池が見え、左手の書院と奥の蔵とが見学可能になっています。まずは書院から。大正末から昭和初期の建築らしいので、常山翁は知るよしもなかった建物です。



書院へは、渡り廊下を通っていきます。



渡り廊下から数段上がった先には二間続きの八畳間が。採光も良好で実に明るい部屋になっています。いっぽうで池側にあるもう一部屋は‥







こちらの池は大正時代にかなり手が入れられたようですが、引き水の量が豊富であるように見えました。蔵の近くに植えられていて、少し色づいてきたのはスモモでしょうか(不明)。このあたりの武家屋敷の庭には食べられる実が成る木を植えていて‥と書かれていましたから、この実も美味しいのでしょうね。

というわけで山寺常山邸の見学も終了です。というか、上で書いたようにこちらの見学はたまたまのおまけで、ここから歩いていくのがメインの目的地です。「長野IC近く」「(旧)松代藩」とくれば‥もうおわかりですよね。





ここ松代では太平洋戦争末期に「大本営及び政府機関、そして『皇居』までも移動させて国体の護持を図りつつ戦争の継続を目指す」という、陸軍による一大計画のもと地下壕が掘られました。その総延長は象山に掘られた地下壕だけでも5,854mにわたり、現在はそのうち500m余が公開されています。

われわれが壕の受付までやって来たときは、壕入口脇の慰霊碑前で仏教系の祈りが捧げられていました。ただ手にしている仏具の造作が日本の在来仏教のものとは違うような?もしかしたら在日の方々だったのかもしれません。この地下壕掘削作業には朝鮮半島出身者も動員されたようですから。

受付では市職員の方から(嘱託の方かも)人数と都道府県名を書くようにとの指示がありました。近くにはヘルメットが実に大量に並べられており、ここで「ははぁ‥」と。

実は、この松代エリアに入ったあたりで向こうから来る観光バスとすれ違っていました。関西の中学校名が書かれたバスは全部で8台でしたが、この奥にある観光施設といえばこの地下壕以外には考えられません。つまりは今さっきまで中学生たちに供されていたヘルメット群だったのだろうと考えたわけです。たまたま後で受付の人と地元の方との会話を耳にしたのですが、やはりあの修学旅行団体が来ていたようです。うーむ、バッティングしなくてよかったぞ!(お互いに)。結局、われわれの入洞中はほぼ貸し切りでした。

 









もちろん補強箇所はあります。当然でしょう。



奥に進むと少し狭くなりましたがまだまだ続きます。



掘っていいたときの削岩機ロッドが刺さったまま。



ようやく「半分と少し」の地点まで歩いてきました。壕内は全体に乾いており、地下水の流入は相当に抑制されているようです。もちろんそういう地勢ゆえこの場所が選ばれたのでしょう。というわけで開放エリアの終点まで行ってみましょ!

 

このトロッコ枕木、凹の部分が「枕木が朽ちてなくなり凹んだ」箇所かと思っていましたが、正しくは「凸部分の真下が枕木」だったんですね。

開放されているエリア内にはそれほど多くの「見どころ」はありませんでしたが、まぁもちろん「実用に供されたわけでもない」施設ですからほとんど何も残りようがなかったわけです。

この松代地下壕は終戦の約9ヶ月前ほどから掘られ始めたということですが、本土決戦を念頭に置いての作戦であり、昭和天皇は戦後になってからこの松代大本営地下壕のことを「無駄な穴」とおっしゃったとか。

 

というわけで表に出てきました。ええっとTakemaは脊柱管狭窄症を発症しているわけで歩くのは結構キツイわけなんですが、この日は坂城のばら園とここの地下壕と、結構歩いています。もちろん痛み止めの薬は飲んでいますが、自然治癒は考えにくいので追々どうにかしなきゃなぁというところです。

駐車場まで歩いていく途中に「さして古そうには見えない蔵(というか倉庫)」があったのですが、屋根下をよく見てみると(右上画像マウスオーバーで拡大)、あれま立体彫刻の大黒天様が打ち出の小槌を手にしておられました!下手前に見えているのは米俵ですから「豊作を祈願して」の意匠なのでしょうが、多くの場合は屋号等が記される場所に大黒天様とはちょっと珍しい気もします(このあたりでは普通なのかな?)。

さて松代にもずいぶん長居してしまいましたが、この日のお泊まりは長野盆地周辺ではなく安曇野エリアに位置する中房温泉なのです。「ま、高速を使えば余裕でしょ」と思っていたのですが、あらためてナビで調べてみると到着予定時間は‥



「『集合時間』とは何ぞや?」という疑問ワードも出てきましたが、とにかくここからは(ちょっと不要不急だった「本屋に寄り道」もしましたが)急げや急げで安曇野の穂高地区へと向かいました。

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