- その2 楢葉から富岡、そのあとR6経由で浪江、南相馬市小高区まで -



楢葉町内を流れる木戸川。もうしばらくするとこの場所に鮭漁用のやな場(ゲート)が設置されるはずです♪

(2018/8/29-31)その2

続いてやって来たのは木戸川漁協前の川辺です。この場所に最初に来たのは2016年の10月、震災後初めての鮭漁再開(木戸川での漁は「合わせ網漁」)、および漁協内採卵受精施設の見学もさせていただけるというお話に「ハイハイハイ!」と節操なく?すぐさま手を上げてやってきたんだっけ(その時のページはこちら)。

8月ラストのこの時期がまだ鮭漁の時期にほど遠いことはわかっていましたが、でも何となくまた見に来たかったんですよこの川を。ちなみに河口にほど近いヤナ場周辺でも水は澄んでいて川底に泥もなく綺麗でしたねぇ(右下画像マウスオン)。



すぐ脇には木戸川漁協の建物、そしてそのエントランス部には「鮭霊塔」が。この種の「人間以外の生きものに対する慰霊」の思いというのはある種仏教国特有のものなのかなと思います。少なくともキリスト教国では見たことがないですしたぶん教義え的にもその発想はないのでしょう(いいとか悪いとかの問題ではないですが)。

「いただきます」という声掛け及びその時の作法や思いを考えてみても、その根本にある宗教的な思いが「このような食事をいただくことができる幸せを神に感謝します」なのか、それとも「(お肉にしろ穀物にしろ全てに命が宿るゆえに)ご飯とはそれぞれの命をいただくことゆえそれらの命に感謝します」ということなのか。その両者には大きな違いがあります。

自分などは提供された食べ物を残すことに大きな抵抗があります。残すというのは「食べ物に大して失礼」という感覚があるのでしょうね(なお少食人種なので、外食時には「ご飯少なめにして下さい」がデフォルト)。いっぽうで中国のように「賓客には到底食べきれないほどの料理を出して歓待するのがマナー」という発想もあるようなので、何だかこのへんのところも文化人類学的に奥深い気がします。

そんなことはともかくとして、この時期は鮭もいないし人もいませんでのさて出発‥ん?あれれ?



漁協の建物の裏側にワンルームマンションとおぼしき3階建ての建物が2棟あるんですが、これは2016秋にはなかったような‥。この地域についてはグーグルマップ(俯瞰写真)のデータが古く、いっぽうでストリートビューのデータがそこそこ新しいので確認のため見比べてみてわかりました。やっぱりこの2棟はつい最近建てられたものなのだと。しかしワンルームっぽいということは住民向けの復興住宅ではなく作業員向けの宿舎というかアパートなのかな?

いずれにせよ楢葉の風景もどんどん変わっていることを実感しました。というか震災前、左画像に見えている未舗装の広場あたりには「木戸川観光食堂」なるお店があったことも初めて知りました。木戸川の鮭を使った料理を提供していたのでしょうね(場所柄漁協直営で)。うーん食べてみたかった!

グーグルマップ(俯瞰画像)の画像が古いと書きましたが、古いがゆえに「数年前のこの界隈」をのぞき見ることもできるわけで‥。




(川の北側にずらりと並んでいますし、漁協の右側にある青いのもそうかな?)

いや過去形で語るべきことではないでしょう。楢葉に限らずまだまだ相双地域内には生活地域の脇にあたりまえのようにフレコンバッグ集積エリアが存在しているのですから。それが自分のような旅行者の目に入るかは入らないかという違いだけのことです。

このあと、行ったことがなかったのでJR常磐線竜田駅に行ってみました。



駅前には数人の人影、タクシーも止まっていましたが商売になるのかなとやや不安になります。駅真ん前にある商店は閉店したままで(左上画像マウスオン)もう再開店の予定はないのかな(楢葉町の避難指示は2015/9に解除されています)。もちろん「戻らない」という選択をせざるを得なかったとすれば、わたしのような余所者がそれについてどうこう申し上げるつもりなど毛頭ないというかそんな失礼なことを申し上げるつもりもありません。ただ‥(右上画像マウスオン)。

駅前広場からほんの目と鼻の先に開店した「武ちゃん食堂」。ちょうど1週間前にこの地で再開業したばかりの食堂です。こちらのお店について地元の福島民友新聞には以下の記事が掲載されました(以下引用)。

東京電力福島第1原発事故で一時全町避難した楢葉町は5日、避難指示が解除されて丸3年を迎えた。「駅前活性化の起爆剤になりたい」。同町のJR竜田駅前で8月24日に老舗食堂「武ちゃん食堂」を再開させた店主の佐藤茂樹さん(55)と妻の美由紀さん(53)は、町の玄関口にかつてのにぎわいを取り戻そうと奮闘している。

4日正午。約30席の店内は町民や復興作業員でほぼ満席に。昼時を過ぎても客足は途切れず、佐藤さんは慌ただしく厨房(ちゅうぼう)を駆け回った。

原発事故後、佐藤さん夫婦はいわき市に避難。2014(平成26)年7月、町役場前に仮設商店街が開設されると、佐藤さんは「古里で腕を振るいたい」と出店した。今年6月、国道6号沿いに仮設商店街に代わる新たな商業施設「ここなら笑(しょう)店街」が誕生するまで、復興作業員らを食で支えてきた。

新たな商業施設には飲食店やスーパー、ホームセンターなど生活に必要な店舗が集まり、買い物客が集中している。佐藤さんも町から出店を打診されたが、先代で父の故武夫さんが1971年から店を営んできた思い出の場所に再び店を構えたかった。同駅は商業施設から東に約1キロ離れていて、客を呼び込めるのかどうか不安もあったが、7年半ぶりの再開を決意した。

同駅前には震災、原発事故前、飲食店や商店が10店舗ほどあったが、いずれも再開していない。楢葉町に住む人は3424人(7月末時点)で人口に占める割合は48%強まで回復したが、この数カ月間は帰還に向けた動きが鈍くなっている。「食堂が駅前に足を運んでもらえるきっかけになれば、ほかの店舗も再開し、戻ってくる町民が増えるかもしれない。踏ん張り時だ」。佐藤さん夫婦の二人三脚の挑戦は続く。


(以上、福島民友新聞 2018年09月05日WEB記事を引用しています。当該記事URLはこちらです)

今回は開店時間のしばらく前だったので外観写真を撮るだけでしたが、次回の楢葉訪問時には是非とも寄ってみたいこちらのお店です。「武ちゃん=Takema」にも近いですしね(笑)。

で、このあとは少し戻る感じで常磐線の列車の踏切通過を見届けつつ、楢葉町の復興エリアへと向かいます。え、ええ!?





ええっと、この流れはちょっと作為的というかタイムライン的には正しくないんですが(実は木戸川漁協から竜田駅に向かう往路で目にしていました)、まぁ復路記事ということでお許し下さいませ。

そんなことはともかくとして、この高台からこの住宅街を一望した時はびっくりしました。2年前(2016秋)にはポツンポツンと家々を建設中だったこの場所が、まさかの住宅街になっているとは!しかも、見た限りでは入居率も高い?ここで思うのが、この戸建て平屋住宅を並べた意味です。これはもしかして「先行して建てられた災害復興住宅が抱えた諸問題をふまえた街づくり」なのでは?

「仮設住宅から本設の復興住宅へ」。これは被災者の方々はもちろんのこと各自治体も「一刻も早く」と願い、頑張った結果進んだものであることは間違いありません。

しかし、特に仙台近隣に多いと思うのですが「中層のマンション形式」を建設した結果、住民同士の交流が少なくなり高齢入居者の孤独感が倍加したという記事を読んだことがあります。中には「仮設の時は良かったよね、みんないつもすぐそばにいたから」とおっしゃる人もおられたそうで(自分は部外者ゆえ直接お話を伺っていませんが)。

都会でもマンションの隣人同士の交流が少ないことはかねてからいわれてきまし、復興住宅にも同じことが起きているのだなと思いました。かつてのコミュニティを分断された方々が各戸に住んでいるという点では都会のマンションとある意味同じです。もちろん「公民館的コミュニティスペース」やそこでの「交流イベント」は各種用意されていることでしょう。でもそれは「あえてそこに行けば誰かがいるかも or 具体的な目的があって行く場所」であり、



この平屋建ての住宅群。生活上のプライバシーという点ではマンションに劣るかも知れません。でも、もともとここ楢葉に住まわれていた方々がそんな都会的なプライバシーを求めているか否か。そしてどうしても高齢者の比率が高くならざるを得ない中での復興住宅&街づくり‥そう考えると、



しかもそれだけではありません。生活に必要な日常使いのスーパーやホームセンター、それは‥




(ちなみにスーパーもホームセンターも個人商店も飲食店もあります)。



ここに思いきり楢葉町の開き直りを見た気がします。復興住宅や商業施設をこの周辺に集めることにより利便性を確保。町内の平準的な復興を行う余裕はないので、まずはここをベースに市民生活の再開再興を目指すということなのでしょう。それを象徴するがごとく、エリア内には「みんなの交流館ならはCANvas」という公共交流施設もオープンしています。



ただしこちらの交流施設には平日の午前中とはいえ館内はほぼどなたもおらず(ちなみにエントランスに靴が何足か置かれていたので「土禁?」と思ったのですが靴ロッカーはなし。でもその旨を聞こうにも近くには誰もいなかったので結局勇気というか根性なしで入口自動ドアから左上画像を撮るにとどめました)。左上画像のエリアには「みんなのリビング」という表示がありましたが、千葉県からやってきた自分はこの「みんな」に属するんでしょうか。

結局内部の見学はしませんでした(したかったんですよ)。でもその前に買い物をしていたコメリや喫茶におられた地元の方々の会話の内容からも「この交流館は『公民館=地元の人の交流の場』なのかな」と感じ、すごすごとその場をあとにして右上画像のコーヒー屋台に進んだというわけです(右上画像マウスオン)。この日は暑かったのでアイスコーヒー、おいしかった♪



このあとは福島第二原発の分岐を直進して(当然)富岡町へ。まずは富岡駅前にやってきましたが‥



もっとも自分が旧富岡駅を初めて訪問したのは2014年の3月でしたから、自分の中での富岡駅原風景は津波被災後のものなんですけれどね(その時の様子はこちらのページに)。



駅前広場から南側を眺めますが、旧駅は100mほど南にあったかな、ちょうど工事中の橋のあたりに駅舎跡があり、右上画像のフェンスのあたりが商店や住宅が建ち並んでいた場所ではないかと思われます。なおGoogleマップの画像は2018/9現在旧駅時代のままながら、すでに新施設の表示が為されているので位置関係を確認しやすくなっています(いいのか悪いのか)。



Googleマップより。地図の右下に「出入口」と書かれているところが旧駅です。



駅舎の隣には「さくらステーション KINONE」(売店及び喫茶軽食)という施設があり、お蕎麦なども食べられますし、何と!今のところ日本で唯一川内村だけに店を構えるタイ発のカフェショップ「Cafe Amazon」(「アマゾン」ではなく「アメィゾン」と発音します)の豆を使ったコーヒーも飲めるのです!(ただし手淹れではなくコーヒーマシン式ですが)。この日は本当に暑かったので、先ほど楢葉でアイスコーヒーを購入したにも関わらずこちらでもアイスコーヒーをば。

と、ここで浪江からのJR代行バスがやってきました。ざっと数えてみたところ乗客は若者比率高めで15-16人だったかな。全員が駅舎およびKINONE方面に吸い込まれていったので、富岡在住の方はおられなかったようですね。ま、震災前から富岡と浪江では経済圏(商圏)も違ったみたいですし、それほど人の行き来は多くなかったのかもしれませんが。



続いては市街地にて営業を再開した「さくらモール とみおか」へ。しかし飲み物は買っちゃったし、お昼ごはんはこのあと南相馬の小高区でいただくつもりだったので、唯一買い物をせず見学だけになってしまってすみません。次回訪問時には必ず何か購入します。

R6との交差点の向こう側には双葉警察署があります。最初に富岡を訪問したころはまだ楢葉の仮庁舎(ならは道の駅を使用、2018/9現在も分庁舎として存在)に機能移転していましたが、2017/3、こちらに本庁舎機能が戻されました。この警察署の管轄は南は広野町から北は浪江町まで、さらには内陸の葛尾村や川内村までと幅広く、そしてその管轄町村の多くの町村が避難指示区域に指定されたことのある(or 現在も指定されている)自治体というわけです(厳密にいえば広野町だけは「緊急時避難準備区域」に指定されたものの、「避難指示」は出されていません。その区域指定も2011/9には解除されています。なお、自分が2011/11に広野町を訪問した時のページはこちらから)。

説明が長くなりましたがもう1つだけ。この双葉警察署の隣の岡内東児童公園には「被災時に地元住民の避難誘導にあたる中で津波の襲来を受け殉職なさった警察官(2名)」の乗務していたパトカーが移設保存されています。いつも多くの花々が飾られているのは、ご遺族だけでなく警察署関係者のお心遣いによるものなのでしょう(今回は撮影しませんでしたが)。お2人のご冥福と警察魂に「合掌」。

なお公園には警察署の裏の道を通っていく必要がありますので事前にご確認下さいませ。

ところでこの双葉警察署の向かい&さくらモールとみおかの隣には東京電力のPR施設「(旧)エネルギー館」があったんですが、リニューアルして「東京電力廃炉資料館」になるのだとか(2018/11開館予定)。



ここからはR6の帰還困難区域内を進みます。左上画像は帰還困難区域の南側境界手前、右上画像はそこから少し進んだ場所で、R6再開通直後にはなかった放射線量表示板があります。画像では見にくいのですが、この時の線量値は2.089μSv/hと表示されていました。以前に比べてずいぶん低くなったようです(もちろんこれは除染済みの道路周辺の数値ですが)。



メディアの報道やネット上でもよく出てくる大熊町熊町地区のバリケード通り。しばらく進むと福島第一原発との分岐です。



その北側「長者原」。以前おしんこどんが「いい地名なのにね」と呟いていました。北部境界近くの表示は「0.910μSv/h」。

このあと浪江町との町境で帰還困難区域は終わります(右上画像マウスオン)。この区域内は基本的に(一部を除いて)除染が行われておらず、通るごとに荒廃というか自然に還りつつあるなと思うところもあります。でもR6から分岐する主要支道のゲートには日中係員の方々が常駐しています。帰還困難区域内で作業なさっている方々、そして回数や時間に制限があるとはいえ許可を受けた上で区域への入場をなさる避難民の方々に対応するためなのですが、もちろんゲート付近は念入りに除染されているとは思うものの‥ありがとうございます。

なお今回の車載ビデオ動画はアップしませんが、2015/3にR6を浪江町から富岡町に南下したときの動画(ノーカット)をアップしたページがこちらにありますので、興味のある方はどうぞ。季節の違いはともかく、沿道の風景はほとんど変わっていません。

それにしても「帰還困難区域」という名称はどんなものでしょう。「帰還困難」で「今後も住めない」はずのいろんな地域がすでに「指示解除」されていますし、地域部外者であるはずの自分も「帰還困難だったはずなのになぜ解除するんだろう(出来るんだろう??)」と違和感を感じた記憶があります。

最初の頃に使っていた「警戒区域」のほうがよほどわかりやすかったのでは?現在の「帰還困難」という名称は変な先入観(思い込み)を抱かせるだけだと思います。ま、これについても各自にいろいろなご意見があると思うのですが。

このあとは浪江町に立ち寄りました。でも役場近くの商店街ではなく別の場所に。



立ち寄ったのはJR浪江駅。この駅に来たのはこの世に半世紀以上生きてきた自分にして2回目、しかも「前回」は今から40年以上前、自分が中学1年生の時でした。

これまで何度かサイト内で書いたことがありますが、自分には中1の夏、親に部活動(山岳部)の合宿だとうそをついて合宿費をせしめ、そのお金で当時の東北ワイド周遊券(14日間有効)を購入し、東北を鉄道旅行したという「ブラック過去」があるのです。その時の行程は以下の通りです。いずれにせよ40年以上前の話なんですが(苦笑)。


昭和53年(1976年)夏、13歳にして初の一人旅旅行日程表
 1日目 東京~(確か夜行)~会津若松~(磐越西線 阿賀野川を眺めながらゆったりゆったり走る列車に、子供ながら初めて旅情だか何だかを感じた記憶が。ちなみに当時の客車の椅子はニス塗りの木造り、窓の日よけは金属製でしたっけ)~新津~(羽越本線)~坂町(駅寝)
 2日目 坂町~(米坂線 夏休みとはいえクラブ活動か何かで乗ってくる中高生の中で小さくなってました)~米沢~(奥羽本線 当時はチョコレート色の客車がスイッチバックで福島盆地までゆっくりゆっくり下りていったっけ)~福島~(国鉄バス 阿武隈山地のほのぼのした雰囲気が好きになった原点はこの時見た風景にあると思います。特にタバコ畑がすばらしかった)~浪江~(常磐線)~仙台では駅の広い待合室で2泊しました(松島に行ったりしました)。待合室で寝苦しい夜を過ごした朝、「現場」に出るおっちゃん(今考えればこの人も宿に泊まるお金がなかったらしく駅寝)に半ば強引に誘われ、「その道の人々御用達の食堂」へ連れられていき、初めて『現場労働者の朝飯』を頂く。「食わなきゃ働けんからなぁ」の言葉は今でも覚えてます。
 3日目 仙台~(東北本線)~盛岡(盛岡駅で寝たんだっけ?記憶なし)
 4日目 盛岡~(山田線-釜石線経由で一周する急行に乗って北上山地をぐるりと一周(ただし遠野で下車し、カッパ淵を見に行った記憶あり。柳田国男があの時生きていたら目を回したでしょうな、自分の長年の調査場所に中学1年生が1人で来てたんだものね)。たぶん花巻駅で泊まった?(記憶曖昧)
 5日目 花巻~八戸まで行き、八戸線で普代まで。今は久慈までがJR、その先は三陸鉄道になってますが、当時は普代まで国鉄路線、その代わりその先は開通見込みなしという状態でした。で、この時初めて無人駅の野宿を体験(のちにNHKの連ドラ「あまちゃん」で「袖ヶ浜駅」として登場した堀内駅)。小さな待合室で寝たら、一晩で200箇所以上蚊に刺された。後にも先にもそんなのは初めて(あたりまえですね)。
 6日目 確かバスで北山崎とかに行った記憶があります。当時あのあたり(三陸海沿いの路線)は国鉄バスが運行していたと思うんで、ワイド周遊券ならタダだったんですね。そのかわり、私鉄バス運行路線には全然行かれませんでした。宮古駅からほど近い浄土ヶ浜も憧れていたっけなぁ、
 7日目 普代付近~(八戸線)~八戸~青森(青函連絡船の待合室に泊まりました)。しかし今思えば、あそこは夏の家出少年少女の草刈り場だったでしょうに、私がとっつかまらなかった理由は今でもわかりません、はい。
 8日目 青森から朝一番の国鉄バス「みずうみ号(今でも名称は変わってないのね驚いた)」で休屋(現「十和田湖」)まで行き、確か乙女の象まで往復して、再び青森駅へ。そのあと夕方の列車で弘前へ、弘前駅泊(長距離線のターミナルではないので誰も駅寝しておらず構内も真っ暗。そんな中改札のすぐ横で新聞紙を敷いて寝ました。13歳と1ヶ月になったばかりの少年としてはあまりに大胆?
 9日目 朝4:50頃に弘前を出発する五能線に乗り、記憶に間違いがなければ海が目の前に広がる「驫木(とどろき)駅」にて下車、無人駅なのでそのまま宿泊。
?日目 どこで寝泊まりしたかは覚えていないが、いずれにせよ常磐線経由で千葉の自宅に戻り、何気ない顔で「ただいまぁ」と言った瞬間、Takema母から「ん?こ、こら、どこに行ってたの!」と瞬時にばれる。何でも姿が浮浪者のように汚かったので「これはおかしい!」とピンときたそうだ。そりゃそうだよなぁ、宿に泊まることはなく全部駅寝だったはずだし、風呂とかに入った記憶もないもんね(苦笑)。

ま、はっきりと言えるのは13歳のTakemaはすでにしてお出かけ大好きそのもの人間だったということです。途中警察の方のご厄介(補導)にならなかったのは奇跡といえるかも知れません。ま、家出したつもりは毛頭ありませんでしたが(笑)。

そんなわけで41年ぶりに浪江駅にやって来た自分です。駅舎は当時の記憶の通り平屋建てで、wikiってみると「1976年に駅舎改築」とありますから往時の建物そのままでしょう。



しかし、現在浪江駅にやってくるバスは常磐線不通区間の代行バスがメインなんですよねぇ‥。



駅前に人の気配はほとんどなく車が時折通りがかる程度。あ、駅前の3階建ての建物を取り壊す重機の音は間断なく続いていました。避難指示は解かれたとはいえ、戻ってきた人の数はまだ1000人にも満たず(2018/7現在805人/浪江町発表)、今後この町がどのように歩んでいくのか、気になるところです。

このあとはさらに北上して南相馬市小高区を目指します。小高区は2016/7まで避難指示解除準備地域となっていましたが、その当時も地区への立ち入りは自由で、指示解除の前から「おだかのひるごはん」などのお店が先行的に営業を始めていました(その当時の訪問ページはこちら)。近隣の方々(まだ戻ってはいないが日中自宅の手入れに来る方々)や除染、または家屋取り壊し等の作業員の方々が多く利用なさっているようでした。

で、その避難指示解除前から営業を再開していたもう1つのお店、それがこちらの‥





こちらに初めて来たのは避難指示解除の数日前だったと記憶していますが、お寿司が実に美味しかったこと(あ、お寿司やさんなんだからある意味当然か)、そして食べ終わって外に出ると、地元の方々が自分の車を見ていて「習志野から?お仕事で?」と、われわれ夫婦がただの旅行としてここ小高区にやって来たことが信じられない様子でした。「われわれはもういい年齢だからどうでもいいけどね、いったいどれだけの人が戻って来るやら‥」とおっしゃっていたことを覚えています(その時のページはこちら)。

でもその後、住民登録数約8406人のうち4970人が小高での暮らしを再開し(ただし震災前の住民登録数は12840人、以上南相馬市資料より2018/4/30現在)、また小中学校の再開校や小高産業技術高校の開校など、少しずつ前に進んでいるようです。



こちらは震災後小高区に移住なさった芥川賞作家柳美里さんが経営する書店「フルハウス」。残念ながら営業時間前でした。



街並みがこざっぱりしたように見えるのは、生活再建を断念した方々の住宅が解体されたからでしょう。これもまた現実。



「菓詩工房 わたなべ」さんも、この地での営業再開は断念した様子です。以前は「必ずここに戻ってくる」との幟(右上画像マウスオン)を掲げていたんですが。なおこちらのお店は同じ南相馬市内の原町区で営業を再開しています。



エンガワ商店で飲み物を購入してちょっと休憩。駅の方に行ってみました。ここも、最初に来た時はまだ列車休止中だったんだよなぁ‥。





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